トイレから教室に戻ろうとしたとき。奇妙なことが起こった。


 僕は理を無視した現実に顔をしかめ、同時にヒドく溜息を吐いた。

 ヒョッとしてコレは、先ほどまでのやりとりは、モテない一人の悲しき童貞が生み出した、眼にも口にも入れても、なんなら鼻で嗅いでも痛くて堪らない、独りよがりでは無いのか。そういぶかしんだ。


「ドアが……直ってる?


 伸ばした手、躊躇しながら呟く。

 音読と同じだった。

 口に出せば少しくらい、理解できない物も、理解できる気がしたんだ。


「来たね……ノノ


 扉の奥、彼女の声。

 音色は優しく、朗らかだ。正に春と呼んで差し支え無い。幻覚では無かったようだ。

 されど、されど。この深みはなんだ。濃い藍はなんだ。突如、深海へと引き刷り込む。さては冬の有磯海か。なればかくも耳をにぎやかせしむる、この玉声は蜃気楼か。本能よ。そう言いたいのか。


「ノノ?

「あ、ああ大丈夫。来たとも。ウン


 不安げに呼ばれる、名前。名前。僕の名前。

 そうさ、あんな金沢のじゃない方なんてどうでも良いんだ。

 犬のように、首輪でも付いたように。前へ、前へ前へ。僕の脚は動いた。


「好かった。逃げたのかと思った。


 "逃げた?"


 意味が分からなかった。

 本当に意味が分からなかった。ヒザの震えが止まらないことも、訳が分からなかった。

 それでも僕は男だ。男なのだから、女性の真剣には、それこそ真剣を呑み込む覚悟で挑まねばならない。そうだろ?


 いや、おかしい。おかしいだろう。


 踏みとどまれ! 何故クラスメイト相手に、こんな身震いをして唇まで震わせ、歯まで鳴らして……本当に、本当に合っているのか? 扉の奥、いるのはクラスのマドンナか? 彼女の声を僕は一度でも、あの違和感があってから見たのか?


 うるさい。黙れ!


「逃げる?、僕がキミから?……まさか!


 握り潰すように語気を強める。手を握る。いまお手洗いから出てきたというのに、ひどくベタ付いていた。

 ドアに掛ける手は震え、二つにまで重なって見えた。


 うるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ!!


 ドアの取っ手に手を掛けたとき。僕はもう、ニュートンすら信じられなくなった。

 万有引力? 嗤わせるなト叫んだ。

 全てがべったりト吸い寄せられ、歪み、潰れ、おしまがり、伸された。

 臓器という臓器が、骨という骨が踊り狂って酒池肉林。五感が跳び、狂いては、バキリ。へし折られた。


 主よ。主よ。偉大なる主よ聞こえますか。

 貴方は何を警告するのですか。海を割り、言葉を裂き、世界を沈める力で尚、取り返しの付かないコトが。この先にあるのだト、そう仰られるのですか。


『ノノ……おいで


 祈りは届かない。

 届くのは彼女の声だ。

 低く、暗い、闇の声。


 上等だ。掛かってこい。見せて貰おうじゃ無いか。神すらかす業火の辛さ。とくと味わってやろうじゃ無いか! 辛いのは得意だぞ。駅前のカレー屋でインド人を慄かせた、バカ舌のこわさ。いざ、ごろうじてやろうじゃないか!


