記者・仁野実春の章〖第2話〗始動
エンターキーをたたく。
実春が社内に持ち込んだお気に入りの青軸キーボードは、景気の良い音を響かせた。それも、溜まっていた仕事完了の合図だ。景気の悪い音であるわけがない。
「終わったの?」
いつのまにか背後に立っていた真湖に問われ、実春は「はい!」と元気よく答えた。
「それは、お疲れ様」
そう言いながら、姉御肌の先輩記者は缶コーヒーを差し出してくれる。微糖と書かれたチョコレート色のそれは、実春が好んで飲んでいる銘柄だった。
「え、いいんですか?」
「もちろん。溜め込んでた仕事お疲れ様っていうことで、ね」
「あー、あははは、あの、その、ありがとうございます……」
そう言われてしまうと、乾いた笑いしか出てこない。
河蝉から直々に記事のネタを賜った実春だったが、それ取り掛かるよりも前に片付けなくてはいけない仕事があった。
しかも、たくさん。
いや、正確に言うと、すべてが細々としたものなのだ。
いや、まあ、たくさんには変わりないけれど。
言うならば、名前のない家事のようなものたち。一つひとつの仕事量は大したことはない。だが、塵も積もれば山となる。
早く例の事件の取材に行きたい、行かなくてはいけないと思っていた実春だったが、そんなうず高く積み上がった山となってしまった仕事に足止めされていた。
それに気づいたときばかりは、実春も自らの「間に合うと思うと、いろんなことを後回しにしてしまう」という悪癖を恨んだ。だが恨んだところで、仕事は終わらない。
そういうわけで、できるだけはやく事件の取材に取り掛かれるようにと、数日ほど半ば会社に缶詰めになって仕事を片付けていたのだ。その甲斐あってか、今日で片付いた。
これで明日から、本腰を入れて取材に行ける。
「実春ちゃんが溜まった仕事に四苦八苦してるうちに、広まっちゃったっぽいよ」
「何が、ですか?」
「河蝉部長が動きはじめたぞってね」
「あー……」
優秀な社員の動向というのは、何かと露見する。そして、噂として広まる。どこの会社でも同じだろう。きっとそういうことをサーチして、噂話を流すのが得意な人間はきっとどこにでもいるのだろう。
河蝉は、その恰好の的だった。
彼が動けば、人々を煽動するような記事が出来上がる。そしてそれは紙媒体からデジタル媒体へと変わった今、非常にわかりやすくなった。なんせ、SNSという土壌がある。誰かが単なる独り言として呟いた意見が、瞬く間に世間へ流れ出る。今は、そんな時代だ。
少し前であれば、空気に溶けてなくなってしまった言葉の一つひとつが、ネットの海の中へと放り込まれるのだ。そして投げられた言葉は、波紋を呼び、さらにそこに意見が集まる。SNS上で日夜、大小さまざまな議論が繰り広げられているのが、そういう理由なのだろう。
記事をバズらせるということは、SNSでの議論を引き起こすということとほぼ同義である。
人々の関心や感情の琴線に触れるようなトピックを発信する。そのトピックについて、議論するに必要な情報を過不足なく用意する。さらに、情報源やトピックの中心人物が炎上しないように調整をする。そして一番大事なのは、「調整しているということを、情報の受信者に気づかせないようにする」ということ。
河蝉はそういう見極めが非常に上手かった。
「で、ここからが本題なんだけど」
実春が「やっぱり、河蝉部長ってすごいんだなぁ」とぼんやり考えていると、真湖がドンと紙の束(だと思われるもの)をデスクに置き、さらにそのわきにUSBやらSDカードやらを雑多に詰め込んだビニール袋を置く。
大量だ。
その量に驚いていると、「驚くのはこの量だけじゃないよ」と言われる。同時に、真湖が渋い顔をした。
「あのね、河蝉部長が何を調べているのか、というのが流出したらしいんだ」
「……え?」
「さっき私の古巣……えっと、あー、第一ね。第一に用があって行ったんだけど……」と真湖が言う。
真湖の言う「第一」というのは、雑誌第一編集部のことだ。
雑誌第一編集部――弦悠社の中のエース級の記者たちが集う部署で、人気の週刊誌『週刊弦悠』を発刊しているところだ。弦悠社における売り上げの六割強は、この部署によって支えられている。弦悠社が成り立っているのは、雑誌第一編集部のおかげと言っても過言でないだろう。……まあ、代わりに、訴訟事案も多い部署ではあるが。
真湖は雑誌第三編集部ができるまで、第一編集部にいたと聞いたことがある。なんなら、河蝉も同様だ。優秀と頭につく社員は、みんな、第一編集部出身か、現在進行形で第一編集部に配属されている。
「え、第一編集部で、この資料を?」
「そうなの。第一編集部って、今でもデジタルじゃなくてアナログな仕事しててね。取材資料とかは絶対に紙ベースにするんだ。だからちょこちょこ資料整理をするんだけど、今日も整理しててね。そしたら『そっちの部長、この事件について調べてんだろ? さっき、資料整理してたら出てきたからこれ持ってって良いよ』って言われて。……で、それがこれ」
「まさか、それって」
「うん、そのまさか」
ハッとして、資料を見てみると、一番上の紙には星川聖子の文字列があった。
間違いない。
その女性の名前は、「K市マンション女性殺害事件」の被害者のものだった。
「まったくどこから漏れたんだか……」
「ははは……」
「まったく、もう! どこの誰が漏らしたんですかね! まーさかここの編集部の人間じゃないですよねー?」
真湖はキッと、編集部内を睨む。河蝉が実春に記事を書くように言ったのは、編集部だった。しかも定時に近い時間で、あのとき、おおよその社員がこの編集部の自分のデスクにいたのだ。雑誌第一編集部に情報を流したとすれば、ここにいる編集部の人間である可能性が一番高いのだから、真湖が睨むのは無理もないだろう。
だが、部屋にいた社員は知らぬ存ぜぬを通すつもりなのか、カチャカチャとキーボードを叩くのみで何も反応しなかった。本当に知らないのか、素知らぬフリをしているのかは検討がつかない。
「まあまあ、真湖さん……」
「まあまあ、じゃないの。記者にとって、ネタは大切なんだからね! 命の次に大事なの。ちゃんとわかってるの? 実春ちゃん」
「まあ、それなりには……」
「それなり、じゃだめなの! いい? ちゃんと全部管理して、誰かに盗まれたりしないようにしないとだめなんだからね! これは記者の基本中の基本なんだから!!」
ははは、と笑いながら、実春は資料をめくる。資料はクリップでとめられていたり、場合によってはクリアファイルの中に入っていたりしていた。
その資料は想像していたよりずっと、内容も媒体も多岐にわたっている。
概要だけをさらりと書いているものもあれば、近しい人へインタビューしたものもある。かと思えば、どこで入手したのかわからないが、現場となったマンションの防犯カメラの映像を写真化したものもあった。それから精神科医による、犯人像のプロファイリングをした書籍も、一冊丸ごと紙の束の中に挟まれていた。
掃除していたときに見つけたということもあってか、雑多な印象がある。きっと、「K市マンション女性殺害事件」に関する資料を段ボールか何かに入れて、一括で保管していたのだろう。中には記者によるメモや、原稿の走り書きメモ、草稿などもいっしょくたにされていた。
本当にたくさんある。
実春は、いまだに続く真湖の「記者だったら、自分の情報は相手に絶対流出してはいけない」という講義じみた説教に耳を傾けながら、高く積み上げられた資料を丁寧に一つひとつ確認することにした。
――ここからが本当の取材の始まりだ。
実春は気合いを入れた。
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