兄に謝りたかった

佐藤 扇風機

思い出とこれから

僕には10歳離れた兄がいる。

いや、“いた”という方が正しいだろう。

兄が亡くなったのは10年前、僕がまだ8歳だった頃のことだ。


そして今日、僕はあの時の兄と同じ歳になった――18歳。

「お兄ちゃん、こんな重い雰囲気、あんまり好きじゃないよね。」

僕は兄の墓の前で空を見上げながら、自然と口を開いた。

「だから、少し思い出話でもしようかな。」


そう言いながら、最初に心の中に浮かんできたのは、僕が5歳、幼稚園の年長だった頃のことだった。兄は当時15歳で、中学3年生。

 

 あの日、僕は兄のことを”ヒーロー”だと思ったんだ。

幼稚園から帰った僕がリビングに入ると、兄は机に向かって勉強していた。

「お兄ちゃん!遊ぼう!」

僕が無邪気に声をかけると、兄は少し困ったように笑った。

「今はダメだよ。受験勉強中だから。」

「受験ってなに?」

「……まあ、大きなテストみたいなもんだな。」

「ふーん、でもさ、ちょっとだけならいいでしょ?ヒーローごっこ!」


僕がヒーローごっこと言えば、兄は必ず付き合ってくれるって知ってた。

本当は勉強が大事な時期だったはずなのに、兄はため息をつきながらも席を立った。


「じゃあ、10分だけだぞ。それ以上は勉強するからな。」

「やったー!」


家の中で、僕は正義のヒーローを演じ、兄は悪役をやってくれた。

でも、ただの悪役じゃない。いつも、僕に勝ち目を与えてくれる優しい悪役だった。

「ぐわーっ!参った、やられた!」

わざとらしく倒れる兄の姿が今でも鮮明に思い出せる。


「僕、兄ちゃんみたいに強くて優しいヒーローになるんだ!」

そう言った僕を見て、兄は少しだけ寂しそうに笑った。

「いいな。でも、ヒーローってのはな、簡単になれるもんじゃないんだよ。」

「どうして?」

「大事なものを守るためには、自分が傷つく覚悟が必要なんだ。」


その時は、兄の言葉の意味なんて分からなかった。ただ、その顔が少し大人びていて、かっこよかったのだけ覚えている。


 それから半年ほど経って僕は小学校に入学した。

 同時に兄も高校に入学した。

 特に兄は今まで以上に忙しそうにしていた。

 でも毎日が楽しそうに見えた。

 僕が遊ぼうと誘っても、

「勉強もバイトも部活もしてるからあんまり相手できない。ごめんな。」と断られて少し寂しかった。

 でもたまに家の前の道路でキャッチボールしてくれた時は何よりも楽しかった。

「なんでお兄ちゃんはそんな色んなこと頑張るの?」

 僕はキャッチボール中に聞いてみた。

「俺はねお医者さんになりたいの。だから勉強頑張ってお医者さんになってたくさんの人を救いたいんだ。」

 そう話す兄の姿は大きくそして遠くに感じた。

 当たり前だけど僕が成長してる時兄も成長していたから。


それから1年後、僕は小学2年生、兄は高校2年生になった。

僕は学校にも慣れてきたけど、ある日を境に、学校生活が少しずつ苦しくなった。


クラスの中で何かと僕に突っかかってくる子がいた。

最初は筆箱を隠されたり、ノートに落書きされたりする程度だったけど、次第にエスカレートしていった。

「お前、兄貴がいなかったら何にもできないんだろ?」

そんな言葉を投げかけられるたびに、僕は何も言い返せなかった。


家に帰っても、兄には言えなかった。

あんなに忙しい兄に、僕のこんな些細な悩みを打ち明けるのは申し訳ない気がしたからだ。


でも、兄は気づいていたらしい。

ある日の夕食後、兄が僕の部屋に入ってきた。

「最近、学校どうなんだ?」

「……普通だよ。」

僕は少し強がった。

しかし、それすらも見破られた。

「嘘だな。」

兄は僕の肩に手を乗せて、身をかがめてじっと僕を見た。

「俺に隠し事するなよ。何かあったら、絶対に言え。」

その言葉に、僕は堪えていた涙が一気にこぼれた。

 

それから数日後、いじめてきた子たちが僕に謝ってきた。

僕が何かしたわけでも、先生が動いたわけでもなかった。

兄が、僕の知らないところで何かしてくれていたんだろう。

直接兄に聞いても、「大したことしてないよ」と笑うだけで、具体的なことは教えてくれなかった。

でも、その時確信した。兄という存在は、やっぱり僕にとってヒーローなんだ、と。


大変なことも楽しいことも、辛いことも嬉しいこともたくさんある、この日常がずっと続くと思っていた。

そう思って疑わなかった。


けれど、僕が8歳、兄が18歳になる年の4月2日、全てが変わった。

その日、戦争が始まったのだ。


戦争が始まる――そんな非現実的なニュースが最初に流れたとき、僕はまだそれがどういうことなのか理解できていなかった。

テレビの向こうで流れる戦地の映像は、どこか別の国の話にしか思えなかった。

けれど、戦争の波はすぐに僕たちの日常にも押し寄せた。


「18歳以上の男子は、順次召集されます。」

政府からの通達が届き、最初に父が召集された。


家族で送り出したあの日、僕は初めて「戦争」というものが、どれだけ残酷で恐ろしいものかをほんの少しだけ理解した気がした。

大きなリュックを背負った父は、玄関先で僕たちに振り返り、ぎこちなく笑った。

「すぐ戻るさ。大丈夫だ。」

その言葉を、僕たちは信じるしかなかった。


父がいなくなった家には、不穏な空気が漂った。

でも、兄はいつもと変わらず明るく振る舞ってくれた。

「俺がいるから大丈夫だろ? それに、父さんならすぐ帰ってくるよ。」

そう言って笑う兄の姿に、僕も少しだけ安心していた。


けれど、安心も束の間だった。

数週間後、兄にも召集令状が届いたのだ。


兄が召集されると分かったとき、僕は怖かった。

父がいなくなった家で、兄までいなくなったら、僕と母だけになってしまう。

戦争がどんなものかを具体的に知らない子どもだったけれど、それでも「帰ってこられないかもしれない。」という漠然とした恐怖は感じていた。


「どうして行かなくちゃいけないの?」

「俺も分かんないよ。」

兄は僕にそう言ったけど、どこか吹っ切れたような顔をしていた。


出発の日が近づくにつれ、僕は兄に対して素直になれなくなっていった。

話しかけられても、わざとそっけない態度を取ったり、部屋に閉じこもったりしていた。


そして、ついに出発の前夜、僕は爆発してしまった。


「どうして行くの! 行かなきゃいいじゃん!」

リビングで兄に叫んでしまった僕に、母は驚いたような顔をした。

「やめなさい!」

母の制止も聞かずに、僕は兄に詰め寄った。


「兄ちゃんなんかいなくても平気だし!」

自分でも何を言っているのか分からなかった。

でも、兄がいなくなるのが怖くてたまらなかった。


「……そうか」

兄は困ったように笑っただけで、僕に言い返すことはなかった。

それが余計に腹立たしくて、僕は「バカ兄貴!」と吐き捨てて部屋にこもった。


部屋の中で布団にくるまりながら泣いた。

怒りというよりも、寂しさと恐怖が混じった涙だった。

けれど、その時は兄に謝ることなんて考えられなかった。


翌朝、兄が家を出る時になっても、僕はどうしても素直になれなかった。

兄はいつもと変わらない笑顔で、僕の頭をぐしゃっと撫でた。

「元気でな。俺がいない間、母さんのこと頼むぞ。」

「……頼まれなくても分かってるし。」

僕はそれだけ返すのが精一杯だった。


玄関を出る兄の背中が、妙に小さく見えた。

その時、心の中で叫んでいた。

「行かないで」「帰ってきて」「ごめん」――でも、声には出せなかった。


兄は一度も振り返らなかった。

その背中が見えなくなった瞬間、僕は胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みを感じた。


それが兄との最後の別れになるなんて、その時はまだ思いもしなかったんだ。


 戦争が始まってからの生活は一変した。毎日のように空襲警報が鳴り響き、家族全員で防空壕に避難する日々。2人が召集された後、家の中はどこか寂しさが漂っていたが、母は強く振る舞い、僕を励ましてくれた。「お父さんもお兄ちゃんも、きっと無事に帰ってくるわ。だから、私たちも頑張りましょうね。」その言葉を信じ続けていた。


しかし、戦況は悪化の一途をたどり、物資の不足や食糧難が深刻化していった。配給の食料だけでは足りず、母と一緒に畑で野菜を育てたり、近くの山で食べられる草や木の実を探したりすることも増えた。そんな中でも、母は決して弱音を吐かず、僕を元気づけてくれた。「大丈夫。」その一言はとても大きく、強く感じた。

 母に僕は励まされ、なんとか日々を過ごしていた。


そして、戦争が終わった。街には勝利を祝う人々の姿があったが、僕の心は晴れなかった。父と兄の無事を確認するまでは、手放しで喜ぶことなどできなかったからだ。終戦から3か月後、父が車椅子に乗って帰ってきた。地雷を踏んで両足を失ったと聞かされたとき、僕は言葉を失った。しかし、父は「命があるだけありがたい」と涙を浮かべながらも、前向きな姿勢を崩さなかった。


だけど、兄はいつまでも帰ってこなかった。毎日、玄関の方を見ては「お兄ちゃん、早く帰ってきて」と心の中で願い続けた。せめてどこか遠くで生きていることを望んでいた。それならまたいつか会えるかもしれないと。そのときに謝りたいと思ってた。


雪が降り積もる寒い夜、ドアをノックする音がした。こんな時間に配達員などは来ないので、兄が帰ってきたと心を躍らせてドアを開けると、そこには偉そうな軍の人がいた。その瞬間、胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚に襲われた。「ご家族の方にお伝えしなければならないことがあります。」その言葉を聞いた瞬間、全てを悟った。兄はもう、この世にはいないのだと。


母は泣き崩れ、父も深い悲しみに沈んだ。僕は涙も出ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。あの日、兄にぶつけた言葉を謝ることも、もう二度とできないのだと実感したとき、涙が溢れ出した。


 僕は茶色の封筒から一枚の合格通知を取り出し、兄の墓前にそっと差し出した。「見て、兄さん。僕、医学部に合格したよ。兄さんの夢を追いかけて、僕も医者になるんだ。」


風が静かに吹き、木々の葉がささやく音が耳に届く。「あの時、兄さんに怒ってしまってごめんね。でも、兄さんが見せてくれた背中を、僕はずっと追いかけてきたんだ。僕にかけてくれた言葉の数々、昔は意味が分からなかったけど今はよくわかる。こういうことだったんだね。」


涙が頬を伝い、地面に落ちる。「これからは僕が家族を支える番だよ。兄さんが守ろうとしたもの、僕も守っていくから」


空を見上げると、雲間から一筋の光が差し込んでいた。「ありがとう、兄さん。あなたはいつまでも僕のヒーローだよ。」


その瞬間、心の中に温かいものが広がり、兄の存在を強く感じた。「これからも見守っていてね、兄さん。」


僕は深く一礼し、墓前を後にした。

新たな決意とともに、未来への一歩を踏み出すために。


そのとき突然、強い風が吹いた。





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