第3話 伝説の勇者を召喚したら、見返りを求められました
街の空は鉛色の雲に覆われ、どこからともなく響く悲鳴が空気を震わせていた。
建物の壁はひび割れ、瓦礫が道端に散らばっている。広場に逃げ込む人々の姿が見えるたびに、フィルネストの胸は強く締め付けられた。
「お嬢様!こちらです!」エイレンの声は緊張に満ちていた。彼は目の前で崩れかけた塀を乗り越え、急いでフィルを振り返った。フィルネストはぎゅっと杖を握りしめ、震えそうになる膝を何とか支えながら彼に続いた。
魔物が街を襲う――そんなことは、ただの伝説かと思っていた。なのに今、目の前で起こっているこの惨劇に、フィルは頭が真っ白になりそうだった。凶暴な咆哮が響くたびに、かすかな魔力の波動が体に刺さるようだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」エイレンが心配そうに振り返る。彼の目には怯えも見えたが、今は二人で強くいなければならなかった。
「大丈夫…行こう。指輪を祠に持っていかなきゃ。」フィルネストはかつて母から聞かされた話を思い出していた。街の外れにある古びた祠。そこには、古の勇者の力が眠っているという。魔物が街を襲う時、そこに家に伝わる指輪を捧げて祈れば、勇者の力が解き放たれ、救いが訪れる…と。
けれど、それが本当に役に立つのか、フィルにはわからなかった。ただ、何かにすがりつくしかないほど、今は絶望が街を覆っていた。
「お嬢様、急ぎましょう!」エイレンが手を差し伸べ、フィルはその手を取って駆け出した。互いに息を切らしながら、街の端にある祠を目指す。背後には魔物の重い足音と、砕け散る物音が響いていた。
彼らがたどり着いたのは、苔むした石造りの祠だった。かつて人々が信じて祀った場所。フィルは埃まみれの扉を開け放ち、奥に眠る祭壇に向かって震える声で祈りを捧げた。
「勇者様…!どうか…私たちを、助けてください…!」
しばらくすると、持っていた指輪からかすかな光が溢れ出し、静寂に包まれていた空気が変わったように感じられた。フィルとエイレンは息を呑んだ。何かが起ころうとしている――そんな確信が胸に広がった。
指輪の光は徐々に強くなり、祠の中を照らし出した。フィルネストは思わず目を細めながら、希望と不安の入り混じった心境でその光景を見つめていた。エイレンは一歩後ろに下がり、敬意を込めてフィルに言った。
「お嬢様…本当にこれで大丈夫なのでしょうか?」
フィルネストは一瞬迷いを見せたが、すぐに気持ちを奮い立たせて頷いた。「大丈夫なはずよ…信じるしかない。」
光の中心から、ゆっくりと何かが現れる。薄い靄の中に浮かび上がったのは、一人の青年の姿だった。くすんだ金色の髪はゆるやかに波打ち、後ろで軽く束ねられていた。その髪と同じ色の瞳は静かに輝き、どこか憂いを帯びた表情が浮かんでいる。緑のベストとスカーフタイを身につけ、白いシャツがその上品さを引き立てる。腰には長い剣を携え、ゴツいベルトとブーツが彼の堂々とした佇まいを強調していた。
彼ー歳の頃は十七くらいだろうかーは、まだ夢の中にいるかのようにぼんやりと立ち、手を伸ばしてあくびをした。
「ふぁーあ…誰だよ、僕を起こしたのは…」
フィルは驚きと戸惑いを隠せずに目を見開いた。「あなたが…勇者ログツィーノ?」
青年はその言葉に目を細め、じっくりとフィルとエイレンを見つめた。彼の表情はどこか気だるげで、まるで事態の深刻さを理解していないようだった。
「そう呼ばれていたのは、何百年も前のことだな…。で?何がそんなに重要な案件なんだ?」ログはまた大きく伸びをし、辺りを見回した。
エイレンが、慌てて頭を下げた。「お初にお目にかかります、勇者様!わたしは、エイレンといいまして、リューヴェン家に仕える者です。そしてこちらがフィルネスト=リューヴェン様です。
実は、今まさに街が魔物に襲われておりまして…どうか、お力を貸していただけませんか!」
