④
トイレから教室に戻ろうとしたとき。奇妙なことが起こった。
僕は理を無視した現実に顔をしかめ、同時にヒドく溜息を吐いた。
ヒョッとしてコレは、先ほどまでのやりとりは、モテない一人の悲しき童貞が生み出した、眼にも口にも入れても、なんなら鼻で嗅いでも痛くて堪らない、独りよがりでは無いのか。そういぶかしんだ。
「ドアが……直ってる?
伸ばした手、躊躇しながら呟く。
音読と同じだった。
口に出せば少しくらい、理解できない物も、理解できる気がしたんだ。
「来たね……ノノ
扉の奥、彼女の声。
音色は優しく、朗らかだ。正に春と呼んで差し支え無い。幻覚では無かったようだ。
されど、されど。この深みはなんだ。濃い藍はなんだ。突如、深海へと引き刷り込む。さては冬の有磯海か。なればかくも耳をにぎやかせしむる、この玉声は蜃気楼か。本能よ。そう言いたいのか。
「ノノ?
「あ、ああ大丈夫。来たとも。ウン
不安げに呼ばれる、名前。名前。僕の名前。
そうさ、あんな金沢のじゃない方なんてどうでも良いんだ。
犬のように、首輪でも付いたように。前へ、前へ前へ。僕の脚は動いた。
「好かった。逃げたのかと思った。
"逃げた?"
意味が分からなかった。
本当に意味が分からなかった。ヒザの震えが止まらないことも、訳が分からなかった。
それでも僕は男だ。男なのだから、女性の真剣には、それこそ真剣を呑み込む覚悟で挑まねばならない。そうだろ?
いや、おかしい。おかしいだろう。
踏みとどまれ! 何故クラスメイト相手に、こんな身震いをして唇まで震わせ、歯まで鳴らして……本当に、本当に合っているのか? 扉の奥、いるのはクラスのマドンナか? 彼女の声を僕は一度でも、あの違和感があってから見たのか?
うるさい。黙れ!
「逃げる?、僕がキミから?……まさか!
握り潰すように語気を強める。手を握る。いまお手洗いから出てきたというのに、ひどくベタ付いていた。
ドアに掛ける手は震え、二つにまで重なって見えた。
うるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ!!
ドアの取っ手に手を掛けたとき。僕はもう、ニュートンすら信じられなくなった。
万有引力? 嗤わせるなト叫んだ。
全てがべったりト吸い寄せられ、歪み、潰れ、おしまがり、伸された。
臓器という臓器が、骨という骨が踊り狂って酒池肉林。五感が跳び、狂いては、バキリ。へし折られた。
主よ。主よ。偉大なる主よ聞こえますか。
貴方は何を警告するのですか。海を割り、言葉を裂き、世界を沈める力で尚、取り返しの付かないコトが。この先にあるのだト、そう仰られるのですか。
『ノノ……おいで
祈りは届かない。
届くのは彼女の声だ。
低く、暗い、闇の声。
上等だ。掛かってこい。見せて貰おうじゃ無いか。神すら
"バンっ" ト鳴らした。
勢いよく、世界を開いた。
……そして、僕は一瞬、ほんの一瞬ばかり。
彼女の姿を、見てしまった。。
『見たね、ノノ
言われても無いのに戸を閉める。大人しい会釈が一つだけあって。一歩、二歩、前に出る。
呼吸は、いやに落ち着いている。
眼前、情報は
彼女。彼女なんだろうか。
疑問形は絶えない。
いや彼女だ。彼女なんだ。
僕が彼女だトそう言えば、それで済む話じゃ無いか。
言い聞かせる。深呼吸を一回。
させていただきまして他、見やればこそ。
窓奥、空は鮮やか、満点の紫。少しばかりカラスの群れ、二、三万羽ほどばかり。龍のように回りくねる。ずらり口を震わせて、知らぬお経を喚き唱えている。
時計は午後6(x+3y)時、√297i分。左に3本、秒針が枝折れ曲がりました頃。
※只今ダイヤが乱れております。ご了承ください。
先生、いずこ。影も形も無し。記憶にも無し。先生、どなたかしら。ココは謁見の場なりて。とりとめも無き思い出。今捨ててしまいませうネ。ええキット。ええ。
