私はあくがれねばならない!

仲瀬 充

私はあくがれねばならない!

妻が私の傍らに座って取り込んだ洗濯物を畳みだした。

その横顔を見やりながら私はお茶を飲み終えた。

爪切りを持って縁側に出て腰を下ろす。

年とともに体が硬くなって足の爪を切るのに難儀する。

切り終えて立ち上がり腰を伸ばすと夕空はまだ茜色だ。

夕焼け空を見ると私はいつも30数年前のあの峠を思い出す。



物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれづるたまかとぞ見る (和泉式部)

あこがれる」の元となった古語「あくがれる」は、「ふらふらとさまよい出る」という意味の言葉である。

あくがれ出たまま、憧れる人のもとへ飛んでいけないのなら、たましいはどこをどう漂えばよいのだろう。


大学の最終年次に同じ学部の年下の子に恋をした。

しかし、もろもろの事情から私は告白することもなく自らの想いを断ち切った。

当時のある1日が今も心を離れない。

貧しかった私は冬休みに入っても帰省するお金がなかった。

遅い朝食を学食で済ませて食堂前のベンチに腰かけた。

自ら断ち切ったはずの懸想けそうが胸中に去来する。

コバルト色に澄み切った冬晴れの空が目に沁みる。

視線を落とすと、プラタナスの大きな落ち葉が1枚、カサコソと風に吹き寄せられてきた。

不格好に枯れて地を這い足元に絡まるその葉は私の未練心そのものであった。

失恋の甘やかな感傷が逆に私を衝き動かした。

私はあくがれねばならない!


