第1章:雨夜に影を拾う - 3「影の軽さと重さ」

クロ ーーーーー

いや、黒田航くろだ わたるは、職場でもプライベートでも「クロ」というあだ名で呼ばれていた。

それは名字の「黒田」に由来する単純なものだったが、

幼少期に「黒い=不吉」「あまり目立たない=黒子=クロ」といった理由でからかわれた経験があり、

侮蔑の意味を込めてそのあだ名を使われてきた彼にとっては、あまり良い思い出はない。

その呼び名が、「存在感の無い自分」彼の存在そのものを象徴しているように感じていたからだ。


その日、会社に向かう通勤電車の中、航はいつものように吊り革に掴まり、スマホでニュースを眺めていた。

今朝、カゲに影を喰われた影響か、胸の奥が妙に軽い。重苦しい何かが削ぎ落とされたような感覚がする。

それを明確に認識したわけではないが、確かに何かが違う。

「……まあ、気のせいだろうな。」

つぶやいて、周囲を見回す。いつものように誰もが無言でスマホに向かっている。

目を合わせることもなく、ただ揺れる車内でお互いに存在をスルーし合う。

それはそれで居心地が良かった。どうせ誰も自分のことなど気にしていない。


会社に着くと、航はエントランスで同僚の田辺に出くわした。

田辺は入社年次が近い先輩で、普段から軽い雑談を交わす程度の関係だ。

「おはよう、クロ。」田辺が軽く手を振る。

「おはよう、田辺さん。」航は少し笑みを浮かべて返した。田辺はいつもこの調子だ。

親しみを込めて「あだ名」を使ってくるが、別に特別な意味があるわけではない。

「なんか、今日は元気そうだな? 昨日はやけに疲れてたけど。」

「そう見えるだけじゃないですか? 昨日も特に変わったことはなかったですよ。」

そう言いながらも、航は自分でも驚いていた。確かに昨日より気分が少し軽い。

あのカゲに影を喰われたからなのだろうか?

そんなことを考えながらエレベーターに乗り込む。


デスクに着くと、今日もまた「存在感の無い自分」が職場に馴染んでいくのを感じる。

朝の挨拶が終わり、メールをチェックし、書類を整理していると上司の大島が声をかけてきた。

「クロ君、この資料だけど、取引先から催促が来てる。先方への対応お願いできる?」

「わかりました。」航は即答した。

「助かるよ。君は空気を読んで動けるから安心だ。」

上司のその言葉に、航はいつものように心の中で苦笑する。

空気を読んで動く、つまり目立たず、黙って指示をこなすだけの存在ということだ。

けれど、それ以上求められないのも気楽だった。

自分に期待されるのが怖かったから。


昼休みになり、航はオフィスを出て近所の定食屋に向かった。

いつものように一人でカウンター席に座り、ランチを注文する。

「いらっしゃい、クロさん。今日もカツ丼でいい?」店員が親しげに声をかけてくる。

「ええ、いつも通りでお願いします。」

この店では、常連として覚えられている。何も特別なことをしたわけではない。

ただ、同じメニューを頼むだけで「あだ名」で呼ばれるようになった。

それも、彼にとってはある種の「いつもの風景」だ。

「クロさん、今日元気そうじゃない?」

「そうですか? あんまり自覚はないんですけど。」

「いやいや、なんか顔が明るいっていうか、雰囲気が軽い気がするよ。」

航は曖昧に笑ってやり過ごしたが、確かに自分でも感じている。

昨日までの重苦しさが少しだけ和らいでいるような気がする。影喰いの効果なのだろうか?


帰宅後、リビングのテーブルに座ると、カゲが部屋の隅で丸くなってじっとこちらを見ている。

「おかえり、影の薄い人間。」

「ただいま、猫に見せかけた毒舌家。」

カゲは軽く伸びをしながら言った。

「今日も存在感を消すプロフェッショナルだったんだろ?」

「お前が言うと、なんか腹立つな。」


「んで、今日はどうだった? 俺の影喰いの効果、実感できたか?」

航は椅子に腰を下ろしながら、カゲの問いに少し間を置いて答えた。


「正直、よくわからない。でも、確かに……なんて言うか、ちょっとだけ楽になった気がする。」


「ほらな、俺様のおかげだ。」カゲは誇らしげに尻尾をピンと立てた。

「で、何が楽になった?」


「……うーん。」航は腕を組み、天井を見上げた。

「胸の奥にあった重たい感じが、ちょっと軽くなったかな。特に何かが解決したわけじゃないけど……それでも、前よりはマシっていうか。」


「まあまあ、そういうもんさ。お前の心のゴミ、俺がちょっと片付けてやったんだよ。」

航は少し考え込んだ。

影喰いという不思議な体験をしたばかりで、まだその意味や効果を完全には理解できていない。ただ一つ言えるのは、その感覚が悪いものではなかったということだ。


「……なんだろうな。」航はぼそりと呟いた。

「スッキリするんだけど、同時にどこか妙な感じが残る。」


「お、初体験の感想としてはまずまずだな。」カゲがクスッと笑った。

「でも、妙な感じってなんだよ?うまく言えないけど……スッキリしたはずなのに、何か取り戻せないものがあるような気がする。」

カゲはじっと航を見つめた。その目には、いつもの軽薄さとは違う、どこか鋭い光が宿っていた。


「お前、それが何なのか考えたか?」


「いや……別に。」航は曖昧に首を振った。

「でも、影喰いってそういうもんなのか?」


カゲは口元を吊り上げて笑った。

「さあな。俺にとっては飯を食うのと一緒だ。ただ、消化しきれない何かが残るってんなら、そりゃお前次第だ。」


「俺次第って……どういうことだよ?」


「深く考えんなよ。影喰いなんて、ただの便利なストレス解消グッズだと思っとけ。」

カゲは軽く尻尾を振った。

「それとも、そう簡単に片付かないことがあるって気付いたか?」

航は答えずに視線をテーブルに落とした。

その表情には、どこか消化しきれない思いが滲んでいる。

影喰いによって得られた軽さが、果たして本当に自分のものなのか

――そんな疑問が心のどこかに引っかかっていた。

「まあ、気楽に使えよ。」


「お前がそう言うなら、そうするよ。」


航は椅子の背にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。

胸の軽さと心の奥に残る違和感。

その二つが奇妙に混ざり合い、彼の中で何かが静かに動き出しているような気がした。

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