いくら子供とはいえ、シルチェスターの発言は無礼で危険すぎます。私は彼の頭を床に押し付けるようにして、何とか謝らせようとしました。


「エイドリアナ王女殿下にお詫びをしなさい、シルチェスター」


「やだ!」


 シルチェスターは猛然と私の腕から飛び出しました。そしてバルコニーの細い鉄柵をぎゅっと掴みます。


「言わなきゃ気が済まない! 僕からしたらランダルも王女様もまともじゃないっ!」


 シルチェスターは敵意むき出しの声を上げました。


「やめなさ──」


 私は前に出ようとしました。しかしクロード様が、阻むようにさっと腕を出します。


「エイドリアナ王女殿下。子供を叱責したり……なさいませんよね?」


 クロード様の言葉に、エイドリアナ王女がしきりにうなずきます。次に彼は、ランダル様にじっと視線を注ぎました。


「ランダル。お前が何かにつけて不器用なことは知っている。仕事に追われて死ぬほど忙しかったことも。この事態の元凶となった『例の件』について、アイシア嬢に話していないだろうことも容易に想像できる」


 エイドリアナ王女が血の気のない顔をさらに青くして、びくっと身体を痙攣させます。

 ランダル様が一瞬、痛まし気な視線を王女に向けました。


(例の件って……いったい何があったんだろう)


 よくわかりませんが、もしかしてエイドリアナ王女は何かに苦しんでいらっしゃるのでしょうか。でも、私がそんなことを聞くのは出過ぎた真似。

 クロード様が静かな声音で言葉を続けます。


「今はまず、その少年の話をちゃんと聞け。お前の騎士道精神が死ぬか生きるかの瀬戸際だぞ。まあ、ジノービア・マッキンタイア公爵令嬢の口撃で、社会的にはもう死にかけてるけどな!」


 クロード様は、唇のあいだから歯をのぞかせてにっこり笑いました。

 ランダル様が意を決したような表情になり、窓枠に手をついて身体を持ち上げ、ひらりと着地するや騎士の最敬礼をしました。膝をついた姿勢で右腕を胸の前に当て、頭を下げたのです。

 クロード様も膝立ちの姿勢のまま手を伸ばして、シルチェスターの頭をぐりぐりと頭を撫でました。

 シルチェスターはすうっと深く息を吸い込みました。


「やいランダル! 王女様のデビュタントが終わったらアイシアと向き合うつもりだった、なんて戯言は、間違っても抜かすなよおおおっ!」


 シルチェスターは爆発したように叫びました。

 ランダル様は最敬礼の姿勢のまま顔だけ上げ、じっと聞いています。


「そりゃ僕は八歳だから、この三年間のことをつぶさに覚えてるわけじゃないよ。六歳の頃は、アイシアと毎日楽しく錫製の兵隊人形で遊んでたよ。七歳の頃なんか一緒に英雄ごっこしてたよ! アイシアはいつだって笑顔で、悩みなんかないように見えたよっ!」


 シルチェスターは「だからちょっと前まで知らなかった!」と涙声で叫びます。


「アイシアを世界で一番理解しているはずの婚約者が、実は誰よりも分かり合えない相手だったなんて、知らなかった!」


「シルチェスター……」


 私はバルコニーの床に手をついて、鉄柵にへばりつくシルチェスターの背中を見上げました。

 私たちは従弟で、九歳離れているけれど気の置けない友人同士。それでも周囲の大人が用意した健全さの中ですくすく育っている、愛らしく穢れない子供に言えないことはたくさんあって。


「お茶会でへこみきった日も、土壇場キャンセルされた日も、アイシアはひとりきりだった。どうしようもなく、ひとりきりだった! なにがなんでも元気にしてあげたくて、あれこれ頑張ったけど、僕じゃダメだったっ!」


 シルチェスターが泣きながら地団太を踏みます。

 あれこれ思い悩んで準備したお茶会が上手くいかなくて、みじめに落ち込み切った感情を子供に押し付けるわけにはいかないと、必死にごまかしたつもりだったけれど。私の努力が足りていなかったのですね。


「婚約は単なる契約だって、それが政略だって、アイシアは言うんだ。だからって婚約が我慢大会でいいのかよ! そりゃ政略には違いないけど、いまどきの子供はそっから自発的に恋をするんだよっ! 子供以下かよクソ野郎っ!!」


 ダンダンと足を踏み鳴らし威嚇するシルチェスターを、ランダル様は真っすぐに見上げています。

 男らしく端整な顔立ち。がっしりした首と肩幅。柔らかそうな金髪は剣技のせいで乱れていて、まるで獅子のたてがみのよう。

 私はランダル様の目の下のクマに気が付きました。もしかしたら、あまり寝ていないのでしょうか。

 いえ──お顔の疲労の色はいつだってあったのです。私は自分が彼の気を滅入らせ、疲れさせているのだとばかり思っていました。


「アイシアは別の人生を選ばないって言う。領民のために婚約を手放さないって言う。政略、契約を守り通して、一生続く苦しみに飛び込むって言う! こんなこと言わせたのはお前だ、このクソ野郎っ!」


 シルチェスターが猛然と私を守ろうとしているのがわかります。私は平気なのに。ランダル様と別れることなどありえないのに。

 私には、領民のために果たすべき使命がある。

 ランダル様にも、エイドリアナ王女のために果たすべき使命がある。

 よく考えなくてもお似合いのパートナーで、タイミングを計って子種をいただければそれでいい──そんな私の考えは、もしかして間違っているのでしょうか?


「アイシアは軽く扱っていい女じゃないって覚えとけ、このクソ野郎! 許される要素はこれっぽっちもないけど、それでも許されるように最善を尽くしてみせろっ! できなかったら『いかれポンチ・アクアノート』に改名しろおおおおっ!!」


 シルチェスターは彼の小さな体からするとかなりの大音量で叫びました。次の瞬間彼はふっと意識が遠くなったのか、鉄柵から手を放して後ろに倒れ込みます。


「シルチェスターっ!」


 私は自分史上最速の動きで身を起こし、彼の重みを全身で受け止めました。

 クロード様が差し伸べてくださった助けの手にシルチェスターをゆだね、ほっとした私はバランスを崩して後ろ向きに転倒し──打ちどころ悪く、意識を失ってしまったのでした。

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