ログはしばらく沈黙したあと、興味なさそうに肩をすくめた。「魔物ねぇ…。確か何百年も前に、僕が倒したと思ってたんだけど…。」彼はフィルの手の中の指輪を見つめながら、ぼんやりとした表情を浮かべた。
フィルは焦りを隠せなかった。「お願い!この街はあなたの血筋が守ってきた大切な場所なの!今まで受け継がれてきた勇者の力が必要なのよ!」
ログはフィルの真剣な眼差しを見て、少しだけ表情を変えた。何かを考えてから彼はゆっくりと口元に笑みを浮かべ、軽く手をひらひらと振った。「ま、いいよ。ただし――」
その瞬間、ログの目が鋭く光った。「僕がやるからには、ちゃんと見返りをもらうからな。」
フィルとエイレンは顔を見合わせ、再び迫りくる魔物の咆哮を耳にしながら、ログがどれほどの力を持つのかをまだ知らなかった。だが、今はその力を信じるしかない。
「わかったわ。でも見返りは…何がいるのかしら」
ログはフィルの真剣な眼差しを見て、小さくため息をついた。そして、指輪に閉じ込められていた長い年月の重さがにじむような表情でつぶやいた。
「僕が求める見返りは簡単なものじゃないんだ。」彼は視線を遠くに向けて、静かに続けた。「…自由だ。自由がほしい。だけど、その自由をどうやって手に入れるか、自分でもわからないんだ。」
フィルネストはその言葉に驚き、思わず一歩近づいた。「自由…?」
ログは少し寂しげに笑みを浮かべ、フィルに向き直った。「ああ。だからお嬢さん――いや、フィルネスト。君には、その方法を一緒に探してほしい。」
フィルはその真摯な願いに、胸が締め付けられるような思いがした。彼の瞳には、これまで見たことのない真剣な光が宿っていた。長い間封印されていたログの孤独を感じ取りながら、彼女は深く頷いた。
「わかった。約束するわ、一緒に自由を見つけましょう。」
エイレンはそのやり取りを見て、少し不安そうに口を開いた。「お嬢様、本当に大丈夫ですか…?信用できるんでしょうか…?」
フィルはエイレンに振り返り、決意を込めて微笑んだ。「ええ、大丈夫よ。勇者様に力を貸してもらう代わりに、私たちも彼の望みを叶える手助けをするの。」
ログは満足そうに目を細め、ふっと笑った。「じゃあ、契約成立だな。さて…まずはこの街を守ってやるとしようか。」
ログの体がゆっくりと輝き始め、全体が黄金に変わっていく。その周囲に金色のオーラが広がり、圧倒的な力がその場の空気を震わせた。
「さあ、見せてやるよ。僕の本気を。」
ログが手を軽くかざすと、祠全体が振動し始めた。黄金の光が祭壇から広がり、壁に反射して祠全体を染め上げる。
「フィル、指輪をしっかり持っていろ」
「は、はい」
フィルはログの言葉を聞いて、すぐに指輪を指にはめた。
ログは歩き出し、手で扉の方を指し示す。
フィルとエイレンは一瞬顔を見合わせたが、彼の視線に促されて扉へと駆け寄る。エイレンが力強く扉を押し開けると、外の空気が冷たく二人の顔に当たった。
丘の下に、瓦礫だらけの街が視界に広がる。遠くでは魔物が低い咆哮を響かせながら、建物を破壊し続けていた。
ログが祠から悠々と歩み出る。その足音は重くないのに、不思議な存在感を放っていた。彼の背後から黄金の光が余韻のように祠内に残り、扉を開け放たれた祠の中を淡く照らしている。
ログは丘をどんどん降りていき、フィルとエイレンがついていく。街の入り口までたどり着くと、ログは辺りを一瞥し、軽く首を鳴らした。
そしていよいよ、腰の剣を抜いて、目の前に振りかざした。
「さて、始めるか。」
黄金のオーラが彼の体からさらに強く放たれ、周囲の空気がまるで熱を帯びたように揺れ始める。その瞬間、フィルは背筋がぞくりとするような感覚を覚え、エイレンの腕を思わずつかんだ。
エイレンもその光景に圧倒され、震える声で応じた。「信じられない…!」
ログはエイレンの言葉には答えず、前方をじっと見つめていた。そして、低く、しかしはっきりとした声で言う。
「どいてろよ、僕が全部片付ける」
