影喰いの黒ねこ

yukio

第1章:雨夜に影を拾う - 1「雨夜、影の先に」

 雨がしとしと降る夜だった。六月にしては涼しすぎる風が路地裏を吹き抜け、冷たい空気が肌にまとわりつく。

 駅前から自宅へ向かう人々の足音がリズムのように響く中、わたるはふと立ち止まった。

「みんな急いでどこへ行くんだろうな。」

思わず漏れた独り言に、自分でも驚いた。見上げた空には街灯の光を弾く雨粒だけが見える。

闇に包まれた街路樹は、その影を細長く引き伸ばしていた。


 黒田航くろだ わたる、三十歳。仕事は平凡、プライベートも平凡。

胸に抱くものといえば、日々積み重なる漠然とした疲れだけだった。

 その日、航は会社でいつも通りの業務をこなし、上司や同僚に「空気を読んだ言葉」を並べるだけで一日を終えた。

特に悪いことがあったわけではない。

けれども電車の吊り革につかまりながらふと「今日も何の意味もない一日だった」と思った自分に気づき、さらに落ち込む。

職場では、いつものようにキーボードの音が響き、乾いた笑い声が時折飛び交うだけだった。「クロ君、これ、頼める?」上司の大島が書類を無造作に置いていく。

航は顔を上げると、短く「はい」と答え、再び視線を手元に戻した。

隣の席では田辺や陽菜が同僚と笑いながら雑談している。

その声が耳に入るたび、航は小さくため息をついた。

「俺がここにいてもいなくても、誰も気づかないんだろうな。」

胸の奥にわずかに浮かぶその思いを振り払うように、航は手を動かし続けた。


誰にも期待されない日常の積み重ね。それが、彼にとっての「平穏」だった。

帰り道、いつものように薄暗い路地に差しかかる。


街灯の明かりはどこか心許なく、雨に濡れた地面に長い影を落としている。


 その影が、ふと揺れた。


航は足を止めた。風も吹いていないのに、影が自分とは違う方向に動いた気がした。


「……気のせいか。」
 

再び歩き出そうとしたその瞬間、不意に背筋を冷たいものが走った。

振り返ると、暗闇の中に、小さな光るものが見えた気がした。

航の足がふと止まった。薄暗い街灯の下に、何かが佇んでいる。


「……なんだこれ?」

影が少し揺れて見えるのは気のせいかと思ったが、その隣に黒い塊がぽつんと座っているのを見つけた。薄暗くぼやけた中で、最初は信楽焼のたぬきかと思ったのだがどうも違う……

