民主主義を考える

刻堂元記

民主主義を考える

 今、民主主義が揺れている。これは冗談ではない。だが、今に始まった問題かと問われれば違う。しかし選挙で選ばれた候補者が、地域の、ひいては国の政治を動かすという政治システムの根幹が、昔に比べて深刻化するほど揺らいでいる。その原因はテロや粛清といった暴力的なものだけでなく、出稼ぎや移民、難民、奴隷といった民族移動が長期にわたって、何度も繰り返された結果だろう。


 とはいえ、それは平穏をもたらさない。暴力に頼りきりな、名ばかりの民主主義は独裁という名の圧政に、民族移動による多民族国家化は、国内外に致命的な亀裂や対立を生み出し、差別的なヘイトをも促進させる。


 また最近になって、少数派への配慮というのが前面に出るようになった。簡単に表現すれば、誰もが暮らしやすい社会にしよう。そんなところだが、複雑な事にこれが、移民や難民、在〇外国人の保護や人権尊重の対象として、政治が扱うように変化した。後にどうなったか。外国人に対する憎悪が増大し、外国人は強制送還という主張を躊躇いなく訴える人々が増えた。では、当の本人たちは帰るのか。帰らない。答えは分かり切っている。来た理由が何にせよ、現在住んでいる国が、元居た国より心地いいからだ。


 そのために、政治を執り行うことは極めて難化している。外国人を重視すれば、税金の無駄遣いと批判され、軽視すれば犯罪の増加。どちらにしても、一方の鬱憤や怒り、不満は消えないわけである。対策はただひとつ。初期段階から受け入れないことだが、グローバル化の進展と、民主主義の形骸化で実質、不可能に近い。


 では、冒頭の一文に戻ろう。今、民主主義が揺れている。これは、政治の基本であった民主主義が、国民には無意味だと言えるからかもしれない。事実、韓国では大統領の弾劾議案、ドイツでは大統領不信任案が可決され、シリアでは大統領の亡命にまで発展。アメリカに限っては、新大統領の誕生に多くの人々が絶望をしている。つまり投票に行き、自身の一票で未来を変える。そんな夢物語に付き合う行為自体が、馬鹿馬鹿しい。そう考える人々も珍しくなくなった。


 とはいえ幸か不幸か、民主主義は未だ生き残っている。現在、考え得る最善の政治システムという理由がよく挙げられる指摘だが、本当にそうだろうか。調べたところによると、民主主義的な国々は少数派で、独裁的な国々が多数派だった。引っかかる。もし仮に民主主義が最善の政治システムなら、この世の中、民主主義が政治形態の多数派を占めていなければおかしい。という事は逆に、民主主義には何らかの致命的な欠陥が眠っていると言っても良いだろう。


 では、民主主義の欠陥とは何か。少数派の意見が反映されにくい点に尽きる。反対に独裁は、多様な意見を排除しながら、国のリーダー自らが好きなように政治を執り行えるのが大きなメリットだ。従って自らが少数派でも、他の意見を気にすることなく、暗殺やクーデター、革命が起きない限り、自由に政策実行できる。


 だが段々、民主主義が独裁との境界線を曖昧にしつつある。いわば、名ばかり民主主義というものだ。これには幾つかの種類がある。民主主義を謳っていながら、選挙すら行わない「完全名ばかり民主主義」。選挙はあるものの、結局は特定の人が勝つように不正がされている「大部分的名ばかり民主主義」。選挙はあって不正もほとんどないが、結局は独裁状態になる「部分的名ばかり民主主義」。そしていま多いのが、「部分的名ばかり民主主義」と呼ばれる政治形態。


 選ばれて勝ったのだから、独裁なんてなるわけがない。誰もが最初、そう思うに違いない。だがよく考えれば、民主主義でも独裁になり得ると気づく。国のトップに就任するのは、ほぼ例外なく政権与党内の人間で、どんな政策案も数の力で可決させられる。その上、選挙で勝ったという結果だけに注目し、選挙中に掲げていた公約を反故にする政治家も大勢見かける。


 つまり名ばかり民主主義は、非政治家である国民と、政治家である国民の関係性を、力の観点から不均衡に保っている状態を指す。にも関わらず、審判の機会は数年に一度の選挙だけ。それゆえに、政権、政党、政治家に不満を持っているならば、次の選挙で落とせば良いという意見は的外れに等しい。待てない急務な問題だからこそ、改善を求めているのだ。待てるなら誰も苦労はしていない。