意識 イジョウ
神経 ミギヒダリワカラズ
記憶 マルデトブ
コウネツアリ、ハライタシ。
されど心、おだやかなり。
診察結果は安楽死。
神様、圏外ですココは。
もう逃げ場無し。
悟りた眼だけが不気味に冴えた。冴え渡ってきやがった。
血の気こそ引ききれば干潮の次第。そぞろ覚悟も定まって、中心を見やる。彼女の姿に目をやる。阿波踊る眼光で見据える。
何、特段おかしいこともないじゃないか。
普段の猫染みたかわいさは何処にも無い。猛禽、はたまたハ虫類、果ては蛇。
統一されたりしコトはただ一つ。捕食者だということ。
僕を、エモノを見る目は生気無く。濁り、されどヒドく、爛々と血走っていた。
淡桃の長髪は肩の上、鮮やかに広がる。右耳、かすかに藤の耳飾りが光る。
みずみずしい白肌。頬は林檎のように紅く染まる。小さな鼻、息は強く荒々しい。鬼気迫る興奮を、咽び返る淫乱を、微塵も隠さず撒き散らかす。
爪はイヤに長かった。白雪を殺すような、毒々しい紅玉だった。
同じ色で膨らんだ唇には、艶めかしく舌が走った。僕は吸い寄せられるようにソレを見つめていた。やがてチラリと覗いた八重歯、いや牙に、いよいよ意識は釘付けになった。
『キレイ?
そう尋ねてくる彼女。
口角は歪に、恐ろしく裂けるほど持ち上がり、眼は逆月が如く細まった。
制服の上、外された上二つのボタンから谷間が見えた。ソレは強烈な色香をごうごうト醸しては、僕をたちまち取り囲んだ。
してはならない呼吸をした。
また一つ、また一つ、マツミさん。彼女の鱗粉が充満する酸素を吸った。
血液が生まれ変わって、肺が轟いて、手足が泣きさけんだ。
打ち震え、クラ付いた脳。身の毛もよだてり、腐るほどに甘ったるい。熟れた甘美が闊歩していた。
「あぁ、キレイ。キレイだよ。
無機物のように口が動いた。
途端、彼女の顔はまた妖しく歪んだ。
「ヒヒっ、けひゃ、はヒャ、ヒヒヒッ!
ねたっこく、どろどろとしてへばりつく。あの笑い声だ。
"どんな顔してるのかな"
答え合わせの時間だ。
恥も外聞もなかった。
ヒドく紅潮した両の頬。千切るように手が包む。催しを我慢するように、身体をグネグネトくねらせる。
開いた口から息が漏れる。
指が二本入って、そこからポタリく-く、どろりく-く、糸を引いて唾液がこぼれ落ちた。
麻のような光景だ。
注射のように突き刺さるんだ。
頭蓋骨を外して、上から殴るようにして脳をこねこねく-く。一種の解放感を帯びて、僕を破壊したんだ。
『ならもう、もう――
「もう?
『良いよね。良いよね、良いよ……ナ?なぁ!?イイヨナァァ!?
耳をつんざく奇っ怪な嬌声が飛び出す。
紅い、紅い月が昇る。
太陽は隠れ、空は紫からあまねくを茹で上げ、焦がし尽くせり溶岩と染めらむ。
黒と赤。その中心、おはしめす。
額、ザラリ血が流れる。木々の千切れるような音と共に、一対のツノが生えそびゆる。
セーラー服が引き裂けて。背中、空を包む龍の手を模した翼が生える。
ナルホド、ナルホドナルホド……
人間じゃ無い。
今更、今更だ。確信した。
ソレが、ソレがなんだと言うんだろう。何が出来ると言うんだろう。
彼女は手を伸ばす。僕を
催眠術を掛けるように。罠へと落とし込むように。
モチロン、エモノは落ちるしか無い。
彼女の背が下がる。膝が曲がる。そのまま床が割れる。スカートは翻る。翼は広がる。手は伸び、爪が光る。
僕へめがけて、襲い来る。
受け止める?、否。受け入れる。
それしかないのだから。
「が――ッ、
声は出なかった。
逃げるヒマなど微塵も無かった。
というか脚が動かなかった。
首を押さえられた。
潰れる。動脈が泣きわめく。
遅い。遅い。遅い。
もう遅い。
白んだ世界。眼前、蛇のような口が噴煙を
「ずぅっと、ずっと。ずっと! 待ってたよ!!