「なんでこんなところに……?」

それはぬいぐるみのように丸まった黒猫だった。


https://kakuyomu.jp/users/kuro_noir/news/16818093090644023638

ぬいぐるみ・・・・・にしては大きい。

それは明らかに人の膝下ほどの大きさがあり、ふてぶてしい猫の姿をしていた。

遠目から見ると、そのシルエットはまるでそこにずっと根を張っていたかのように自然だった。

「なんだ、これ……?」

航は雨粒が額に落ちるのも忘れ、猫らしきその物体に近づいた。

近づくにつれ、それはただの猫でも狸の置物でもないとわかった。


表面はぬいぐるみのような布地だが、毛足は短く、体全体は黒く、腹部分が白い2色のシンプルなデザイン。

顔には大きな目が描かれ、どこかユーモラスな印象を与えている。

しかし何よりも不思議だったのは、その存在感だった。

ただの人形やオブジェなら、路地の片隅でこれほどの存在感を放つはずがない。

航は思わず屈み込み、その黒猫の顔をじっと見つめた。

「どうしてこんなところに・・・・・?」

そう呟いた瞬間だった。

どこかで風が吹き、街灯がちらついた。


 そして――


気のせいだろうか。

猫の目が一瞬だけ光を反射した気がした。

航は動きを止めた。

猫は動かない。

ただそこにいるだけのように見える。

それでも、何か目を離してはいけない気がして、航は不意にその猫の頭を撫でた。

「……触り心地、思ったよりいいな。」

一人呟く声が雨音に吸い込まれる。指先に伝わる感触は柔らかく、温かみさえ感じる。

これがただのぬいぐるみだとするなら、妙にリアルすぎる。

それでも、どうしてか手を止められない。

「こんなの拾ってどうするんだか……」

航は立ち上がり、猫をそのまま置いて帰ろうとした。


だが、どうしても振り切れない感覚があった。

まるで、この黒猫が航の行動を試しているような――そんな錯覚だ。

 結局、航は深いため息をつき、を抱えるように持ち上げた。思ったより軽い。

けれど、軽さの中に奇妙な質量感がと共に、影が少しだけ薄くなるような気がした。

「まあ、これくらいはいいか……」

自分に言い聞かせるように呟くと、航は黒猫を脇に抱え、雨の中を歩き出した。

この黒猫がこの後、どんな形で彼の人生を変えるのか――航はまだ知る由もなかった。


 家に着くと、航は暗い部屋のスイッチを押した。

蛍光灯の光がぱっと部屋を照らすが、その光はどこか冷たかった。

無意識に大きくため息をついた。

雨のせいで湿気を含んだ空気が、部屋の中までじっとりと入り込んでいる。

傘を壁際に立てかけ、靴を脱ぎ捨てると、その足元には家に連れ帰ったがいる。

その姿を見て、航は改めて思った。

「・・・・・やっぱり、デカいな。」

 玄関先にちょこんと佇む黒猫――

いや、ぬいぐるみ――は、子どもが抱えて歩けるギリギリのサイズ感だ。

その大きな目がこちらを見上げている気がして、航は少し後ずさった。

自分で拾ってきたはずなのに、目を合わせるのがためらわれる。

「とりあえず・・・・・そこにいてくれよ。」

航は猫を脇に抱え、リビングの隅にあるソファに置いた。

硬めのソファの上に座らせるようにして配置すると、妙にその場に馴染んでいる。

航は少し首を傾げた。空間が妙に落ち着くのはなぜだろう。

「お前、案外悪くないな・・・・・」

航は苦笑しながら、濡れたジャケットをハンガーにかけ、テレビをつけた。

ニュース番組のキャスターが、今日の出来事を淡々と読み上げている。

音声は耳に入らず、画面の光だけが無機質に瞬いている。心に響く内容ではない。

航は台所に向かいながら独り言を呟いた。

「拾ったはいいけど、これどうするんだ?処分するのもなんだか気が引けるし、かといって置いておく理由もないし……何やってるんだ、俺。」

 冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、プルタブを開ける音が静かな部屋に響いた。

喉を鳴らしながらソファに腰を下ろし、ふとリビングの隅を見る。

さっきの猫が、変わらずそこに座っている。

「なんだか・・・・監視されてるみたいだな。」

航は缶をテーブルに置き、猫の方をじっと見つめた。

その大きな目は、どこか人間味がある気がしてならない。

ただのぬいぐるみだと自分に言い聞かせながらも、心のどこかに妙な違和感が残る。

「まさか、本当に動いたりしないよな・・・・・?」

テレビからは相変わらずキャスターの声が流れているが、航の意識は完全にへと向かっていた。

黒猫の存在が、部屋全体の空気を微妙に変えている気がした。

湿った夜の静寂がやけに耳に残る。

航は意を決して立ち上がると、猫の前にしゃがみ込んだ。

近くで見ると、表面の素材感が不思議なほどリアルだ。

柔らかそうでありながら、しっかりと形を保っている。

軽く指先で触れてみた。

「・・・・・ただの布だよな。中に何か仕込まれてるとか?」

まるで返事を待つように、航は猫の顔を覗き込む。


そのとき、不意にテレビの音が耳に入った。

「本日未明、都内で不審な物体の目撃情報が……」


航はハッと顔を上げた。

不審な物体? どこか聞き覚えのあるようなフレーズに、思わず画面を凝視する。

だが次の瞬間、何も映っていないはずの猫の目が、かすかに光を反射しているのが目に入った。


「・・・・・・気のせい、だよな?」


冷静を装いながらも、手のひらがじっとりと汗ばむのを感じる。

再び猫を軽くつつくと、その弾力はやけに生々しい。航は無意識に後ずさった。

「よし、もう今日はここまで。お前はそこにいてくれ。」

航は猫に向かってそう言い残し、缶ビールを飲み干して寝室へ向かった。

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