キャンパスを出て東へ向かって自転車をこいだ。

彼女は県内の実家に帰省しているはずだ。

夜中になろうとも彼女の家まで走ろう。

そして密かに家の前でベルを鳴らそう。

それを私の恋心へのレクイエムにして引き返すのだ。

始める前に終わらせてしまった恋ではあるけれど。


町なかを抜けて走り続けるうち、道は山間部へ向きを変えた。

陽がようやく沈もうとする頃、小高い山の峠に立った。

自転車を停めて登ってきた方角を見下ろした。

山肌を余すところなく夕陽が鮮やかな茜色に染め上げている。

一方、目を転じると反対側の山陰やまかげの里は既に夕闇に沈みかけていた。

家々は明かりを灯し、幾条かの炊煙すいえんも空の中ほどで夕闇にまれている。

対照的な眺めを目にして私は何かしらの岐路に立っているような思いがした。

もう十分だ、青春の抒情がそうささやいているような気もした。

心に染み入る光景に私は立ち尽くした。


大学を卒業した後、私は故郷に帰って市役所に勤めた。

結婚は30を過ぎてのことだった。

子供は長女、ついで長男の順に生まれた。

「長谷部の子供は一姫二太郎で、奥さんも若くて美人だそうじゃないか。うまくやったな」

「できれば子供一人、奥さん二人といきたかったんだがね」

同僚の冷やかしにそんなふうに応じるが浮気をするつもりはない。

ただ、一つ困ったことがある。

学生時代に太宰治を耽読たんどくしたせいか、私は家庭にいたたまれないへきがある。

そこで夜な夜な酒を飲みに出かけるのだが、幼子おさなごが目ざとくすり寄ってくる。

「どこ行くの?」

「お父さんは山へ柴刈りに」

そう答えて子供を振り切りながら心の中で「お父さんはネオンの川へ命の洗濯に」と呟く。


「あら、長谷部さん、いらっしゃい」

行きつけの居酒屋の暖簾のれんをくぐり、カウンターの端に陣取る。

「熱燗をダブルで、つまみはおまかせ」

「ちょうどよかったわ、お客さんたちが今帰ったところなんです。また何か面白いお話を聞かせて」

お酌をしながら話好きの女将おかみが促す。

「人から聞いたのが二つばかりあるよ、どっちもオカルトめいた話なんだけど」


ある若い女性が別れ話を切り出すために恋人の男性を訪ねた。

男性の住むアパートのすぐ近くに公園があり、小学生の男の子が一人で遊んでいる。

女性はなぜかしらその子が気に入り、一緒に砂遊びなどをした。

子供はたいそう喜び女性も心が和んだ。

しかしいつまでもそうしてはいられない。

切り上げて女性は目の前のアパートの階段を上り、2階の男性の部屋に入った。

時間はかかったものの男性も別れ話に同意した。

安堵と一抹の寂しさを覚えながら階段を下りると、電信柱の陰に先ほどの少年がいる。

「坊や、どうしたの? 早く帰らないとおうちの人が心配するわよ」

すると少年が言った。

「おねえさん、僕はおねえさんがそのアパートの人と結婚したら二人の間に産まれてくることになってたんだ。もう会えないけど遊んでくれてありがとう。すごく楽しかったよ」

そう言うと少年の姿はしだいに薄れて消えていった。


「どう? この話、気味悪くない?」

「ううん。私、胸にじんときました」

夫に先立たれ子供もいない女将にとってはそうなのかもしれない。

「そりゃよかった。さ、ママも1杯」とさかずきを差し出す。

「あら嬉しい」

女将は飲み口を指先でなぞって返杯する。

「この魚は何?」

「白ぐちを三杯酢で煮てみたの。おいしいでしょ?」

「うん。あ、熱燗をもう一本」

「分かりました。それでもう一つのお話のほうは?」

「さっきの話にじんときたママなら、今度のは泣けるよ」

「じらさないでくださいな」

「外国の話でさっきよりもシュールなんだ」


信心深い青年がいた。

彼が砂浜を歩けば常に神の足跡が彼の脇に寄り添うようにくぼんで続いた。

姿は見えないものの、身近に神を感じて青年は幸福に暮らしていた。

しかし青年の人生に苦難が訪れた時、傍らの足跡は消えた。

青年が懸命に生きて苦境を脱すると、青年の歩く傍らに再び神の足跡が現れた。

青年は神を恨んだ。

「神様、私が呻吟しんぎんしていた時、あなたは私を見捨ててどこへ行かれたのですか?」

神は答えた。

「あの時はお前が余りにも苦しそうだったので私はお前を負ぶって歩いていたのだ」


同行どうぎょう二人ににんみたいな話だけど、どう?」

女将は目頭を押さえて座を外した。

厨房からすすり泣きの声がもれてくる。

亡夫の3回忌を控えている女将は夫と二人で店を切り盛りしていた日々に思いを重ねたのだろう。

「同行二人」といえば西国八十八カ所の霊場巡りだが、仏を求めての遍路の旅も仏に負われての道行きなのではなかろうか。

とすれば我々の人生も見えない誰かに、見えない何かに支えられての遥かな行路なのかもしれない。


女将が目を赤くしながらも笑顔で厨房から戻った。

「まんまと泣かされちゃいました」

「女を泣かすなんて僕も罪つくりだね。じゃ、そろそろお勘定を」

「ありがとうございます。今夜はお相伴しょうばんにあずかった上にいいお話まで聞かせていただいて」


女将は暖簾をしまい、店の灯りをおとす。

「お気をつけて」の言葉に送られて私は家路をたどる。

こんな小さな別れにも私の心は惻々そくそくと震える。

人は皆それぞれの人生の川を流れていく。

「日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る」

アポリネールがセーヌ川のミラボー橋でたたずんだように、私も深夜のアパートのドアの前にしばし立つ。

そして家人を起こさないように静かに冷たいノブを回す。

薄明かりの灯る部屋に妻と子供二人が川の字に並んで寝ている。

ここにも川は流れているのだ。

「家族」という名の哀しいまでにかなしい川が。


市役所にいくつかの支庁がある。

50代も半ばを過ぎて私は生まれ故郷の小さな町の支庁に異動になった。

定年までわずかな年数を残すのみだ。

振り返れば幾らかの紆余うよ曲折きょくせつはあったものの可もなく不可もない人生であった。

幸、不幸の運命の風は私の身をひとなみに吹き過ぎたのであろう。


ほうじ茶よ。香りがいいの」

妻がいれてくれた湯呑みを口に運ぶと、お茶に小さく自分の顔が映っている。

この顔で60年近くを生きてきたのだ。

喜怒哀楽をその時々の表情に浮かべながら。

「喜」や「楽」よりも「哀」の多いかたであったように思う。

苦笑しつつ湯呑みを握るこの細腕に二人の子がすがりそれぞれに旅立って行った。

傍らの妻に目を向ければ、主婦然として洗濯物を畳むのに余念がない。

若かった妻の魂はどこをどうあくがれて私などのもとへ舞い降りたのであろう。

夕映えの残照を頬に宿した妻の横顔を見やりながらそんなことを思う時、私はきっと30数年前のあの峠に立っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私はあくがれねばならない! 仲瀬 充 @imutake73

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