フィルとエイレンは無意識に後ずさり、ログの視線の先を見る。そこには、魔物の大群がすでにこちらを向いて動き出していた――。
ログが放つ金色のオーラがさらに強く輝き、周囲の空気が震え始めた。魔物たちはその圧倒的な力を感じ取ったのか、低い唸り声を上げながら動きを止め、次第に後ずさりしていく。
フィルはその光景に息を飲み、全身に鳥肌が立つのを感じていた。「すごい…」
ログは何も言わず、ただ魔物たちをじっと見据えたまま、右手の剣をゆっくりと振り上げた。空気がピンと張り詰め、大地そのものが彼の意志に応じて揺らめくようだった。
「さあ…終わりにしようか。」
その声は低く響き、まるで空気そのものが震えるようだった。
街は黒い霧のような魔物たちに覆われ、建物はひび割れ、瓦礫が散乱していた。ログよりもはるかに大きな魔物たちが、鋭い爪を振り上げ、歪んだ目で光を睨みつけている。しかし――ログの放つ圧倒的なオーラに飲み込まれるように、彼らは一瞬ひるんだ。
ログは剣を軽く振り上げ、じっと魔物たちを見つめる。吠え声を上げて一匹の魔物が跳びかかった。その鋭い爪が空を裂き、ログの首元を狙う――だが、ログの剣から放たれた光の刃が音もなく空気を裂き、魔物を瞬時に貫いた。次の瞬間、魔物の体は黄金の光に包まれ、跡形もなく消え去った。
フィルとエイレンは瓦礫の陰からその光景を見つめ、息を飲んでいた。
「すごい…これが勇者様の力なの…?」フィルは呟きながら、全身に鳥肌が立つのを感じた。
エイレンも呆然と呟いた。「これが、本物の伝説の力なのか…!」その水色の瞳には、恐怖と尊敬が入り混じった感情が浮かんでいる。
ログは街の広場に進み出て、魔物たちを一瞥した。その瞳には達成感ではなく、虚無の光が浮かんでいる。そして、低く呟くように言った。
「これが自由の代償か。」
その一言をきっかけに、周囲の魔物たちが一斉に襲いかかる。鋭い爪と低い咆哮が混じり合い、瓦礫を蹴散らしながら迫ってくる。
ログは小さく息を吐き、眉をひそめた。
「面倒だ…いっきに終わらせる!」
剣を大きく振り上げた瞬間、光が爆発するように広がり、街中を覆った。眩しすぎる光と衝撃に、フィルとエイレンは思わず目を閉じた。
その間に、光の刃がまるで生き物のように魔物たちを追い、次々と闇を打ち砕いていく。空気が震え、地面が揺れる。魔物の咆哮(ほうこう)は次第に悲鳴に変わり、ついには音すら消えた。
街全体を覆っていた闇が黄金の光に浄化され、辺りには神聖な静けさが広がる。ログは光を放つ自分の手を見つめ、ほんの一瞬、切ない表情を浮かべた。その金色の瞳には、過去の記憶が一瞬だけ映り込んだようにも見えたが、すぐにそれをかき消すように肩を軽くすくめた。
「さて、これでしばらくは街も安全だな。」
その言葉と共に、ログを包んでいた金色のオーラが徐々に消え始める。髪の輝きもくすんだ金色に戻り、彼は疲れたようにふらりとよろけた。
「勇者様、大丈夫?」フィルが慌てて支えると、ログは少し苦笑しながら彼女を見下ろした。
「少し、疲れただけだ…さすがに、何百年ぶりの本気はこたえるな。」
その瞬間、ログの体がふっと霞のように消え始めた。彼の姿は完全に消え去り、フィルの指にはまった家宝の指輪が一瞬煌めいただけだった。
フィルはその指輪をじっと見つめる。胸の中に湧き上がる奇妙な感覚――強大な力を持つのに、どこか儚さを感じさせる存在。まるで、いつか完全に消えてしまうのではないかという予感が彼女の胸を締め付けた。
エイレンが心配そうにフィルに近づく。「お嬢様、ログ様は…?」
フィルは小さく微笑み、指輪をそっと握りしめた。「大丈夫よ。きっと、また必要なときに出てきてくれるわ。」
静まり返った街並みの中、フィルとエイレンはただその場に立ち尽くしていた。街に静けさが戻った――だが、フィルとエイレンの胸には、この出会いがさらなる波乱の幕開けに過ぎないことを予感させる、不穏なざわめきが残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます