第2話 インプロヴィゼーション

 結婚してまもなく。 

 喧嘩をして妻が家を飛び出して行きました。


 原因は些細なことで。

 喧嘩になる要素も、ましてや家を出て行く原因になるとは考えにくい程のことでした。

 私は待つか追うか思案し、少し遅れて外に出ました。

 アパートの廊下から下を見ると、妻が重い足取りで歩いているのが見えました。


 ふと、昔付き合った女性の顔が脳裏を掠めました。

 小悪魔的に口角を歪めた表情が、鮮明に。


 あの日、突然我儘わがままを言い出した彼女を、私は置き去りにして先へと歩き。

 数歩進んで振り返ったときに見えた、うつむいた顔から覗く口元。


 ───合格よ───。


 その表情はそう語っていました。

 先程までの態度が嘘のように、街並みを晴やかに見つめながら歩き出した彼女を見て。

 私は『試された』ことに気付きました。


 女性は「腕力」以外の全てを持っています。

 男性より長く生きる生命力を。

 子を産むという、自分が生きた証を創造するという能力を。

 母性という癒やしを。

 

 そして自分を暴力から守る術を得た時に。

 彼女たちはオーディションを開始します。

 この男は自分を守ってくれるのか。そして裏切らないか。

 自分を何処までゆるすのかと。

 どこまで自分の「歪み」を許容するのかと。

 愛に飢えているほど過激に。


 女性が始めた即興劇インプロヴィゼーションに。

 男はすぐにアドリブで応じなくてはなりません。

 演技であるとバレることも許されない舞台にいきなり立たされたとしても。

 相手の意図を読み、要求通りのキャラクターを完璧にこなさなければなりません。


 付き合っていたころの妻はそのよう素振りは見せませんでした。

 結婚を機にオーディションを始めたと気付いた私は。

 これから死ぬまで続く試練の難易度を測りながら。

 追いついた妻の肩を恐る恐るそっと抱きしめ。

 泣いている妻を黙ったまま家まで連れて帰りました。


 そもそも人は、生まれた瞬間ときから舞台に立たされます。

 フリーなら劇団を移るとか脚本を自分で書くなどの自由はありますが。

 結婚という契約を交わした後は舞台から降りることはできません。


 違約金を支払うことになるのです。

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