第1章:雨夜に影を拾う - 2「影喰い」
その夜、航はやけに夢見が悪かった。
漠然と何かに見られている感覚が付きまとい、目が覚めるたびにベッドの周囲を確認した。
リビングには行けなかった。
翌日の朝、航は重い頭を抱えながら起き上がった。
睡眠不足のせいだろう。昨夜の不気味な感覚が尾を引いているのか、体がだるい。
リビングへ向かうと、テーブルの向こう、ソファの上に置いたはずの黒猫がじっとこっちを見ているように見えた。
「……やっぱり、変な拾い物しちまったかな。」
航は苦笑いを浮かべながら、昨夜の記憶をたどった。
ただのぬいぐるみなのに、その存在感がやけに強烈だった。
気のせいだと自分に言い聞かせ、朝食の準備に取り掛かる。
トーストを焼く間、視線がどうしてもあの猫に向かってしまう。
ポップアップトースターがカチンと音を立てて飛び出す。
バターを塗り、コーヒーを淹れて、リビングのテーブルへ運ぶ。
猫の前を通り過ぎるとき、軽く振り返ったが、やはり何も変わらない。
ただそこにあるだけだ。
食事を終えた航は、ふと猫の前に座り込んだ。
こうして目を合わせると、やはりただのぬいぐるみのはずだ。
頭を撫でるように触れると、その柔らかい素材感がやけにリアルで、本物の猫を撫でているような錯覚すら覚える。
「お前さ、何者なんだ?」
その質問は、もちろん返答を期待したものではない。ただの独り言のつもりだった。
しかし――
「俺はカゲだ。」低い声が響いた。
航は驚きのあまり反射的に後ろへ飛びのく。
「な、なに・・・・!? 今、喋ったか?」
黒猫が動いていた。布地の耳がピクリと揺れ、丸い目が航をじっと見つめる。
ついさっきまで無機物のはずだったその存在が、今やあたかも命を宿したように見える。
「おいおい、驚きすぎだろ人間。そんなにびびるなって。」
「まさか、本当に……?」
「本当に喋るっての。それに俺はぬいぐるみじゃねえ。影喰いだ。」
「影……喰い?」
「そうだ。お前らが抱えてる『影』ってやつを喰ってやる。それが俺の仕事さ。」
航は状況を把握できず、頭が真っ白になった。
目の前にいるのは、確かに昨日拾ってきた猫のぬいぐるみのはず。
しかし、今こうして動き、喋っている。
これが現実なのかどうか、混乱は収まらない。
「そんなわけ……」
「信じられねえか? じゃあ試してみるか? お前、ちょっとは影を抱えてるだろうが。」
カゲはニヤリと笑ったように見えた。
航は混乱しながらも、その言葉に引き込まれていく自分を感じた。
影、という言葉が妙に引っかかる。
「影って……具体的には何のことだ?」
「お前の胸の奥でモヤモヤしてるもんさ。不安、孤独、後悔、自己否定……そういうのをまとめて影って呼んでる。お前の場合、けっこう薄っぺらいけどな。」
「おい、いきなり失礼だな!」
「事実だろ。自分でも薄いって思ってるんじゃねえのか?」
図星だった。航は言葉を詰まらせる。
確かに、自分が影の薄い存在だと思っていた。
黒子のようにどこでも目立たず、誰にも期待されず、ただいるだけの人間。
そんな自分の影を、この不気味な猫が喰えるというのか。
「試してみるか?」カゲが挑発するように言った。
「どうやって……?」
「お前が少しでも、自分の影を自覚するだけでいい。それで喰える。」
航は躊躇した。
影を喰うとはどういうことなのか、それが何を意味するのかまるでわからない。
それでも、自分の中にあるこの得体の知れない感情を軽くできるなら、試す価値があるのではないかと思った。
「……わかった。やってみてくれ。」
カゲは満足そうにうなずいた。
ぬいぐるみの口元が動いたように見えるが、どうやって喋っているのかはわからない。
次の瞬間、カゲが一歩前へ踏み出し、航の胸の前で動きを止めた。
「じっとしてろよ。すぐ終わる。」 カゲが軽く口を開けた。
次の瞬間、航の胸元から黒い靄のようなものが湧き出した。
