初恋の葬列

9

 真夜中の窓際で、最後の灯りであるかのように煙草の先で火が燃えていた。紫煙は風に揺らぎ、遠い空へと昇っていく。

 夜になると、時折世界が止まっているのではないかと錯覚をする。一切の音がせず、暗闇に包まれた街は時間という概念から切り離されたような神秘性があった。しかし、揺らぎ、消えていく煙を見るとそんなものはただの比喩に過ぎないのだと痛感する。僕の意志とは関係なしに、世界は進み続けている。

 微かな物音に振り向くと、暗い部屋の中に彼女が立っていた。夕希だと思っていた、けれど夕希ではなかった彼女が、僕のことを見つめていた。

「隣に行ってもいい?」

「……ああ」

 僕は逡巡の後で、煙草の火を消し吸い殻を携帯の灰皿に捨てる。幾ら彼女が夕希ではないのだとしても、夕希の見た目をした人の前で煙草を吸うつもりにはなれなかった。

 彼女は窓辺の傍にあった椅子に座り、窓外と僕を見る。今宵は月が綺麗で、部屋の中まで届く月明かりは彼女の顔を美しく照らしていた。僕たちが会った、あの日のように。

 魔女と話をした夜から、僕は何も語らなかった。そして彼女もまた、何も語らなかった。しかし、そうして出来た心理的沈黙はむしろ僕がそのことについて知ったという事実を表しているようだった。

「どうして」と声が零れる。これ以上、話すべきではないと思っていたのに、何も言うことが出来ないままで居ることは出来なくて、僕は尋ねてしまう。

「どうして、何の目的があって、君は嘘を吐き続けていたんだ」

 僕を騙しても、意味なんてない。ただ僕が絶望するだけだ。それを望んでいるのは恐らく魔女だけで、この少女までもが望んでいるとは思えない。

 そう望むように彼女もまた魔女に仕向けられたのだろうか。あるいは、本当に記憶を奪われ、そのうえで僕にまつわる偽りの記憶だけを入れられたのか。

 彼女のことを、僕は知らない。ただ夕希ではないという存在であるということしか、人間かどうかすらも分からない。悪意や害意がないからこそ能動的な拒絶はしていないけれど、理解をすることが出来ないからこそ距離を置いてしまう。

「嘘を吐いていて、ごめんなさい」

 彼女はそう言って、静かに頭を下げる。素直に謝られることは想像をすることが出来ていなくて、虚を突かれた結果言葉を見失う。そうしている間に彼女は面を上げて、僕の目を真っすぐと見る。

「確かに、私は嘘を吐いてた。記憶がないというのは嘘で、私自身が貴方の言う夕希ではないことは知ってたんだ。でも、信じて貰えないかもしれないけど、それ以外で私が嘘を吐いたことはないよ」

 証拠と言えるようなものはない。嘘を吐かれていたのだ、真実を隠され続けていたのだ。この言葉すらも疑うべきなのかもしれない。ただ、真っすぐこちらを見つめるその目すらも疑ってしまえば信じることの出来るものなどないような気がして、僕はその言葉を飲み込む。

「なら、どうして夕希のフリをし続けていたんだ。それに、どんな意味があったんだ。君の目的はなんだったんだ」

 彼女が夕希ではないことを知って、絶望の次に思ったことはそれだった。彼女の様子から見るに、彼女は魔女に従って僕の傍に居るのではなく、彼女の意志として僕の傍に居ることを選んでいるようだった。だからこそ、分からなくなる。悪意なく僕を騙し続けた意味は何なのだろうか。彼女は僕に何を求めていたのだろうか。

 その問いに対して、彼女は笑った。その微笑みは見惚れてしまうような危うさを携えていた。突き詰めた脆さは、美しさを内包する。

「夏祭りの日、言ったでしょ。私はあなたのことが好きなの。ずっと、変わらず。私はあなた愛しているの。だから、嘘を吐いてでも傍に居たかった。愛されたかった。それって不自然なことなのかな」

 痛々しいほど、清廉な告白だった。韜晦も諧謔もない、ありのままの感情の吐露。

 どうせ嘘だったのだからと、彼女は夕希ではないのだからと、意識をしていなかった。忘れていた。けれど、そうだ。僕は告白をされたのだ。好きだと、言われたのだ。その事実が、選択の責任を更に重くする。もしも彼女を裏切ることを選んだなら、僕は意識的に他人からの好意を踏み躙らなければならないのだから。

