無懼面影
9話 試験合格
「疲れたぁ……」
俺は愛用のベッドに身を投げて、見慣れた天井を眺めた。子供のころ、幾度となく数えたシミがそこにはある。一日帰らなかっただけで、なんだかとっても恋しく懐かしい場所のようにすら感じた。久しぶりに嗅ぐ自室の匂いは、何とも言えない落ち着きがある。
ゴロンと寝返りを打てば、自ずと視線は壁を向く。そこにはこれでもかと張り付けられた無数の付箋紙が見えた。俺が大学受験の為にと、高校入学初日にこさえたものだ。ランダムに英単語がちりばめられていて、その裏には日本語訳が記載されている。思い出せないときはわざわざめくる必要があるのだ。それが面倒くさいので、自然と頭に単語が記憶されていくという寸法である。
「そろそろ、張り替えるか」
もう大体の英単語は頭に入っている。次の単語に切り替える時期だろう。そう思って上体を起こし、一枚手に取る。黄色い付箋に書かれた黒の文字を眺め、気づいた。そうだ、俺はもう、高校に行かなくていいんだった。
今日の出来事が、まるで夢だったかのようにすら感じる。人生でこれが二度目だろうか、命を懸けたのは。かつての俺は、自分の命を懸けて他人の人生を滅茶苦茶にしてやることしか考えていなかった。俺の死を目の当たりにして、生涯悔い続けろとしか考えていなかった。そんな俺が、今や世のため人のために、化け物退治をする側に回っただなんて。
「人生って何があるか分からねえなぁ」
熱不知と呼ばれた巨大な妖が、一体世界にどんな影響を及ぼすのかは分からない。ただ、戦闘中に見せた殺意高い攻撃や、その余波で発生する火災を見れば、どうなるのか想像に難くない。あのまま放置していれば、きっと霞ヶ浦周辺で数名の死者が出ただろう。俺は、未来の犠牲者を救ったということになる。そう自負してもいいはずだ。
俺が化け物を倒した。その結果、きっとどこかで誰かの命が救われた。自然と口角が上がるのを感じた。
完全に暗記した付箋紙を壁からはがして、くしゃくしゃに丸めてからごみ箱に捨てる。本棚に並んだ参考書から、まだ手を付けていないものを適当に選んで机の上に出した。なんとなく、勉強したい気持ちだったのだ。いつもそうだ。つらいこと、苦しいことがあれば俺は必ず勉強した。楽しいこと、嬉しいことがあっても勉強した。心の中に浮かぶ
シャープペンシルの頭を数度ノックしてから、俺はキャンパスノートを手に取る。すでに書き込まれた真っ黒なページを開いて、隙間に問題を書き写す。さて、頭の体操をしよう。
そんな俺を労ってくれているのだろうか、開いた窓から吹く春の風は、穏やかに俺を包み込んでくれた。鼻から息を吸うと、微かに甘い香りが漂ってくる。きっと両親が客用の紅茶を入れているのだろう。
今家には、片桐さんが来ている。正直彼に対して思うことは多々ある。あの時はついつい不満をぶちまけてしまったんだっけ。
俺の記憶は、ちょうど熱不知を倒した直後を映していた。ぬかるんだ地面に寝そべった俺の頭上を、薄い羊雲が揺蕩う。天を流れる雲の隙間からは、太陽光が柱のように伸びていた。
「ははは、驚いたよ牧志君」
俺の隣に腰かけて、片桐さんは笑う。
「まさかその刀で熱不知を倒すだなんてな。正直無理だと思っていたからね」
「でしょうね……」
俺は寝そべったままの姿勢で増長刀を掲げる。黒い刃が太陽の光を受けて、ギラリと輝いた。
「こいつ、全然斬れないっすもん」
「ははは、そう不貞腐れるな。最初の数分で君の合格は決まっていたのだ。すぐに助けなかった我にも非がある」
「最初の数分?」
「あぁ、その刀を伸ばせただけでも上出来だ。戒律を持っているのにちゃんと形代を扱うだけの技量がある。それさえ分かれば十分だったのだ。その時点で君の試験は終了していた」
「そうっすか」
最初から俺の実力を甘く見ていたってことか。癪に障る言い方だ。
「増長刀はかなりシンプルな性格をしていてね。癖もなく扱いやすい。その分弱いのが難点なのだが。もし形代に好かれる人間が扱えば、その度合いを長さで示してくれる。これ程試験に適した形代は他に無くてね」
「なんですぐ助けなかったんすか」
増長刀を睨みつけながら、俺は尋ねた。
「君の戦い方をもっと見たくなったからだよ」
戒律を使って、一体何度時を戻しただろうか。そのうち数回は死を覚悟さえした。俺の戒律がなければ、本当に死んでいたかもしれない。
「命懸けにも程があるっすね……」
「ははは、本当にな。我々の仕事は命懸けだ。その覚悟を持って欲しかっただけなのだが……。まさかたった一人で信の階級を持つ熱不知を倒してしまうとは。我はこんな逸材初めて見た。凄いぞ本当に」
素直に感謝の言葉を述べるべきだろうか。いや、俺を試すようなことをした男に礼の言葉などくれてやる義理は無い。
「で、俺を守ってくれた鎖はなんなんすか?」
「守った鎖……? 我はそんなもの使っていないが……」
そうだった、手を叩いて無かったことにしたんだ。
「
「もしかして、どこかの時間軸の我、その技使ってた?」
「はい、ムカついたんですぐ手を叩きましたけど」
そう答えると、彼はガッハッハッと豪快に笑って俺の背中を叩いた。
「それは我の戒律だよ。一人の人間をあらゆる攻撃から守ることが出来る。君が死ぬと判断した時に使うつもりだったものだ。でも、君結構機敏に熱不知の攻撃を回避するもんだから、使うタイミングないなぁと思っていたんだよ。まさか、我が助けた時間を無かったことにするだなんて。ハッハッハ、本当に気に入った。良い気概の持ち主だ!」