 "バンっ" ト鳴らした。

 勢いよく、世界を開いた。


 ……そして、僕は一瞬、ほんの一瞬ばかり。

 懺悔室トイレを探した。


 彼女の姿を、見てしまった。。



『見たね、ノノ


 言われても無いのに戸を閉める。大人しい会釈が一つだけあって。一歩、二歩、前に出る。

 呼吸は、いやに落ち着いている。


 眼前、情報は錯綜さくそうしている。

 彼女。彼女なんだろうか。

 疑問形は絶えない。


 いや彼女だ。彼女なんだ。

 僕が彼女だトそう言えば、それで済む話じゃ無いか。

 言い聞かせる。深呼吸を一回。

 させていただきまして他、見やればこそ。


 窓奥、空は鮮やか、満点の紫。少しばかりカラスの群れ、二、三万羽ほどばかり。龍のように回りくねる。ずらり口を震わせて、知らぬお経を喚き唱えている。

 時計は午後6(x+3y)時、√297i分。左に3本、秒針が枝折れ曲がりました頃。

 ※只今ダイヤが乱れております。ご了承ください。


 先生、いずこ。影も形も無し。記憶にも無し。先生、どなたかしら。ココは謁見の場なりて。とりとめも無き思い出。今捨ててしまいませうネ。ええキット。ええ。


 意識 イジョウ

 神経 ミギヒダリワカラズ

 記憶 マルデトブ

 コウネツアリ、ハライタシ。

 されど心、おだやかなり。


 診察結果は安楽死。

 神様、圏外ですココは。


 もう逃げ場無し。

 悟りた眼だけが不気味に冴えた。冴え渡ってきやがった。

 

 血の気こそ引ききれば干潮の次第。そぞろ覚悟も定まって、中心を見やる。彼女の姿に目をやる。阿波踊る眼光で見据える。


 何、特段おかしいこともないじゃないか。

 爛漫らんまんのエメラルドが二つ。満足げに細められて、鋭くコチラを見つめている。

 普段の猫染みたかわいさは何処にも無い。猛禽、はたまたハ虫類、果ては蛇。

 統一されたりしコトはただ一つ。捕食者だということ。

 僕を、エモノを見る目は生気無く。濁り、されどヒドく、爛々と血走っていた。


 淡桃の長髪は肩の上、鮮やかに広がる。右耳、かすかに藤の耳飾りが光る。

 みずみずしい白肌。頬は林檎のように紅く染まる。小さな鼻、息は強く荒々しい。鬼気迫る興奮を、咽び返る淫乱を、微塵も隠さず撒き散らかす。


 爪はイヤに長かった。白雪を殺すような、毒々しい紅玉だった。

 同じ色で膨らんだ唇には、艶めかしく舌が走った。僕は吸い寄せられるようにソレを見つめていた。やがてチラリと覗いた八重歯、いや牙に、いよいよ意識は釘付けになった。


『キレイ?


 そう尋ねてくる彼女。

 口角は歪に、恐ろしく裂けるほど持ち上がり、眼は逆月が如く細まった。

 制服の上、外された上二つのボタンから谷間が見えた。ソレは強烈な色香をごうごうト醸しては、僕をたちまち取り囲んだ。


 してはならない呼吸をした。


 また一つ、また一つ、マツミさん。彼女の鱗粉が充満する酸素を吸った。

 

 血液が生まれ変わって、肺が轟いて、手足が泣きさけんだ。

 打ち震え、クラ付いた脳。身の毛もよだてり、腐るほどに甘ったるい。熟れた甘美が闊歩していた。


「あぁ、キレイ。キレイだよ。


 無機物のように口が動いた。


 途端、彼女の顔はまた妖しく歪んだ。


「ヒヒっ、けひゃ、はヒャ、ヒヒヒッ!


 ねたっこく、どろどろとしてへばりつく。あの笑い声だ。


 "どんな顔してるのかな"


 答え合わせの時間だ。

 恥も外聞もなかった。


 ヒドく紅潮した両の頬。千切るように手が包む。催しを我慢するように、身体をグネグネトくねらせる。

 開いた口から息が漏れる。

 指が二本入って、そこからポタリく-く、どろりく-く、糸を引いて唾液がこぼれ落ちた。


 麻のような光景だ。

 注射のように突き刺さるんだ。

 頭蓋骨を外して、上から殴るようにして脳をこねこねく-く。一種の解放感を帯びて、僕を破壊したんだ。


『ならもう、もう――

「もう?

『良いよね。良いよね、良いよ……ナ?なぁ!?イイヨナァァ!?


