3
ランダル様が訓練所の窓を大きく開けました。
「そこで何をしている」
その声は威圧的なほど低く、私の全身に震えが走りました。胸に恐怖が込み上げてきます。
(こ、怖い)
私の意志とは関係なく、身体の震えが大きくなりました。
「何をしていると聞いている」
ランダル様が眼光鋭く、下からこちらを睨み上げます。彼の全身から発散される怒りの波動が伝わって来るようです。
この怒り方からすると、彼はエイドリアナ王女との時間を邪魔されたくなかったのでしょう。私はうなだれ、唇を震わせることしかできませんでした。
これほど強い視線をランダル様から向けられたことは、かつてないことです。だってお茶会の時の彼は、いつだってエネルギーに欠けていたから。
申し訳ありません、ごめんなさい、すみませんと、私は謝罪の言葉を重ねたかったけれど──全身が激しく震えて、顎から歯がこぼれてしまいそうで、まったく言葉になりません。
「アイシア。婚約者のいる身で、他の男の腕に抱かれているのはどうしてだ? エスコートの件で腹が立ったから、早速他の男に乗り換えようというのか?」
そういえばさっき腰が砕けて、ひっくり返りそうになった私をクロード様ががっちり抱きとめてくださったのでした。
ランダル様は、かけねなしに、怒り心頭のようです。彼の怒りに圧倒されてしまって、目の前が真っ白になります。
「おや、嫉妬ですか? そういうブチ切れ方は、婚約者をちゃんと大事にしている人しかやっちゃいけないと思いますよ」
クロード様が低い声でつぶやきます。
『嫉妬』という言葉に私は面食らいました。
(いや、絶対に違う。それは断言できる)
ランダル様の怒りのかなりの部分は、この私の淑女らしからぬ行動に対してでしょう。
愛されないことに耐え、文句を言わず、我慢し、すべてを諦め、しかし貞淑だけは捧げよ。常によき婚約者たれ。
貴族の女性の人生は父親のもの、夫のもの、子供たちのもの。それが常識なのですから、婚約者である彼には怒る権利がある。
「そうだそうだクロード、言ってやれ。ここで婚約者ヅラとか厚かましいにもほどがある!」
シルチェスターが応援するように拳を振り上げました。
クロード様は怖い声で言葉を続けます。
「アイシア嬢が震えているの、見てわかりません? ちっとも隠せてないでしょ? 私は騎士として責任があるからお支えしているんです。ランダル、君はそろそろ『やらかし大魔王』に改名した方がいいんじゃないですか?」
ランダル様が「う」と息を詰まらせました。そして私の様子に初めて気づいたかのように、ハッとした表情を見せます。
「アイシア……大丈夫か?」
「はい、大丈夫、です」
私は搔き集められるだけの力で、クロード様の腕から抜け出しました。そしてベランダの床に手をついて、床につくほど頭を下げます。
「大変申し訳ございませんでした。女性が婚約者でもない男性と触れ合うなど、もってのほかのこと。ご気分を害されて当然です」
「アイシア、頭を上げてくれ」
「アイシア嬢、頭を下げる必要はないですよ」
「謝らなくていい!」
頭上から二人、下から一人の声がします。私は自責の念をもって、頭を下げ続けました。
「ただ、クロード様は私を助けてくださいました。心配してくださいました。ですからどうか、クロード様を責めることだけはおやめください」
私が求めていた優しさを、初対面のクロード様が与えてくれたのです。彼に決して、よこしまな気持ちなどなかった。
私のせいで、おそらくは友人同士であるらしい二人の間に対立の図式が出来上がることは避けたい。
「いったいどうしてこのようなことになったのか端的に申し上げます。私は先刻のお茶会での己の態度を深く反省し、エイドリアナ王女殿下にふさわしいジュエリーセットを持ってまいりました」
「……え?」
ランダル様がかすれた声で聞き返します。
「他に方法を思いつきませんでした。婚約して三年、手紙を書いてもお返事はこなかったし、使用人に伝言をもたせて使いに出しても取り次いでもらえず。一か月後のお茶会にいらっしゃるかどうかもわからない。ですからこうしてお届けに上がったのです。」
「アイシア……」
「拗ねたような態度をお見せして、ジュエリーのアドバイスもせず、申し訳ない限りです。私は二度と、ひとりぼっちのデビュタントを思い悩んだりはいたしません。アクアノート公爵様から、フォレット伯爵領に様々な支援をいただき、ただただ感謝しております。ランダル様はどうか気兼ねなく、ご自分に相応しい人生を歩んでくださいませ」
「ここまでの覚悟をさせるってどんだけ……」
クロード様のつぶやき声が降ってきました。
「ここに三つのジュエリーセットを置いて、大人しく帰ります。ブルーサファイア、ナチュラルブルーダイヤモンド、ネオンブルーのトルマリン。すべて最高級品です。どれをお選びになってもお似合いになるでしょう。ジュエリーセットを決めてから、ドレスや小物をお買い求めになることをおすすめいたします」
私は言葉を切り、顔を上げてランダル様を見ました。彼はなぜか、途方に暮れるという言葉がぴったりなほど、呆然とした表情をしています。
「ま、待て待て、待ってくれ! アイシアさん、話を聞いてくれっ!」
凛とした声がその場に響き渡りました。真っ青な顔をしたエイドリアナ王女がランダル様を押しのけ、窓から身を乗り出します。
「悪いのはすべて私なんだ、まさに疾風怒濤の三年で、人生しっちゃかめっちゃかで、ランダルに頼りきりだった私が悪いんだ、どうか謝らせて──」
「恐れながら申し上げます!」
バルコニーの床に片膝をついたクロード様が声を張り上げました。
「エイドリアナ王女殿下とランダルの蜜月ぶりは、王弟殿下付きの私の耳にも届いています。あなた様はご自分が謝ることが、よけいにアイシア嬢を傷つけると知って、やろうとしていらっしゃるのですか?」
「そ、そんな気持ちじゃ……あの、でも、私がいるからアイシアさんを傷つけたに他ならないし、謝るべきだと思って、それで……」
エイドリアナ王女がしどろもどろに答えます。
「僕は子供なんで、無礼を許してくださいね。アイシアはこれまでに、いやというほど辛い思いを味わってるんです。なのに謝られたら、許さなきゃならなくなる。それってずるいよ。許される要素なんか、まーったくないんだからねっ!」
「シルチェスター、なんてこと言うの!」
私は慌てて身を起こし、シルチェスターの口を手でふさぎました。
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