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星咲 紗和(ほしざき さわ)
第1話 紅く染まる夜
昭和二十年七月三日の夜、家島の小さな集落に、かすかな振動と不穏な光が忍び寄っていた。港から吹き抜ける海風は、いつもなら潮の匂いと小舟の揺れる音を運んでくるはずだった。けれど今宵は、はるか対岸の姫路を覆う火炎の匂いが混ざり込んで、鼻を突くような焦げ臭さが感じられた。
三歳になる少女は、母の手を握り、戸口の前に立っていた。その母親も、言葉少なに遠くを見つめている。空が、赤い。夜なのに明るく、まるで巨大な焚き火が海を隔てた向こうで燃え上がっているかのようだった。
父は黙って沖合を見据え、眉間に深い溝を刻んでいる。「姫路が……」と唇をわずかに動かしたが、続きを紡ぐことはなかった。空には、不自然な数の点が動いていた。星ではない。音なき闇に浮かぶ黒い影、やがて、ドン、ドン……と、腹の底に響くような低い音が遅れてやって来る。その度に、光の色が増すように感じられ、少女は父の裾をきゅっと掴んだ。
母は震える声で「大丈夫、ここはまだ安全よ」と言うが、その声はどこか遠い場所から響いてくるようで、少女にはその言葉の意味が分からない。ただ、母の手は冷たく、父の横顔は硬い。いつもと違う、胸がちくりと痛むような夜だった。
沖を隔てた姫路の街並みは炎に包まれ、風が運ぶ熱気が波立つ影となって家島の暗い岸辺に揺れる。少女はまだ「戦争」という言葉も知らない。なぜ姫路が赤く燃えているのかも、空に散る影が何者なのかも理解できなかった。ただその光景が、息が詰まるほど恐ろしいことだけは確かだった。
海面は闇をまとい、遠くで炸裂する焼夷弾の光が、まるで水鏡に揺らめく灯火のように映る。けれどそれは決して祝祭の光ではない。死と破壊を運ぶ異形の光だと、大人たちの静まり返った声が物語っているようだった。
少女は震えを抑えられず、母の膝にしがみつく。母はそっと頭を撫でるが、その手はわずかに震え、声にならない啜り泣きが喉奥でかすれていた。父は視線を外せないまま、唇を引き結んでいる。
その夜、家島から見た姫路は、生きた炎の塊だった。少女が見た紅く染まる夜空は、彼女の心に深い刻印を残し、やがて長い時を経て、言葉という形を得る日が来ることなど、誰もまだ知る由もなかった。
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