 耳をつんざく奇っ怪な嬌声が飛び出す。

 紅い、紅い月が昇る。

 太陽は隠れ、空は紫からあまねくを茹で上げ、焦がし尽くせり溶岩と染めらむ。

 黒と赤。その中心、おはしめす。


 額、ザラリ血が流れる。木々の千切れるような音と共に、一対のツノが生えそびゆる。

 セーラー服が引き裂けて。背中、空を包む龍の手を模した翼が生える。


 ナルホド、ナルホドナルホド……


 人間じゃ無い。


 今更、今更だ。確信した。


 ソレが、ソレがなんだと言うんだろう。何が出来ると言うんだろう。

 彼女は手を伸ばす。僕をこまねくよう、艶めかしく動かしてみせる。

 催眠術を掛けるように。罠へと落とし込むように。

 モチロン、エモノは落ちるしか無い。

 彼女の背が下がる。膝が曲がる。そのまま床が割れる。スカートは翻る。翼は広がる。手は伸び、爪が光る。


 僕へめがけて、襲い来る。


 受け止める?、否。受け入れる。

 それしかないのだから。


「が――ッ、


 声は出なかった。

 逃げるヒマなど微塵も無かった。

 というか脚が動かなかった。

 首を押さえられた。

 潰れる。動脈が泣きわめく。

 遅い。遅い。遅い。

 もう遅い。

 白んだ世界。眼前、蛇のような口が噴煙をくすぶらせながら裂けた。


「ずぅっと、ずっと。ずっと! 待ってたよ!!


 勢いよく押し倒した男の上、彼女は金切り混じりの声を荒げる。深緑に澱んでいた天井だった何かに向かって喚く。


「な、何を……


 苦し紛れに声を漏らす。

 頬を直ぐに掴まれる。


を、をだって――ヒャハハハハ!! オモシーネェ ノノ!


 彼女の顔が迫る。輪郭がぼやける。互いの息がぶつかり、まつげを数える程に接近する。


 火照りきって、今にも融けてしまうんじゃ無いか。

 そう心配になるほど彼女の顔は紅くなっていた。

 彼女は僕の髪に頭を埋める。

 ハッキリト音を立てて、僕にも解るように深呼吸してみせる。

 ゴロゴロト猫がよろこぶ様な音が、ノドから鳴り響く。


「……オイしそうだねぇ、おいしそうだねぇ。ンンンン堪んなイ!!


 馬乗りになった彼女の腰が暴れる。食事を前にした子供に握られたフォークのようにガンガント、壊れる勢いで叩きつけられる。

 彼女の髪が、胸が、腕が、スカートが、太ももの肉が揺れる。揺れ動く。僕に当たる。

 舞い上がる異性の狂騒に、僕は思わず目をそらす。お気に召さないのか脅される。ソレをしばらく繰り返す。


 解っている。解っている。

 嗚呼。解っているともさ、

 

 僕は喰われる。


 彼女に、人間では無い、上の何かに喰われる。

 首も腕も腰も足も、全てが今、アザだらけ、ひしゃげた姿で泣きわめいている。

 ミシミシト音をたて、最後の瞬間を迎えようとしている。

 

 それでも僕はイカれていた。

 

 初めて密着した異性。五感を殴られる感覚。ときめいてしまっていた。

 心臓が恐ろしいほどうねって、暴れ回りたかった。叫びたくてしょうが無かった。


 何秒くらい経ったんだろう。

 何時間だろう。

 それとも、何日だろう。

 きっと永遠だろう。


 心地よさの中にあった。


 彼女はフイに痺れる。「ん"っ! ト一際大きな声で叫んで、上へ勢いよく白眼を向いた。

 僕のスネを踏みつけていたローファーから、力がプツント抜けた。

 長い足が震え、ピント勢い良く両側に伸びた。かト思えば力無く、そのまま床に倒れた。

 彼女はしばらくばかり、僕の上に座って、そのままダランと伸びていた。

 小さくヒクヒクト、痙攣していた。


 今なら逃げられる。そんな思考は微塵も湧かなかった。

 ただあのエメラルドが戻ってくる、その瞬間を心待ちにしていた。

 何度でも言うよ。僕はもう手遅れだったんだ。


 静寂の中、握りしめられていた腕より。脈だけがパチパチ、パチパチト鳴いていた。


 そして、眼が戻ってきた。


 どこか穏やかな面持ちの彼女。普段よりも落ち着きを取り戻しては、ゆっくりと口を開いた。


「……良い子だね、"待て" も無いのに

「いや、悪い子だよ

「どうして?

「誰の警告も聴かなかった

「……へへ、何ソレ


 神か。それとも貴女か。はたまた、自分自身の本能とかヌカス阿呆か。

 まぁ誰であれ、あらんとも。関係ない。

 僕は、僕は全て無視した。

 いつ死ぬか、解らぬ怯えを今ココに懐こうじゃないか。

 そう、覚悟が統べてさ。

 全て、自分の意思でここに居るんだ。


 今、究極的な自由なのだ。


 そう思うと全てが楽になる。

 ヤケに落ち着く。今から起こるコトを、受け入れてやろうト。そんな気持ちになる。

「一つ良い?

