8

 夕希が眠りに就いたことを確認して、静かに身体を起こす。衣擦れの音がいやに大きく響いたような気がして、ベッドに横たわった彼女の方を確認するけれど、寝息を立てたまま起きるような様子はない。僕は安堵して、部屋を出る。

 靴を履いて、外に出る。夏も終わりに差し掛かった夜の空気はじっとりとした冷たさを肌に纏わりつかせる。階段を降り、道路へと出るとそこにはひとつの影があった。唐突な出現は、しかし予想をすることが出来ていて驚きを覚えるようなことはない。夏の始めに言っていた通りだ、それは僕が現れて欲しいと思った時に現れる。望んで訪れるのは、身構えた時に現れるのは、こんな不吉な存在ではなくもっと良い存在であれば良かったのに。

「こんばんは」

 その言葉に対して、僕は沈黙で返す。必要以上に魔女と話せば、彼女の毒気にも似た空気をより自らの中に取り込んでしまうような気がして、嫌だった。

 魔女は僕の態度に対して何かを言うこともなく、「歩きながら話しましょうか」と言い夜道を歩き始める。僕が追いかけることを当然と思っているように。魔女の予測の通りに動くことは癪だったけれど、話がしたいと思ったのは僕なのだ。ついて行くほかに選択肢はない。

 遠くから鈴虫の声が聞こえる。夏が始まった頃の静寂に比べて、夜は音がするようになった。それに対して不思議と心地よさや安心感を抱くことは出来ないままで、僕は魔女と肩を並べながら僕たちの他に誰も居ない道を進んで行く。

「それで、聞きたいことがあるんでしょう。約束通り、私の知り得る限りで誠実に、貴方の質問には答えましょう」

「あんたなら、僕が何を聞こうとしてるかも分かるんじゃないのか」

「ええ、分かりますよ。ただ、質問というものは言葉に発した時に質問として成立するものです。取り返しのつかない、言葉という形にすると決断をしたところで、ようやくその問いは質問に昇華する。心のうちに留めたままの質問は、誰も答えてはくれない単なる疑問に過ぎませんよ」

 それに、と魔女は付け加える。

「私が一方的に話すだけなんて、情緒がないじゃないですか。こういった儀式は、形式的なところから入ることが重要なんですよ」

 最初の言葉に得心をした僕が馬鹿みたいだった。きっと、魔女の本心は後者の言葉なのだろう。この世界を、人生をゲームや舞台のようになぞらえて捉える魔女らしい、悪辣な考えだと思う。戯曲ならともかく、現実において分かりやすい所作が何の意味を為すというのだろうか。そんな誂えたような状況なんて、殆ど現れてくれないというのに。

 しかし、何を言ったところで、僕がどう思ったところで、魔女はその意志を変えるつもりはないのだろう。ならば、言うしかない。言葉にして、尋ねるしかない。

 尋ねるべき質問は決まっているはずなのに、声に出そうとするとつっかえのようなものを喉に感じて、上手く言うことが出来なかった。この場に及んでも、心は躊躇いを覚えている。どこまでも、僕は変わらない。懊悩に絡め取られたままで進むことの出来ない自分が、情けなくて嫌になる。

「貴方からみて、この夏はどうでしたか」

 空白を持て余したのか、それとも単に聞きたかっただけなのか、魔女の方から僕への質問が投げられる。諧謔めいた質問に対して答える気にはなれなかったけれど、それは僕が質問をするまでの猶予であると捉えることも出来た。僕は形にならない、吐き出せない言葉を飲み込んだままで口を開く。

「楽しかったよ、本当に。これ以上ないほど、満たされた日々だった」

 例えこの先に与えられる答えがどのようなものであったとしても、そう思ったことは嘘を吐くことの出来ない事実だった。

 取り戻すことの出来ないと思っていた時間を、夏を過ごす。拭いきることが出来ないと思っていた後悔を拭う。そういった言い方をすれば大層なことのように思えるけれど、実際に僕が経験したのはもっと身近でありふれた日常だった。それが何よりも、心地よく楽しかったのだ。それこそ、魔女が見ているという事実を忘れるほどに。