それは、長年積もった埃がいきなり風で舞い上がったかのように、ゆらゆらと不規則に揺れながら空間に広がる。
航は息を呑んだ。その靄が引き剥がされる感覚は、言葉にするのが難しい
――それは、傷ついた絆創膏を剥がすような鈍い痛みと、冬の冷たい水に手を浸したときの鋭い冷たさが同時に押し寄せるようだった。
靄はまるで夜空に漂う煙のように、静かにカゲの口へ吸い込まれていく。
そのたびに航の胸の奥がじわじわと軽くなっていくのがわかった。
閉ざされた部屋のカーテンを一気に開け放ち、古びた空気を新鮮な風が押し流す感覚に似ていた。
けれど、その感覚は単なる爽快感ではなかった。
冷たく、重く、それでいてどこか甘い香りが鼻腔をくすぐる
――まるで、湿った土の中に眠る古い木箱を開けたときのような、不思議な懐かしさと安堵感が混じり合っているようだった。
「おいおい、味が薄すぎるな。お前の影はダシを取るには向かねえな。」
カゲが靄を吸い込みながら、口の端を歪めるようにして毒づいた。
「薄い……?」航は思わず声を漏らした。
「そうさ。まるで白湯みたいだ。でもな、こういう薄味の方が後味は悪くねえ。」
数秒後、カゲが口を閉じた。
靄は完全に消え、航の胸の中が少しだけ軽くなった気がする。
「どうだ?」カゲが言った。 「少しは楽になったか?」
数秒後、航は胸の奥を探るように息を吐いた。
確かに、さっきまでの重苦しさが薄らいでいる。
それはまるで、ずっと握りしめていた荷物を不意に手放したような感覚だった。
肩のあたりが軽くなり、いつの間にか張り詰めていた眉間の力が抜けているのに気づく。
「……不思議な感じだな。」航は自分の手のひらをじっと見つめた。
その手に何か特別なものが宿ったわけでもないが、目に見えない何かが、自分の中から取り去られたのだという確信があった。
「確かに、少し楽になったかもしれない。」
「だろ?」カゲが得意げに尻尾を揺らし、軽く体を反らした。
「お前みたいな奴の影は軽いから、ちょっと吸っただけでこの通りさ。俺の胃袋にはモノ足らないがな。」
「薄いとか軽いとか……って…どういうことだよ。」航は眉をひそめた。
その言葉にはどこか引っかかる響きがあった。
「まあな、影ってのはそいつが生きてきた証みたいなもんだ。お前の影は淡い。いいことか悪いことかは知らねえけど、こんな奴、そうそういねえよ。」
「生きてきた証……」航は反芻するように呟いた。胸の奥に広がる軽さは確かに心地いい。
だが同時に、カゲの言葉はどこかひどく空虚なもののようにも聞こえた。
「薄い影ってのは、いいことなんだろうか?」
カゲは口角をわずかに持ち上げた。
その表情は、何かを悟っているようで、皮肉を含んだ笑みに見えた。
「いいも悪いもねえよ。ただ、そういう奴だってだけの話さ。お前がそれで良いって思ってんなら、それでいいんじゃねえの?」
航は何も言えなかった。
カゲの言葉には一切の感情が乗っておらず、ただ事実を告げるだけのものに聞こえた。
しかし、その「薄い影」という言葉が、まるで自分が空っぽだと指摘されたように思えて、胸の奥に冷たい痛みを残した。
「でも……こんな簡単に気持ちが軽くなるなんて、なんか変だろ。大丈夫なのか?」
航は自分の言葉に、自分で驚いた。
何が「大丈夫なのか」なのか、自分でもはっきりとは分からない。
ただ、目の前のカゲが何か大事なことを隠しているような気がしてならなかった。
カゲは薄く目を細めた。その瞳には、明らかに人間を見透かすような色が宿っている。
「でも便利だろ?ただ、便利ってのは得てして怖ぇもんだ。お前もそのうち分かるさ。」
「怖いって……どういうことだよ。」
航は胸の軽さを感じながらも、どこか心の奥底に残る妙な違和感を振り払えなかった。
影喰いがもたらした「楽さ」は確かに魅力的だった。
だが、それ以上に、自分の中にあった「影」という何かが失われたことに対する漠然とした喪失感があった。
(本当に、こんな簡単に良くなっていいんだろうか?)