 だから、私は断言する。名ばかり民主主義の原因は政治家自身であると。勿論、有権者たる国民の一部は、良き民主主義のために投票する。その判断材料は見た目、年齢など様々だ。当然、公約となる政策の内容も、候補者ごとに違いがあって多様だ。何を重視するか、どれに賛成・反対か、バラツキがあっても構わない。立場に微妙な隔たりが存在した方が面白いと個人的に思うからである。


 だが、多様性があって面白いのは選挙中だけ。終わってしまえば、あら不思議。国民あるいは市民に、公約というの約束をしていた政治家は、一部或いは大半を蔑ろにし、選挙期間内で触れてすらいなかった新しい政策を、有権者の同意なく推し進めてしまうのである。それが人々の多数派意見ならまだ良い。しかし少数派意見であったとしても、個々の議員の判断で決定できる。この政治システムが、致命的な短所として民主主義は抱えているのだ。


 そんな、どこから出たのかも分からない政策に、人々は有権者として責任を持てるだろうか。否。民主主義における有権者の責任は、各候補者が掲げていた政策と、それらに対する結果だけに過ぎない。その為、仮に減税を訴えていた候補者が、当選後に増税を主張しだしても、国民ないし市民は、責任を持てないのである。


 こう言い出すと、選挙期間中の言動や、過去の発言を見れば、各候補者がどんな人かはっきりと分かる。そのような意見も見受けられるに違いない。果たして、この主張は合っているのだろうか。答えはいいえ。いいえ寄りある。というのは、選挙期間中、どの候補者も当選したいがために、炎上するような言動をするのは稀で、過去の発言に関しても、数年以上も前の場合は全くあてにならないからだ。現に、人は立場や支持基盤などの変化で、意見を度々変える事も多い。


 こうなるともはや、民主主義下における投票行動は、とても消極的になる。投票に行かない人は行っても変わらないと諦め、行く人は誰が一番マシかという究極の選択を自身に課しながら選択する。まさに、理想とは程遠い民主主義。言い換えれば、ハズレしかないガチャゲーといったところか。


 それでも様々な理由から、投票に行く人々は一定数居る。それなら、彼らの投票は意味のある行為になっているのか。残念ながら思わない。現在の民主主義は、有権者一人につき、一人の候補者に一票しか入れられないからである。それゆえにか、死票と呼ばれる落選者に投票した人の票が膨大になるのは明らかと言える。しかし逆に、死票になっても、当選者に対するけん制になるからという考えもなくはない。だけれども、死票が当選者に対して緊張感ある効果を持つのは、当選者と落選者。その票数差が僅かであるケースに限定されるだろう。


 加えて民主主義は、大衆世論と逆行する危険性を常に孕む不完全なものだ。この不完全さは、一人一票という選挙上のルールに大きく関係してくる。つまるところ、社会の大多数の投票先が、候補者の乱立によって割れた結果、本来なら当選するはずもない少数派の意見が全体を主導する結果も充分現実的になる。少数派の意見が反映されにくいという民主主義の難点を逆手に取った、唯一無二の例外かもしれない。


 以上これまでの説明から、現状の民主主義は、人々にとって最適解ではない事が分かった。では、私たちは何を求めていくべきなのか。一人一票に代わる、ボルダールール投票の実現と、公約外政策の無許可実施に対する厳罰化だろう。


 とは言うものの、ボルダールールとは何なのか。それは、投票者たる存在が各候補者を、点数方式で順位付け投票する手法に他ならない。ゆえに、一位は三点、二位は二点、一位は一点等という順番で、各々が複数の候補者に投票することで、最終的に広く支持された候補者が当選を確実にする。


 また、公約外政策の無許可実施についても、厳罰化する方向で調整すべきだ。なぜなら政治家は、有権者の代表として地元や国のために、仕事を行わなくてはならないからである。従い、選挙中に触れていない公約外の政策は、政治家本人の給料や財産から財源が賄われるのでない限り、オンラインでの投票や、街頭アンケートなどで国民の意見を聞いてから、賛成多数になった場合に限り、実行する。そうでないなら、政治家としてのペナルティを受ける。でなければ、国民の声は政治の現場に届かず、政治家は責任感を持つことすらない。


 ボルダールールと、公約外政策の厳罰化。この二つを徹底することで、不完全だった力の均衡はバランスを取り戻し、欠陥だらけだった民主主義は、多少なりとも改善するだろう。少なくとも、私個人はそのように考えている。

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