記者・仁野実春の章〖第1話〗期待

 河蝉から事件の資料ファイルを受け取った実春は、シュレッダーを掃除しようとしていたことなどすっかり忘れて、デスクへと戻った。


 資料をぱらぱらとめくる。ファイルに収められていたのは、事件の概要を記した新聞記事や週刊誌の切り抜き、デジタルリリースされている週刊誌の記事を出力したものなど。すべて丁寧にファイリングされ、古い順に入っていた。おそらく河蝉がこの事件がネタとして使えるかどうか精査していたのだろう、とあたりをつける。


 一つひとつに目を通していると、隣のデスクに座る寄居真湖よりいまこに「よっ、次のバズライター!」と声を掛けられた。実春より十個年上の真湖は、面倒見の良い先輩だ。プライベートではシングルマザーとしてふたりの小学生の男の子を育てているだけあって、編集部の中で一番二番を争うほどのパワフルさを持っている。


「いや、真湖さん、まだバズると決まったわけじゃないですよ」


「いやいや、絶対バズるよ。河蝉部長肝入りの記事なんだから」


「でも……取材と、記事執筆は私ですよ?」


「わかってないなー、実春ちゃんは!」


 真湖はチッチッチと洋画の主人公のように右手の人差し指を動かしてから、「見てごらん」と編集部をぐるりと一周見渡すように言った。真湖の言葉に従い、実春はぐるりと部内を見渡す。


 弦悠社自体、100人弱の社員しか所属していない。大手出版社が四桁単位の従業員を擁していることを考えると、中規模あるいは小規模と言うべきだろう。なにせ、オフィスビルのワンフロアに収まる程度の社員数だ。多くはない。


 したがって、それぞれの編集部に所属する社員数もそれほど多くない。雑誌第三編集部に所属しているのは、実春や真湖、河蝉をあわせて12人だ。この数のおかげで、十二使徒と呼ばれているらしいと実春が知ったのは、ずいぶん最近のことである。


「この中で、河蝉部長は実春ちゃんを選んだの。ここにいる誰よりも、この事件の記事を書くのに適してる、ってことを部長が判断したってことだよ」


「……そういう、ものなんでしょうか?」


「そういうもん。そういうもん。それに、ちらっと聞いたことがあるよ!」


「何を、ですか?」


「実春ちゃんは、河蝉部長が直々に引っ張ってきた社員だって」


「……え?」


 それは、聞いたこともない内容だった。

 実春が目を白黒させていると、真湖がくすくすと笑いながら言う。


「うちの部署ってさ、えっと……確か、週刊弦悠のデジタルリリースがされた翌年にできてるんだよね。だから、三年前かな。雑誌第三編集部とか仰々しいい名前を貰って、それで活動してーみたいになったのは。もちろんそれよりもっと前から、こういうネットコラムの部署を立ち上げようっていう話は社内で持ち上がってたんだけどね。まあ……でもやっぱり、いろんな問題があってできてなくて」


「それは確かに配属される前にちらっと聞いたことがあります」


「でしょ?」


 新規部署の立ち上げに苦労するのは、どこの会社も同じだ。人員の確保、資金繰り、場合によっては経営上の赤字も覚悟しなければならない。弦悠社の場合、赤字を覚悟するほどの大きな事業立ち上げというわけでもなく、さらに前年には週刊誌のデジタルリリースという名目でWEB事業に参戦しているため、ノウハウもある程度持っていたが、問題はあったという。


 それが、人員配備だ。


 もとより、ぎりぎりの人数でまわしている会社だ。


 新しい部署に割けるほどの社員がいない。

 それが一番の問題だったらしい。そのあたりの内容は、実春もこの編集部に来た当初、休憩時間の愚痴程度に耳にしたことがあった。


「新規事業編集部が立ち上がるってなったとき、一番に決まったのは部長だったんだよね」


「それはなんとなく、想像できますね」


 なんせ、鼻がいっとうきく記者だ。

 彼がいれば、「とりあえず何とかなる」という他力本願な自信が湧いてくる。


「だよね。っていうか、私が経営陣でも、新規編集部をたちあげたら、その中心に河蝉部長を置くもん」


「わかります」


「そのとき、河蝉部長はひとつの交換条件を提示したらしいんだよ」


「給料のアップとかですか?」


 そう言うと、真湖は「即物的でいいねー。嫌いじゃないよ、そういうの」と楽しそうに笑う。


「河蝉部長が提示したのは、採用面接の一次面接に同席させること、だって」


「……え?」


「この編集部を立ち上げる前後……えっとざっと考えると数年くらいかな。新卒も中途も、一次面接に同席してたらしいよ」


「そ、そうなんですか……」


「そう。それで河蝉部長が『新しい編集部にこの子、よろしく』って言ったことが一度だけあるって。それが実春ちゃんだったみたいだよ」


「……え」


 就活生時代のことを思い出してみる。だが、面接の際に河蝉がいたかどうか、実春はまったく憶えていなかった。そもそも就活面接など、大学の就活支援センターで配られたテンプレートをそこそこ適当にアレンジして使っていたような記憶しかない。


 河蝉は、何を重視したのだろうか。


 考えてもまるでわからないが、どうしても気になってしまう。


 志望理由とかだろうか、と思って記憶を探ってみても、わからない。記憶の引き出しは空っぽだ。まるで憶えていない。


 面接のときに何を言ったかなんて、もう今となっては曖昧だ。合格の通知を貰ったときに、すべてを投げ出してしまったのだから憶えていなくても仕方ないだろう。


 実春がうーんうーんとうなっていると、少し気の毒になったのだろう。真湖が「あ、あんまり気負わないでね。社内の噂、って感じだから」と言った。


 実春は「噂」という単語に胸をなでおろす。


 生きてきてこの方、実春はそこまで他人に期待されたことがない。だからこそ、こういうときにどうしたら良いか、わからなくなってしまう。


 真湖は百面相する実春を見て、「まあ、何が言いたいかって言うとね」と記者らしく、内容の要約に入る。


 実春も弦悠社に入社してわかったことであるが、記者やライターという職に就いている人間は、どうしても話の最後に要約をしたがる傾向にある。記事を書く要領で、話をしているからだろう。言葉を操るとなると、記事という土俵の上に立ってしまうのかもしれない。


 実春はまだ、その領域には達していなかった。


「胸を張って、弦悠社の一人の記者として、その事件を追ってきてってこと。重い事件かもしれないし、大変な仕事かもしれない。っていうか、多分そうなんだと思うんだけどさ。でも、一人の記者として、仕事を任されたと思って、頑張ってきてほしいな」


 背中を押すような真湖の言葉は、温かい。


「……はい」


「きっと、実春ちゃんならうまくできるからさ」


「はい。がんばります」


 うん、頑張って。


 はい、頑張ります。


 そんな試合前の運動部のようなやりとりを数度繰り返していると、編集部の外から、実春を呼ぶ声が聞こえてきた。見れば、経理部の人が数枚の領収書を持って立っている。


 もしかしたら提出書類に不備があったのかもしれない。そう思って、実春は真湖に断ってそちらに向かった。



 だから実春は知らない。


 真湖が呟いた、言葉を。



「でも実際、ここの編集部にいる人間は全員、河蝉部長がえりすぐってきた人材なんだよ。……さてさて実春ちゃんは、部長に何を求められているのかな」

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