第6話

「失敗だったかもしれない」


 真田が目の前で人の波に飲み込まれていくのを眺めながら、僕は後悔していた。こんな目にあうなら来るんじゃなかった。


「どこからこんなに人が集まってくるんだろうね」と隣で隆介も嘆いている。


 僕と隆介はスタバを出てすぐの道で立ち尽くしていた。スクランブル交差点の前にはたくさんの人が集まっていて、歩行者用信号が青に変われば歩き、赤なら車が通る。当たり前の動きが行われている。だがあまりにもたくさんの人がいるせいで、青になった直後から前にしか進めなくなり、後ろに下がろうものなら弾け飛ばされそうなほどだった。それくらい人がいた。


 例年、ハロウィンの日になると、テレビやSNSでは渋谷の街にたくさんの人々が集まる様子が映し出される。警察が出動しないと、まともに歩くことすらできないほどの人の山。僕は毎年この時期になると動画共有サイトに訪れて、スクランブル交差点の定点カメラを見ている。だから今年も歩けないほどの人が集まることくらいわかっていた。だがいざこれほどまで人が多くいるのを目の当たりにすると、思わず圧倒されてしまう。


 信号が変わる直前、僕は恐怖に足がすくんでしまい、隆介の腕を掴んで待つように頼んだ。一旦交差点から離れて、空いているところで人の流れを眺める。その流れが落ち着いてから交差点を渡ろうと思った。しかし信号が変わった直後、隣に真田の姿がなかった。僕は焦るあまり彼の存在を忘れていた。


 真田が消失した、と思い周りを見回すと、交差点を渡る人々の中で一人、逆方向に抗う男を見つけた。真田だった。彼の周りにはコスプレをした女性たちが多くいた。女性たちに囲まれるようにして、中にただ一人真田がいた。


 そんなこともあって、痴漢に間違われるのを恐れたのだろう。両腕を上げていて、その体勢のまま僕らのところに戻ろうと必死でもがいていた。だが、為すすべがないようだ。「出せー」と必死で叫んでいたが、濁流に飲み込まれるようにして彼は消え去ってしまった。僕らはもう二度と、再会できないだろう。そう覚悟するほどだった、というのは嘘だが、姿を見失った。


 たった数十メートルしか離れていないはずなのに、今生の別れをしたような気持ちになった、というのも嘘だが、あいつはなんで一人で行ってしまったんだ。


 僕らは真田がもう一度こちら側に渡ってくるのを祈りながら待った。連絡すれば一発だったろうが、面倒なのでやめた。そうして数分待っていると、向こうから歩いてくるのが見えた。思いのほか短いお別れの時間だった。


 真田は僕らの元に近寄りながら「なんで来ないんだよ」と不満げだった。


 それに僕は「どこに行くかもまだ決めてないんだから、勝手に一人で行くなよ」と言い返した。


「それもそうだ」


 すぐに納得したようだった。


 僕らはスクランブル交差点と、そこを歩くたくさんのコスプレを見ながら、話し合うことになった。


 真田が言う。「当初の目的は露出度の高いコスプレ女たちを見ることだったが、いまのでもうお腹いっぱいになった。想像以上にたくさんのコスプレ女たちを見ることができたし、今日だけで一生分の素肌を目にした気もするが、やはり俺は下の話が嫌いなのかもしれない。俺の中には性に対する許容量というものがあって、それをひとたび超えてしまうと、途端に拒否感を抱いてしまう。今日みたいな性の洪水に飲まれるような状況は、俺には向いていないんだろう」


 いきなり何を言い出すのだと思い、僕は真田の顔をじっと見た。いつものように何も考えていなさそうな顔をしている。目はぱっちりと開いていて、眉は真っ直ぐ。口も真っ直ぐに閉じられていて、表情と呼べるものは何も浮かんでいない。真田は変なことを言い出すとき、いつもそんな表情をしている。今日いきなり「露出度の高い女を見に行こう」と言い出したときも、この表情をしていた。そして突然気が変わってもこの表情だから、彼はとことんよくわからない男なのだ。