航は手のひらをじっと見つめた。その中に何か具体的な変化があるわけではない。
けれど、目には見えない何かが引き剥がされた感覚が、自分の中でどこか空虚さを生み出している気がした。
「おい、考えすぎんなよ。」 カゲの軽い声が耳に届く。
「影なんてただの重荷だ。背負ってたってロクなもんじゃねぇ。お前みたいな薄味人間には、むしろ身軽になった方が似合ってるんじゃねぇの?」
「……そうかもしれないけど。」 航は小さく呟いたが、その言葉にはどこか歯切れの悪さがあった。
航はカゲをじっと見つめた。
喋る黒猫、いや、「影喰い」と名乗るその存在は何かしらの秘密を抱えている。
それは分かる。だが、その秘密を知ることが本当に必要なのかどうか
――そこに一抹の迷いがあった。
「まあ、考えるだけ無駄だよな……」航は肩を竦めて呟いた。
けれど、胸の中に残る妙な感触が振り払えない。
確かに気持ちは軽くなった。
それでも、得体の知れない後味が、喉の奥に苦味のように残っている気がした。
「なんだ?まだ言いたい事がありそうな顔してんな?」
「いや、どう見ても普通じゃないだろ……猫が喋ってるんだぞ。」
「訂正しとく。俺は“猫”じゃなくて“影喰い”だっつーの。見た目で判断するなよ、人間。」
「それにしても、なんでこんな……ぬいぐるみみたいな見た目なんだ?」
「そりゃお前が拾ったとき、こういう形だったからだろ。文句あるのか?」
「いや、文句っていうか……もうちょっと威厳のある形にできなかったのか?」
「威厳? おいおい、影喰いにそんなもん求めるなって。俺がこんな形してんのは、お前みたいな腰抜けに警戒されないためだ。感謝しとけ。」
「腰抜けって……お前、本当に失礼なやつだな!」
「それにしてもこの部屋、狭いな。猫の額か?」
「お前が猫だろ!」航は思わずツッコんだ。
カゲはくつくつと笑った。
「お前さ、もう少し図太くなった方がいいぜ。影が薄い奴ってのは、ツッコむタイミングも分かんねえのか?」
「おい、また影の話かよ。影影って、お前、さっきからずっとそればっかりじゃないか。」
「当然だろ。俺の仕事は影喰いだ。それにお前、よく考えたら俺にとっちゃ結構面白い素材だぜ。」
「素材ってなんだよ。」
「お前みたいに自己否定が染みついた奴の影は、喰うときになかなか癖があってな。淡泊で物足りねえけど、それはそれで面白い。」
「なんか……褒められてる気がしないんだけど。」
航はうんざりしたようにため息をつき、カゲをじっと見つめた。
「それで、お前、これからどうするつもりなんだ?」
航が問いかけると、カゲはソファの背もたれに寄りかかるように悠々と伸びをした。
「どうするも何も、お前の部屋が思いのほか居心地がいいからな。ここでのんびりさせてもらうさ。」
「俺はお前みたいな毒づくヤツを招いた覚えはないんだけど。」
「そんな冷たいこと言うなよ。影ってのはな、気がついたらそこにいるもんだろ?」
航は目を細めて言い返した。
「そういうの、ストーカーって言うんだよ。」
「はは、うまいこと言うな。だが安心しろ。俺はお前の影専属だ。浮気はしない。」
「浮気の話なんかしてない!」
カゲは軽く尻尾を振りながら、
「お前が影を生み続ける限り俺は喰い続け、お前は楽になる。それだけのシンプルな関係だ。」と肩をすくめた。
「シンプルねえ……。」航は腕を組んで考え込む。
「お前もそう難しく考えるな。いいじゃねえか信じろって。」
「信じろってほうが無理があるだろ。」
「じゃあ、信じるまで俺のこと“気まぐれな猫のルームメイト”だと思っとけ。」
「ルームメイトにしては態度がでかいな。」
カゲはにやりと笑った。「そりゃ、猫は家の主だろ?」
航は思わず吹き出しそうになったが、必死で堪えた。
ふとカゲの目が一瞬だけ鋭く光るのを感じたが、次の瞬間にはまた飄々とした表情に戻っていた。
航はまだ信じきれない気持ちを抱えながらも、この奇妙な存在…カゲがただのぬいぐるみではないことを確信した。
そして、これがただの奇妙な出来事で終わらないことも直感していた。
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