 ゆえに、僕は恐れている。今の幸福に溺れたまま終わってしまいたいから、これ以上何も望まない代わりに何も奪わないでくれと、願う。

 夏の始め、僕は何も持っていなかった。だからこそ、何を失ってもいいのだという覚悟の下に賭けを始めた。けれど、それは賭けが始まると共に与えられる幸福を勘定に入れてなどいなかったのだ。

 どうせ元から持っていなかったものだろうと言うことは簡単かもしれない。ただ、実際に手放すことは、これ以上ないほどに難しいことだ。

 夕希という存在は、ばらばらになった僕の心を繋ぎ留めてくれたような存在で、それを失ってしまえば以前のようにまた、取り返しがつかないほど崩れて行ってしまうことが目に見えていた。一度経験した痛みなのだ、耐えることが出来るという人も居るかもしれない。しかし、一度経験してしまったからこそ、僕はあの酷い痛みが去来することを恐れる。もう二度と、あんな思いはしたくないのだと祈る。

 ただ、一度でも立ち止まってしまった以上、ないものとして扱うことは、過ぎ去ろうとすることは出来なかった。今のままでは、僕は彼女のことを好きなのだと、受け入れるのだと自信を持って言うことが出来ないのだから。

 息を吸う。夏が肺を満たす。形にすることを恐れていたそれを、僕は言葉にする。

「あの少女は――あんたが用意した少女は、本当に嵯峨夕希なのか」

 魔女は勿体ぶるように少し瞑目し、夜をゆっくりと吸い込んだ後でチェシャ猫のように笑った。それが、既に答えだった。

「違いますよ。あれは、嵯峨夕希ではありません」

 ずっと、考えていたはずだった。憂花に言われてから、自分自身でその違和感に気が付いてから。彼女が嵯峨夕希ではない可能性は頭の中に存在していたはずだ。けれど、いざ事実として突き付けられると、心構えなんていうものは砕け散って、容易に心をぐちゃぐちゃに凌辱する。

「嘘を吐いたのか、あんたは」

 正面からその事実を受け入れることが出来ず、言い訳のように魔女を責め立てる。しかし、その権利はあるはずだ。嘘を吐かれたことは、間違いがないのだから。

 魔女は確かに、嵯峨夕希を甦らせると言っていたはずだ。言葉の綾と言って誤魔化すことの出来るような問題ではないほどはっきりと。

「私は、約束を違えることはしません。元より守る気のない約束であれば、しなければいいだけですから。そのような不誠実なことをするつもりは、ないんですよ」

「嘘は不意誠実じゃないとでも言うつもりか?」

「嘘を吐いてはいけないなど、誰が決めたことでしょうか。嘘というものは生きているうえで誰でも吐く、当たり前で自然な行為ではありませんか?」

 魔女の言っていることは誤っているわけではない。ただし、決定的に何かがズレている。それは悪意を論理で塗装した結果として現れる矛盾なのか、それとも元より魔女自身に存在している破綻のせいなのか、どちらなのだろう。

 怒りや怨みといった感情は行き場を失ったままで遣る瀬無さへと変わっていった。魔女を責めたところで、意味なんてないのだ。恨むべきは、前提となる条件を疑うこともせずに飲み込んだ僕自身しかない。

「どうして、嘘を吐いたんだ」

「私の見たいものに、貴方という役者が必要でしたから。人を甦らせるなんていうことが不可能な以上、代役を立てるよりほかになかったんですよ」

 その言葉は、あまりにも呆気なく僕の希望を完全なる絶望の底へと突き落とした。魔女でさえも、人を甦らせることが出来ないのだ。それは、夕希はもう二度と甦ることはないのだという一種の宣告とも言えた。

 最初から、何もかも嘘だったのだ。僕はあるはずもない可能性に縋り、そして裏切られた。傍から見れば滑稽にさえ思えるような、滑稽な舞踏を独りで踊り続けていただけだったのだ。

「ねえ、どうして貴方はそのような顔をするんでしょう」

 魔女は既に打ちのめされた僕を執拗に追い立てるように言葉を続ける。

 その言葉に、返答をする意味があるのだろうか。ずっと望み続けていたものが偽物だったと知って、本来求めていたものはもう二度と手に入らないのだと突き付けられて。僕にはもう既に駆動するための力が残っていなかった。

「確かに、彼女は嵯峨夕希ではありません。姿形こそ嵯峨夕希と同じものにしていても、その中身は全く嵯峨夕希のそれではない。失われたのではなく、彼女には元より嵯峨夕希の記憶なんてないんです」