「何をいまさら」と隆介は疲れたように言った。「お前が無理やり連れてきたくせに」


「仕方ないだろ。男だからって、性欲は無尽蔵じゃない。数時間前までは昂ぶる心があっても、いまは萎びてしまっている。これはどうしようもないことなんだよ」


「気難しい奴だな本当に」


「ならお前が先導すればよかっただろ」


「はっなんで」


「文句ばっかり言うからだろうが!」真田はいきなり逆ギレした。


「ちょっと。真田が連れてきたんだから、最後まで責任を果たすべきでしょ」


「うるせえ、お前はいつも俺のことを言い負かそうとしてくるよな。俺がちょっと議論に弱いからっていい気になりやがって。洋太のほうからも何か言ってやってくれよ」


 どうやら真田は自分が無理を言っている自覚があるらしい。そこは少し驚くべきことだった。ともあれ、僕としてはどっちでもよかった。真田に連れていかれて歩き回るのでもいいし、隆介が先導するのでもいい。いっそのこといますぐ帰るのでも良かった。ただ、このまま真田の言うに任せて隆介に先導を頼むのも、それはそれで楽しそうだと思った。なので「そうだそうだ」と野次馬根性を発揮した。


「ええなんでー」と隆介は大きくのけぞった。


「はい二対一でお前の負け。俺らの勝ちだから隆介が責任取れ」と真田は子どもじみた口ぶりになって、責任を丸投げした。


「はいはい」


 隆介は大きなため息を吐いた。そして面倒になったようで、交差点に向けて歩き始める。どうやら先導してくれるらしい。


 信号を待ちながら話していると、隆介が渋谷ヒカリエに行ってみたいと言い出したので、駅の方向に戻ることに決まった。渋谷ヒカリエというのはショッピングモールのことなので、このまま行けば何の不純さもない平和なショッピングで終わりそうだ。が、歩く途中でコスプレ姿の人々を嫌でも目にすることになるだろう。その意味では、真田の言う「露出度の高い女を見に行こう」との誘いもおおむね達成できるはずだ。別に達成目標を立てているわけではないけれど、一度乗りかかった船なのだから、未達成に終わっても消化不良のままだ。少しくらい盗み見たってバチは当たるまい。


 そうして信号が青に変わり、僕らは人々の流れに乗って歩き始めた。道路内にはすでに複数の警察官が立っていて、誘導棒を振り回しながら警笛を吹いたり「押さないでください」と警告したりと、忙しなく動き周っている。


 僕は群れになって泳ぐイワシのような気持ちで歩いていると、途中、数人の若者が群れから飛び出した。彼らはF1レーサーの格好をしていて、両腕を平行に上げながら「ぶんぶーん」とか「俺らは車より早いぞー」などとわけのわからないことを叫び、対面する歩道までの道のりをジグザグ走り回っている。これもレーサーのコスプレにちなんだ行動なのだろうか。


 それを目にした真田が「俺も車より早く走れたらいいのに」と隣で呟いていたが、僕と隆介ははぐれないよう歩くのに必死で、何も反応できなかった。


 交差点を渡りきると、振り返って先ほどまでいた場所を眺めた。僕たちの群れが消えたと思ったら、また新たに群れが作られている。人々がどこから湧いてくるのか、不思議に思う。信号を待つ群れが入れ替わるような形で新たに生まれていく。数分後にはまた新しい群れができる。このような新陳代謝は毎日、四六時中続いている。東京にいる人々は、一体どこから来て、どこへ帰るのだろう。なんてつまらない考えに浸っていると、近くで警察官が、何かを囲んでいることに気がついた。よく見ると、中心には先ほどジグザグ走りをしていたレーサーがうずくまっている。怪我をしている様子もなく、説教を受けているようだった。どうやら警察に目をつけられたらしい。僕は真田の肩を叩き、「車より早く走るとああなるぞ」と教えた。


 真田はこちらに振り返って「車より早くなんて走れないからな」とさも当然のように言った。当然のことなので僕は頷いた。

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