勢いよく押し倒した男の上、彼女は金切り混じりの声を荒げる。深緑に澱んでいた天井だった何かに向かって喚く。
「な、何を……
苦し紛れに声を漏らす。
頬を直ぐに掴まれる。
「
彼女の顔が迫る。輪郭がぼやける。互いの息がぶつかり、まつげを数える程に接近する。
火照りきって、今にも融けてしまうんじゃ無いか。
そう心配になるほど彼女の顔は紅くなっていた。
彼女は僕の髪に頭を埋める。
ハッキリト音を立てて、僕にも解るように深呼吸してみせる。
ゴロゴロト猫がよろこぶ様な音が、ノドから鳴り響く。
「……オイしそうだねぇ、おいしそうだねぇ。ンンンン堪んなイ!!
馬乗りになった彼女の腰が暴れる。食事を前にした子供に握られたフォークのようにガンガント、壊れる勢いで叩きつけられる。
彼女の髪が、胸が、腕が、スカートが、太ももの肉が揺れる。揺れ動く。僕に当たる。
舞い上がる異性の狂騒に、僕は思わず目をそらす。お気に召さないのか脅される。ソレをしばらく繰り返す。
解っている。解っている。
嗚呼。解っているともさ、
僕は喰われる。
彼女に、人間では無い、上の何かに喰われる。
首も腕も腰も足も、全てが今、アザだらけ、ひしゃげた姿で泣きわめいている。
ミシミシト音をたて、最後の瞬間を迎えようとしている。
それでも僕はイカれていた。
初めて密着した異性。五感を殴られる感覚。ときめいてしまっていた。
心臓が恐ろしいほどうねって、暴れ回りたかった。叫びたくてしょうが無かった。
何秒くらい経ったんだろう。
何時間だろう。
それとも、何日だろう。
きっと永遠だろう。
心地よさの中にあった。
彼女はフイに痺れる。「ん"っ! ト一際大きな声で叫んで、上へ勢いよく白眼を向いた。
僕のスネを踏みつけていたローファーから、力がプツント抜けた。
長い足が震え、ピント勢い良く両側に伸びた。かト思えば力無く、そのまま床に倒れた。
彼女はしばらくばかり、僕の上に座って、そのままダランと伸びていた。
小さくヒクヒクト、痙攣していた。
今なら逃げられる。そんな思考は微塵も湧かなかった。
ただあのエメラルドが戻ってくる、その瞬間を心待ちにしていた。
何度でも言うよ。僕はもう手遅れだったんだ。
静寂の中、握りしめられていた腕より。脈だけがパチパチ、パチパチト鳴いていた。
そして、眼が戻ってきた。
どこか穏やかな面持ちの彼女。普段よりも落ち着きを取り戻しては、ゆっくりと口を開いた。
「……良い子だね、"待て" も無いのに
「いや、悪い子だよ
「どうして?
「誰の警告も聴かなかった
「……へへ、何ソレ
神か。それとも貴女か。はたまた、自分自身の本能とかヌカス阿呆か。
まぁ誰であれ、あらんとも。関係ない。
僕は、僕は全て無視した。
いつ死ぬか、解らぬ怯えを今ココに懐こうじゃないか。
そう、覚悟が統べてさ。
全て、自分の意思でここに居るんだ。
今、究極的な自由なのだ。
そう思うと全てが楽になる。
ヤケに落ち着く。今から起こるコトを、受け入れてやろうト。そんな気持ちになる。
「一つ良い?