 ですが、と魔女は凄惨な笑みとともに続ける。

「それがどうだというのでしょうか。そんなものは、些細な問題じゃありませんか?」

「……いい加減にしてくれ」

 些細な問題であるはずがない。僕は、今までも夕希の幻影を世界に求め続けていた。他人に夕希の面影を重ねようとして、空間に夕希との思い出を見出そうとした。それでも、何も得ることが出来ず空虚を携え続けてきたのはそれらが結局のところどこまでいっても嵯峨夕希ではなかったからだった。僕にとって必要だったのは、嵯峨夕希らしいものではなく、嵯峨夕希に他ならなかったのだ。同じ姿をしていても、嵯峨夕希ではないのであれば、意味がない。

「本当に、彼女は嵯峨夕希ではないんでしょうか」

 不意に、魔女は先の自らの言葉を否定するようなことを言う。それはパンドラの匣の奥底に残された希望ではなく、単なる質の悪い諧謔で僕は吐き捨てるように返す。

「あんたが言ったんだろ、あれは夕希じゃないと。それとも、嘘を吐いていたとでも言うつもりか?」

「まさか。約束は違えませんよ、あれは確かに嵯峨夕希ではありません。しかし、それは考え方の問題ではないでしょうか」

「……どう考えたところで、何も結果は変わらないだろう」

「そうでしょうか。では、質問をしてみましょう。貴方はどうして彼女を嵯峨夕希ではないのだと言うことが出来るんですか?」

「馬鹿なこと言うな。あんたがそう言ったんだろ」

「それは私が言っただけでしょう。翻して考えれば、私が言わなければ、あるいは貴方が私の言葉を信じなければ、貴方にとって彼女は今もまだ――ともすれば一生、嵯峨夕希のままだったんじゃないですか」

 思わず、足を止める。その事実は、残酷に真実を言い当てていたと思ってしまったから。

 僕の中で違和感は、静かに蟠っていた。しかし、それは夕希が甦ったという幸福な事実のもとに有耶無耶にして目を逸らすことが出来るような問題だった。魔女が断定をしなければ、僕は今でも彼女のことを夕希だと思っていただろう。これからも、思い込み続けていただろう。

「偽物の黄金に喜ぶ者を、人は愚者と笑います。けれど、その愚者の喜びを誰が否定出来るんでしょうか。他人を愚者だと嘲ることでしか心を満たせない者よりも、宝物と呼べるような物を得ることが出来た愚者の方が、満たされた人生を送っていると言えるんじゃないですか」

「いずれ、その人だって黄金が偽物だったことを知るだろう。自分が今まで浸かっていた幸福が仮初のものに過ぎなかったのだと、周囲から馬鹿にされていたのだと。なら、そんな束の間の幸せはない方がマシだ」

「ならば、知らなければ幸福のままということでしょう。貴方が望むなら、私が貴方に伝えた事実に関する記憶を消してあげましょう。そうして彼女のことを嵯峨夕希だと認識すれば、貴方は幸福の中に浸かっていることが出来るのではなくて?」

 幸福は、個人的なものだ。場合によっては、歪んだ視界を通して世界を見ているからこそ幸福になるということはあるのかもしれない。しかし、幸福とは別に、事実は存在し続けている。彼女が嵯峨夕希ではないことに、変わりはないのだ。

「世界を形作っているのはそこに存在している事実ではなく、どう解釈するかという真実です。貴方が彼女のことを嵯峨夕希だと認識をすれば、信じれば、彼女は紛れもなく嵯峨夕希なんじゃないですか」

 僕がどのように世界を見ているかとは別に、世界は確固たるものとして存在している。そんなものは、歪んだ論理に過ぎない。

「歪んだ見方をしないことなんて出来ませんよ。意識を持って生きている以上、必要なことは歪んだ見方をしないことではなく、歪んだ見方を受け入れてそのうえで生きていくことでしょう」

 そうかもしれない。しかし、認識が存在を決めるなんていう考えは異常だ。決定的に、狂っている。

「ならば、狂気こそが正常なんじゃないですか。日常化しているからこそ狂っていると思われていないだけで、誰しもが狂っていると言えるんでしょう」

 その狂気を認めてしまえば、夕希は甦るのだろうかという考えが頭を過った。魔女の言っていることを、僕は全く間違っているのだと否定をすることが出来なかった。少なからず、認めようとしてしまった。