ムッとした俺は、彼から視線を外す。一面焼け野原と化した霞ヶ浦の
もし仮に俺が熱不知を倒せなかったら、どうなっていただろうか。もし仮に俺が死んだり、試験中断していたら。今度は誰が犠牲になっていたのだろうか。
いや、そもそも俺が苦労しなくても、きっと片桐さんが倒していたのだろう。俺の事を下に見ていることが明白な程に、彼の口調は朗らかだった。きっと俺がここまで死にものぐるいにならなくとも、彼からすれば御茶の子さいさい朝飯前なのかもしれない。
結局俺は、彼に踊らされていただけということだ。
隣で笑っていた男が、突然ピタリと笑うのをやめた。流石に俺の気を損ねた事に気がついたらしい。なんと声をかけたら良いか分からず、動揺しているに違いない。いい気味だ。
それにしても、熱不知は強かった。片桐さんの言うように、命のやり取りが当然のように行われた戦いだった。どうしてあそこまでムキになれたのか、今となっては自分の異常さに呆れてしまうほどだ。もしかしたらこれが、形代を手にした代償なのだろうか。
「やってらんねぇ……」
俺は誰にでもなくそう呟くと、ぬかるんだ地面で寝返りを打った。両足のふくらはぎがパンパンに腫れている。少し伸びをすると、気持ちがいい。
「さて。改めて、君は明日から我々の組織に入ることとなる。何か質問はあるかな?」
警察庁秘匿存在局妖狩課、この組織に入るということは、俺の命が危機に晒されることと同義でもある。何のために? 俺はわざわざ危険を晒してこの組織に従事する理由があるのだろうか。そもそも、危険なことをして俺の両親は何というだろうか。
そう考えて、ハッとした。そうだ、親になんて説明しよう。警察に入ることになった? 化け物退治する仕事に就く? 命がけの仕事だ? いやいや、そんなこと親に言えるわけがない。俺は良心を安心させるために、進学校へ入学したんじゃないか。せっかく安定した生活を目標に勉強だって頑張っていたはずなのに。これではむしろ両親を心配させてしまう。どうして今までそのことを失念していたのだろう。
「えっと、いろいろと聞きたいことがあるんすけど」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、片桐さんは腰を上げて冴真に声をかけた。
「柴崎君、君はどう思った?」
体育座りで退屈そうにしていた冴真が、俺の方をチラリと見やる。目が合ったからだろうか、彼はすぐに視線をそらすと、口を微かに動かした。
「弱いですよ。……俺より」
「ははは、それが君の答えかな?」
「他に何を言えばよろしいでしょうか? 係長、俺は昨晩言ったことを撤回するつもりなんかありませんよ。コイツは咎人で、俺よりは弱いです」
冴真は俺と目を合わせようとしない。だが、その表情からは余裕が消えていた。間違いなく、一泡吹かせてやれたみたいだ。
「ははは。そうかそうか。つまり合格ということだな?」
片桐さんの問いかけに、冴真は答えようとしないまま立ち上がる。手首をプラプラさせてから、彼は湖の方へと歩き始めた。彼の目線の先には、息絶えた熱不知。
草木を燃やしていた炎もいつの間にか勢いが衰え、消火しつつあった。
「牧志君、柴崎君はああ言ったが、おそらく君は彼よりもずっと強いよ。本来、強い戒律を与えられた人間は形代に嫌われるんだ。既に罪を犯した人間だからね。形代は罪人を嫌う傾向にあるんだ。だから、大抵の咎人は武器の力を存分に出すことなどできない。しかし、君は戒律が便利で強い上に、その
「ありがとう……です」
「お世辞なんかじゃない。我は本当に、君の才能が末恐ろしいんだ」
「……はい」
褒められて悪い気はしない。俺は上体を起こして冴真の方を眺めた。昨日の放課後、俺を殺そうとした人間。まるで俺の事を目の敵みたいに扱ってくる人間。そんなイメージしかない柴崎冴真。俺はこの組織に所属して、彼と上手くやって行けるだろうか。というか、本当に所属するべきなのだろうか。
どうやら冴真は、たった今討伐された妖の様子を確認しているようだった。斬られた首の断面を覗き込んだり、落ちた頭に数発の弾丸を打ち込んだりしている。
「あれは、何を?」
「妖の種類によっては、首を跳ねても生きている場合があるからね。絶命の確認だよ。彼はああ見えて秘匿存在への使命感が強くてね。しっかりしている優秀な部下だよ」
「そうっすか……」
死体の確認に精を出す冴真を眺めながら、俺は大きく伸びをする。幾度となく死にかけたせいだろうか、筋肉が凝り固まって痛い。
「いずれ牧志君、君も彼のように働くことになるだろう。よく見て学ぶといい」
「分かったっす……」
未だに実感が持てないでいる。ここは本当に日本なのだろうかと疑ってしまう気持ちさえある。今まで妖なんて存在、全く知らなかったからだ。そんな世間から隠された存在と戦う仕事、両親が許してくれるとは思えない。
「さて、明日になったら君は我々と同じ妖狩課の仲間ということになる。よろしく頼むよ」
笑顔で握手を求めてきた片桐さんを見つめて、俺は首を横に振った。
「あの、俺……。やっぱり、その、辞めておくっす。両親がきっと、不安になると思うんで」
俺の答えを想定していたのだろうか。片桐さんは笑顔を崩さないまま口を開いた。
「そうか、では咎人である君は今この場で始末する必要があるな。我が国日本に、君のような存在は必要ない」
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