 しかし、そうした重力とは別に、僕はひとつの違和感を覚える。

「……ずっとと言われても、僕は君のことを知らない」

 この夏を共に過ごして好きになったのだと言われるのであれば、理解をすることが出来た。ただ、その場合、好意は彼女が僕と共に居るという選択を取った結果として訪れるものだ。彼女は最初から、夕希であると騙り続けた。初めから、夕希として僕に愛されようとした。それは彼女が魔女との賭けよりも前から僕のことを知っていたことを表しているはずなのに、僕は彼女のことを知らない。僕のことを好くような人間に心当たりがない。

「それはそうだよ。私はあなたのことを見ていただけだから。何年も前から、哀し気な表情をして海を見るあなたに、一方的に恋をしていただけだから」

 そんなはずはない、と思う。夜、夕希を弔うために海を訪れる際、僕は偏執病めいているとすら言えるほどに周囲のことを気にしていた。誰かに見られていれば、神聖さとでも言えるようなものが欠けてしまう気がしていたから。表情を見えるほど近くに誰かが居た、なんていうことは考えられない。

「誰も居なかった、自分のことを見ていた人になんて心当たりがない。そう思ってる?」

 彼女は僕の心を見透かしたように言う。それは、魔女のようにこちらの考えを透かして見るような能力があるからこそ言えることなのか、それとも単なる予測に過ぎないのか。

「あなたが気が付かなかっただけで、私はずっと見てたんだよ。暗い海の底から、月に照らされるあなたを」

 海の底から見ていた、という言葉はレトリックではなく、真実なのだろう。それは、彼女が人間ではないということを言外に示していたが、魔女と出合った今となってそれは意外なことではなく懐疑や嫌悪を向けることなく受け入れることが出来た。

「ずっと、声をかけたかった。哀しみに対して私が出来ることはなくても、傍に居てあげたかった。でも、私は砂浜に立つことが出来なかったから、あなたを見ていることしか出来なかった」

 その声に含まれた苦しみは、僕に対する好意を表していた。叶わない恋を抱える痛みは、理解を出来るからこそ、その苦しみは生々しいほど僕の胸を打つ。

「そんな時、あの人に言われたの。足をあげようかって。あなたに愛されるようにしてあげようかって。そうして私は足と、あなたの愛する姿を手に入れたんだ。あなたに愛されなければ、夏の終わりに泡に還るという条件を飲んで」

 死の可能性を受け入れてでも、他人の姿になってでも、彼女は僕に愛されることを望んだ。

 足を得るだけではなく、姿を変えることさえも選んだのは、僕が夕希以外に愛することはないのだと知っていたからなのだろう。しかし、姿を変えれば僕が愛するのは姿を変える前の彼女ではなく、夕希に過ぎない。向けられた愛は、彼女自身に向けられたものではなく、夕希に向けられた仮初のものに過ぎない。

 それでも、彼女は自分というものを失ってでも、自分に与えられるものではなかったのだとしても、僕に愛されたいと思ったのだ。

「あなたが私を愛していなかったことは分かってる。ずっと、ここに居る私じゃなくて、「夕希」のことを見ていたことは、分かってる。それでも、私はまだ諦められないんだ。愛して欲しいと思ってしまうんだ」

 やめてくれ、と言いたかった。その言葉は呪いだ。

 知らないままで居たかった。彼女の動機も、心情も、何も知らないままで、ただの嘘吐きなのだと思ったままで居ることが出来れば、どれほど良かっただろうか。

「私に出来ることは、夕希を模倣することだけだった。例え、私が夕希ではないことを知っている今のあなたが私を愛していたとしても、それは夕希に対する感情なのかもしれない。でも、それで良いんだ」

 彼女は椅子から立ち上がり、笑った。

「あなたの答えを待ってる。出来れば好きだと言って欲しいけど、どんなものでも受け入れるから」

 彼女は「おやすみなさい」と言って僕に背を向け、僕の部屋へと戻っていく。なんてことのないような振る舞いは、だからこそ痛々しく映った。

 そうして、僕は選ばなければいけない。愛していた者を殺すことを。愛してくれたモノを殺すことを。

 空に浮かぶ月は、僕を見下ろしていた。まるで手の届かない僕を嘲るように、あるいは憐れむように。

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