「なぁに?
あやすような、母のような声だった。エモノへの慈悲だろうか。今なら全て、彼女は全て聴いてくれる気がした。
抱きつけば抱きしめてくれる安らぎを感じた。
「じょ……マツミさん。
「"さん" ?
「……マツミちゃん。
「良いよ。○にしたげる
「どうも。改めてマツミちゃん
「ん。
「なんで食べるの?
「ソレは……キミ?、それとも、"人" ?
「どっちもが良いね。ヨクバリかな?
僕の質問に彼女は首をかしげた。
紅潮、ツノ、翼、牙、全てそのままだというのに。僕は初めて正面から、本物のマツミさんを見た気がした。
眼を横に反らし、眉を不機嫌気味にしかめて。口は堅く結ばれていた。
普段のギャルよりも、ヨッポド色香に溢れた、そして知的な思案だった。
「人、からでいーい?
「モチロン
「……蚊みたいなモンだよ、人の生命力。食べなきゃ死ぬんだよ、私ら。
ちゃらけた比喩もほどほどに。かなり冷徹に彼女は告げる。エメラルドはどこかさみしげに、僕の奥を見つめていた。
我は異形の怪物。ソレを主張するように、翼はパタパタト動いていた。なんとも悲しいハタメキであった。
「ソレだけ?
「ソレだけって……
「だってその言い方じゃ――
『何も食べることないじゃないか
先を越された。
言葉は噤まれる。
合いせり瞳には、再び捕食者の狂気が宿り始める。
『ごちそうって。違うじゃん
明らかに音色が変わった声に、僕は静かにうなずく。
『そう。カニもエビもステーキも、トリュフもキャビアも……死ぬわけじゃない。けど食べるじゃん。ソレと一緒だよ、
「つまり――?
煮え切らない。
解っているとも。
僕はわざと、わざと彼女を睨んだ。からかうように、嘲笑うように。煽るように含みを持たせた。悪辣にニヒルに、ニタリと笑って見せた。
そんな僕の挑発に、彼女は応えた。
唇で答えた。
強引に合わさった唇と歯茎、じんわりト痛みが走る。
舌が侵入してくる。
息は出来ない。抵抗はもっと出来ない。
万力じみた力で歯を押し広げられ、そこら中をくまなく、舐め摂られ、漉しとられる。
二倍になった口内、逃げ惑う舌。
飛び交う荒熱に絡みつかれ、粘つき、ピチピチト鳴き声を垂らし、糸を捏ね、伸ばす。紡ぐ。
舌と舌が成した糸は澱となってせめぎ、脳へと押し寄せる。グツグツ。沸騰が停まらない。
全ての理性がぼぉっート噴煙を上げて、勢いよく溶け出す。
息場所を失った手、指が絡んでくる。全てが、全てが熱かった。
彼女の力はか弱く。正に少女ト言ってよかった。されど僕の手は決して離れず、ただ彼女のなすがまま、流し込まれる唾液にノドを鳴らした。夢中で鳴らした。何度も何度も、絶えず鳴らし続けた。
"ぷぇ、ふぅ……んぐっ"
永久の連結が終わりを告げる。
汚らしい水糸をYシャツに垂らしながら。息の上がった僕たちは、互いに互いを見つめた。息荒く、声霞み、
頬は紅く、全てがだらしない。原罪を灯した恍惚で、お互いを見据えた。
「どこからがいい……?
そう告げる彼女に、僕は深く一度目を閉じて、もう一度開いた。
「最後まで、キミを見ていたい。
「ヒュフフ……いいよぉ、全部良いよ……じゃ。いただきます――
口を開く。つい先ほどまで僕と繋がっていた口が開く。
細胞たちがざわめき起つ。嫌な気はしない。べろりト一回、左目玉を舐められる。
そして――まずは首筋。ゆっくりと、彼女の牙が、口が、欲が、向かっていく。
丁度、瞬間だった。
紫の宙、彗星が墜ちてきたのは。。
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