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ジノービアちゃんは最新流行の扇で扉を指し示しました。
「剣を振るってるところを見たいなら急がなきゃでしょ。アイシアお姉さま、行って!」
ジノービアちゃんの言う通り、ここで無駄にする一分一秒が惜しくて、私はしっかりうなずきました。
立場的に、ジノービアちゃんに『ランダル様はやらかしてなんかいない』と懇切丁寧に教え諭すべきなのはわかっていました。身分が高くて頭も高い彼女には、話を誇張する癖があるのです。
でも──エイドリアナ王女の姿が見たくて、心臓が早鐘を打っています。いまはそれしか考えられない。
「それじゃ、私が先頭を走ります。目的地はこの階の端っこのバルコニーです。できる限り速やかな速度でついてきてください」
「なるほど、めちゃくちゃ走れってことだね」
クロード様の言葉に、シルチェスターが肩をすくめました。
私は異論を唱えませんでした。
パンプスを脱ぎ捨て、本来は邪魔になるアタッシュケースをしっかり胸に抱えます。執事のニコラスの梱包に抜かりがあろうはずがなく、多少揺らしてもびくともしないでしょう。
クロード様が無言で「気合入ってますね」的な視線をよこしてきます。彼はジノービアちゃんの護衛から『ラ・ホロムナーデ』のケースを受け取ると、すぐさま身をひるがえしました。
応接室を出て、廊下をひたすら走る、走る、走る。
クロード様は背後を気遣って速度を落とすことはしません。もし遅すぎたとしたら、ひと目だけでもランダル様とエイドリアナ王女の姿を見ることが叶わなかったら、私が傷つくことがわかっていらっしゃるようです。
「ちくしょう、こいつ本当に伯爵令息か!? 僕は絶対騎士団になんか入らない、脳筋になんかなりたくなあああいっ!!」
横からシルチェスターの悲鳴が聞こえてきました。ちなみに彼は『ラジュエ・ルトル』のケースを抱えてくれています。
たしかにクロード様は疑いの余地なく脳筋です。願わくば彼が未来の婚約者様から「気の使い方間違ってる」などと罵られませんように。
(はあ、はあ、はあ)
息が上がります。いきなりめいっぱい働かされた心臓がバクバクしています。
すれ違う騎士たちが目を丸くしています。クロードお前は何なんだ、その令嬢は一体何なんだ──そんな心の声が聞こえるようです。
(取り繕っている暇はない、今はとにかくバルコニーを目指すだけ!)
歯を食いしばって、私は走り続けました。このさい淑女らしさは一切合切捨てさろうと決意したのです。後で自己嫌悪に陥るだろうけれど、仕方ありません。
物置として使われているらしい端っこの部屋にたどり着いたときには、一生分走ったような気分でした。
ぜいぜい息を切らしている私とシルチェスターをよそに、クロード様は「よっ」とか「ほっ」とか声を出して、バルコニーまでの道筋を邪魔する荷物を両手で掴んで投げています。
「これでよし」
クロード様がバルコニーへ続く窓を開けました。
風が流れてきます。それから、何かを叩きつけるような音も。
「よかった、間に合った。二階のこのバルコニーから、隣の訓練所が覗けるんですよ。エイドリアナ王女殿下から、訓練中は声をかけるなと厳命されていて。でも、あの二人の体力と気力をもってしても、これが最後の打ち合いだと思います」
クロード様が先頭に立ち、バルコニーに出ました。
「しゃがんでください。できる限り身を低くして」
クロード様が小声で言います。
しかし私の足の筋肉はぱんぱんに張っていて、そう重くはないはずの体重を支えるだけでも大仕事。
私はわが身のポンコツさを悲しく実感しながらしゃがみ、ぶるぶる震える全身をなんとかしようとバルコニーの鉄柵にしがみつきます。そしてできる限り身を低くして、隣の訓練所を覗き込みました。
(ああ、とうとう)
なけなしの気合を込めて目を凝らし、私はエイドリアナ王女の姿をこの目で捉えました。
黒いシャツに、黒のぴったりしたズボンという格好で、黒手袋をはめた手に木剣を握っています。
銀髪碧眼も、完璧に近い卵型の顔も、昔叔父様が見せてくれた絵姿と同じだけれど。
(目力がまったく違う……)
エイドリアナ王女の目は、私がこれまでに見た誰よりも激しい炎を燃やしています。まるでランダル様を睨みつけているかのよう。
そしてランダル様の目も、表情も、私の知っているそれとは違いました。
貴族令息としてそんなことが可能なのだろうか、と我が目を疑うほど険しい表情です。まるで怒りに燃えているかのような……。
エイドリアナ王女が流れるような動きで攻撃を仕掛けます。
ランダル様が木剣を上げて彼女の攻撃を受け止めました。木と木のぶつかる音が響き渡ります。
素人である私にも、エイドリアナ王女の凄さがわかりました。木剣を思うままにあやつる彼女は強い。ものすごく強い。
ランダル様は容赦ない攻撃をしかけてくる王女に神経を集中しています。
王女が一撃を加えようとするたびにそれを受け流し、次に自分から打ちかかり、相手の木剣に強烈な一撃を与えます。彼女はそれを受け止め、払い落しました。
(まるで、二人だけで踊っているみたい)
やがて二人は、ほぼ同時に後ろに飛びすさりました。体勢を立て直し、睨み合ったままじりじりと円を描いています。
「予想とはまったく異なっていたんじゃないですか。あの王女を支えるランダルの婚約者というのは、色々と大変だろうとは思うし、お気の毒にも思います。でもあの二人、傍目には男同士でじゃれ合っているように見えるでしょう?」
私の左横にしゃがむクロード様が、わずかに身を寄せきて囁きます。
「お二人はあのように打ち合えるまで、どれほどの時間を共有なさったのでしょう。きっと、生涯を通しての『ソウルメイト』なのですね。魂を共有し、結びついているということですね。ランダル様と肩を並べられる唯一の人。私では、決してエイドリアナ王女と同じ立場にはなれない……」
「そうか、そう捉えるのか……勉強になるなあ」
クロード様が苦笑する気配が伝わってきました。
私はじっと二人の姿を見つめ続けます。何かを言い合っているようですが、何を言ったのかはわかりません。
(あの二人にはソウルメイトという言葉すら、過少表現に思える。でも言葉が見つからない)
まさしく今、私はひとりぼっちだと思いました。
少なくとも婚約者という関係で、私たちは結びついています。何の感情も持ってもらえず、熱のない態度を示されるだけだったとしても。
でも、寂しい。ランダル様がエイドリアナ王女を鍛えるために私との時間を削ったのだと思うと。
でも、寂しがっても仕方がない。そういう人と婚約しようと決めたのは私なのだから。
木剣を構える二人がじっと睨み合ったまま、それなりの時間が流れました。エイドリアナ王女を凝視しながらランダル様が何を考えているのか、私は知ることができません。
次の瞬間、左横のシルチェスターが大きく息を吸う音が聞こえました。彼はいきなり立ち上がると、ポケットから取り出した小石を訓練所の窓に投げつけたのです。
私はびっくりして、真後ろにひっくり返りそうになりました。クロード様が咄嗟に腕を伸ばして支えてくださいます。
意識が逸れたランダル様の隙を狙って、エイドリアナ王女が木剣を繰り出します。
無防備になったところを攻められたランダル様の手から木剣が落ち、床に転がり──窓を振り返った彼の目が、私を、シルチェスターを、私の肩を抱くクロード様を捉えました。
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