「なぁに?


 あやすような、母のような声だった。エモノへの慈悲だろうか。今なら全て、彼女は全て聴いてくれる気がした。

 抱きつけば抱きしめてくれる安らぎを感じた。


「じょ……マツミさん。

「"さん" ?

「……マツミちゃん。

「良いよ。○にしたげる

「どうも。改めてマツミちゃん

「ん。

「なんで食べるの?

「ソレは……キミ?、それとも、"人" ?

「どっちもが良いね。ヨクバリかな?


 僕の質問に彼女は首をかしげた。

 紅潮、ツノ、翼、牙、全てそのままだというのに。僕は初めて正面から、本物のマツミさんを見た気がした。

 眼を横に反らし、眉を不機嫌気味にしかめて。口は堅く結ばれていた。

 普段のギャルよりも、ヨッポド色香に溢れた、そして知的な思案だった。


「人、からでいーい?

「モチロン

「……蚊みたいなモンだよ、人の生命力。食べなきゃ死ぬんだよ、私ら。


 ちゃらけた比喩もほどほどに。かなり冷徹に彼女は告げる。エメラルドはどこかさみしげに、僕の奥を見つめていた。

 我は異形の怪物。ソレを主張するように、翼はパタパタト動いていた。なんとも悲しいハタメキであった。


「ソレだけ?

「ソレだけって……

「だってその言い方じゃ――

『何も食べることないじゃないか


 先を越された。

 言葉は噤まれる。

 合いせり瞳には、再び捕食者の狂気が宿り始める。


『ごちそうって。違うじゃん


 明らかに音色が変わった声に、僕は静かにうなずく。


『そう。カニもエビもステーキも、トリュフもキャビアも……死ぬわけじゃない。けど食べるじゃん。ソレと一緒だよ、


「つまり――?


 煮え切らない。

 解っているとも。

 僕はわざと、わざと彼女を睨んだ。からかうように、嘲笑うように。煽るように含みを持たせた。悪辣にニヒルに、ニタリと笑って見せた。


 そんな僕の挑発に、彼女は応えた。


 唇で答えた。


 強引に合わさった唇と歯茎、じんわりト痛みが走る。

 舌が侵入してくる。

 息は出来ない。抵抗はもっと出来ない。

 万力じみた力で歯を押し広げられ、そこら中をくまなく、舐め摂られ、漉しとられる。

 二倍になった口内、逃げ惑う舌。

 飛び交う荒熱に絡みつかれ、粘つき、ピチピチト鳴き声を垂らし、糸を捏ね、伸ばす。紡ぐ。

 舌と舌が成した糸は澱となってせめぎ、脳へと押し寄せる。グツグツ。沸騰が停まらない。

 全ての理性がぼぉっート噴煙を上げて、勢いよく溶け出す。

 

 息場所を失った手、指が絡んでくる。全てが、全てが熱かった。

 彼女の力はか弱く。正に少女ト言ってよかった。されど僕の手は決して離れず、ただ彼女のなすがまま、流し込まれる唾液にノドを鳴らした。夢中で鳴らした。何度も何度も、絶えず鳴らし続けた。


 "ぷぇ、ふぅ……んぐっ"


 永久の連結が終わりを告げる。

 汚らしい水糸をYシャツに垂らしながら。息の上がった僕たちは、互いに互いを見つめた。息荒く、声霞み、まなこ潤む。

 頬は紅く、全てがだらしない。原罪を灯した恍惚で、お互いを見据えた。


「どこからがいい……?


 そう告げる彼女に、僕は深く一度目を閉じて、もう一度開いた。


「最後まで、キミを見ていたい。


「ヒュフフ……いいよぉ、全部良いよ……じゃ。いただきます――


 口を開く。つい先ほどまで僕と繋がっていた口が開く。

 細胞たちがざわめき起つ。嫌な気はしない。べろりト一回、左目玉を舐められる。

 

 そして――まずは首筋。ゆっくりと、彼女の牙が、口が、欲が、向かっていく。


 丁度、瞬間だった。


 紫の宙、彗星が墜ちてきたのは。。

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