 ただ、それでも違うのだと僕は思う。その考えのままに身を委ねることは出来ない。彼女が夕希ではないのであれば、僕がどう認識をしようと夕希ではないのだ。どうしてではなく、違うのだから違うというトートロジーを持って、僕は思う。

 僕は記憶を消さない。仮初の、泥濘のような幸福に溺れていたくはないから。

「そうですか」と魔女はさして落胆しているような様子でもなく呟いた。僕が彼女のことを夕希だと認識するように願っているような口ぶりだったが、そのような意図などなかったのか。

「事実から逃げない選択の是非や善悪は知りませんが、私は好きですよ」

 唐突な褒めそやすような言葉はこそばゆいというよりも不快だった。悪意があるなら、皮肉的に隠そうとせずに曝け出してしまえばいいのにと思うけれど、そもそも魔女に悪意があるのかすら分からない。その事実が、更に悪辣さを強調する。

 しかし、と魔女は柄にもなく真剣な表情をして僕を見た。諧謔的な態度を嫌い、そういった態度で向き合われることを望んでいたはずなのに、その気迫に呑まれそうなほど戸惑う。

「事実から逃げないのであれば、お忘れなきように。貴方がこの夏を楽しいものだと、満たされたものだと思っていたということを。彼女とともに過ごした日々のことを。嵯峨夕希だと認識していたとはいえ、紛れもなく貴方は彼女に好意を寄せていたことを」

 忘れていた――忘れようとしていた事実を、言い逃れが出来ないようにでもするように示される。賭けはまだ終わっていない。僕たちの夏はまだ、残っている。

 彼女が嵯峨夕希の偽者であったとしても、彼女と過ごした時間までもが偽物になるわけではない。僕自身が言葉にした通り、彼女との時間は幸せなものだったのだ。それまでも、彼女が偽者だったからと否定をすることは、無下にして、なかったものにすることは、出来るのだろうか。

「貴方が受け入れない限りには、彼女は死にます。そのうえで。彼女は嵯峨夕希ではないのだと知ったうえで。この夏の記憶と向かい合ったうえで。最後の時間を過ごしてください。私は、あらゆる結末を愉しみにしていますから」

 改めてつまびらかにされた賭けは、あまりにもグロテスクなものだった。偽者である彼女を受け入れて、好きだと言うべきか、それとも拒絶をするべきか。

 かつて好きだった、時間を共にした嵯峨夕希ではないという理由は、拒絶をするには十分な理由だった。自分の特別な部分を構成している感情をあるべきではない場所へと還すことは、その感情の行先からしてみても、僕自身からしても、起こるべきことではない。

 しかし、そうすれば彼女は死ぬ。暗く、黒い場所へと沈み、決定的にこの世界から居なくなる。それを仕方がないのだと残酷に突き放すことが出来るほど、僕たちが過ごした時間は薄っぺらいものではなかった。

「それでは」と言って、魔女は夜闇の中に消えていく。僕の一切の言葉を待たずに、今までの全てが幻想であったかのように密やかに。

 死んだ人間は、残された人間の記憶の中で生きるしかないのだと、誰かが言っていた。けれど、記憶は薄れていく。ただでさえ、かつての夕希の声や仕草はぼやけていて、色彩を欠いた曖昧な輪郭があるだけだ。

 彼女を受け入れれば、その微かな夕希さえも消えてしまう気がした。顔も声も同じ彼女にかつて夕希に抱いていたものと同じ感情を向けてしまえば、大切にしていたものが上書きされて、不可逆的に変わってしまうかもしれない。それが、僕には怖かった。

 ならば、彼女を拒絶するのだろうか。彼女が死ぬことを、それでいいのだと見過ごすのだろうか。

 いずれにしても、僕は自らの愛した人を殺さなければいけないのだ。そう思うと、頭痛を吐き気がした。あるいは、そう思ったことで自覚をしただけなのかもしれない。

 夏に閉じ込めてくれないだろうか、などという願いに意味はなくて、闇の中で蹲るようにして嗚咽する。世界には僕独りしか居ないように、最低な声は夜の中にどこまでも反響していた。

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