第2話 瓦礫の町
翌朝、家島の空は嘘のような静けさを取り戻していた。潮風がいつも通りに流れ、漁師たちが小舟を揺らす音が微かに響く。だが、父と母の表情は今も曇ったままだ。母は昨夜ほとんど眠れなかったのか、やつれた顔で少女を抱き上げ、父の支度を見守る。父は黙々と荷物をまとめ、姫路行きの船が出る時刻を確かめている。
「少し、見てくる。親類の家が心配だ。」
父は低い声でつぶやくように言った。母は何も言わなかった。ただ、その細く強ばった指が、父の着物の袖を一瞬掴んでから、するりと離れる。
少女は意味も分からず、母の膝に座ったまま父を見送る。父が乗る小舟は、島の岸から滑り出し、光を孕んだ波を切って姫路へと向かった。昨日の夜、紅く染まっていたあの街は、今どのような姿をさらしているのか、少女には想像がつかない。
午後になって、父が戻ってきた。瞳には深い疲れが刻まれ、服の裾には煤がへばりついている。淡々とした口調で、父は母に告げた。「家は…ほとんど焼け落ちてた。親類の家も全焼。あの辺り一帯が瓦礫の山だ。みんな無事かどうか…探しようがない。」
母は両手で口元を覆い、苦しげな息を漏らす。彼女はまだ言葉を見つけられない。少女はその場の空気に圧倒され、父と母の対話を理解できないまでも、その深い悲しみを肌で感じ取る。島では無傷の家々が立ち並ぶ中、海を一つ隔てた対岸には、もう戻らぬ日常があったのだろうか。
父は少し間をおいて続ける。「橋のたもとも、商店街も全部燃えた。人の姿はあるが、皆、ぼんやりと立ち尽くしていた。親類とは会えなかった。名残も残ってない。」
母はぐっと喉を鳴らし、細い肩が震える。少女は母の着物の裾を掴み、その震えが自分の腕に伝わるのを感じていた。
遠く離れた場所で起きた惨事。しかし家島の人々にとっても、それは絵空事ではない。友人、商売相手、親戚、あるいはこれから縁を結ぶはずだった人々――全てが火と瓦礫の中に呑み込まれたかもしれない。父は思わず拳を握る。
少女にはまだ「死」という言葉も「喪失」という概念もない。ただ、父と母の沈黙や、島の大人たちが密やかに交わす視線から、何か重大なことが起きたことだけが伝わる。昨夜、紅く燃え上がる空を見たあの衝撃が、今、父の言葉と母の涙となって、少女の胸に重く沈んだ。
家島の波打ち際には、相変わらず小さな漁船がいくつも浮かぶ。島の暮らしは一見いつも通りだが、その向こうには瓦礫と化した町が広がっている。少女の中で、世界はかすかに二つに割れ始めた。何も失わない場所と、全てを失った場所。まだ3歳の少女は、その境界線を理解できずに、ただ母の裾を強く握り締めるのだった。
80 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92
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