チェシャ猫の死体
7
僕たちの生活に、表面上の変化はなかった。本を読み、何気ない話をして時間を潰し、時折思い出したように散歩に行く。何も変わらないように見える風景は、しかし見えない罅の入った、いつ崩れるかも分からない歪なものだった。
夕希が眠った後で、久しぶりに煙草を吸った。縋るものがないと自らを保つことの出来ない弱さに嫌気が差しながら紫煙で肺を満たすと、くらくらとした吐き気を伴う浮遊感を覚える。最低の気分だ。けれど、何もしていないよりはましだから、また口をつけて紫煙を吸い込む。
答えは見つかっていない。見つかるものなのだろうかと考える。僕は一生をかけても見つからないような、存在しないものを探そうとしているのではないか。
いつまでも、胸中に蟠った感情の名付け方なんていうものは分からないままで、いずれありふれた、広辞苑に載っているような言葉で自分と折り合いをつけることになる。人生はそういったことの繰り返しに過ぎないのだ。今僕が向かい合っているものも、恐らくは。
僕が彼女に向けているものは決して酷い感情ではない。好意と呼んでもいいものだろう。ただ、恋なのだと断言をすることが出来ないだけで、何も言えないままでいる。
本当の感情を求めようとしていることは愚かなことなのかもしれない。誠実さは都合がいいだけに過ぎず、美徳ではなくて、無理に抱える必要なんてない。夕希は、彼女が僕に好きだと言ったように僕も彼女に好きだということを期待している。ならば、僕がするべきはその気持ちに応えることなのではないだろうか。
正しさが分からなくなってくる。自分の中の真実を守ることが正しさなのか、それとも他者との調和を保つことこそが正しさなのか。煙草は短くなっていく。橙色をした炎は灰とともに花房のように地面へと落ちていく。
そういう日々の繰り返しで、時間は浪費されていく。終わりは刻一刻と近付いて行く。膠着したまま変わらないように見えた状態は、外からの衝撃によって突き動かされる。
冷蔵庫の中身が空になると、僕はいつも決まって一人で買い物に出かけた。甦った嵯峨夕希について声をかけてくるような人が居ないことは既に分かっていたけれど、どうせ買い物なんて退屈なのだ。わざわざ二人で行く必要もない。
意識的に彼女から離れようとすることはどこか彼女を突き放すように思えて、一人の時間を確保することが出来ない。ゆえに、一人きりになったこの時間は考えを進めるためのこれ以上ない時間だったはずなのに、思考は絡まったまま無為に時間は過ぎていく。
どういう表情で部屋へと戻っていくべきなのだろうか。そんなことを考えながらアパートの階段を上がり、自室のドアへと向かおうとすると不意にそれは勢いよく開く。そうして姿を見せたのは、部屋に居るはずの夕希ではなく、ここに居るべきではない憂花だった。
何で、という言葉が出るよりも先に、憂花の目線を射殺すように見た。そして何も言わないままで僕の腕を引き、部屋から遠のくように歩き始める。
「待ってくれよ」という咄嗟に出た言葉が聞き入れられるはずもなく、レジ袋を携えたまま不安定な姿勢を何とか保つようにしながら階段を降りていく。あれほど夕希を否定し、嫌うような態度を見せていた憂花が、どうして部屋を訪れたのか。ただでさえ積もっていた問題は更に複雑さを増して肥大化していく。
憂花は何かを言うことも、振り返ることもないままでただ進んで行く。彼女がどこへ行こうとしているのか、僕には見当がつかなかった。公園を通り過ぎ、彼女自身の家とも違う方向へと躊躇いなく歩く。このまま、この街から出て行くつもりではないだろうかという考えが過った。馬鹿馬鹿しい、と思いつつ、迷いのない足取りを見ていると有り得ないと否定することも出来ない。
「なあ、憂花。どこまで行くつもりなんだ。こうして引っ張ってきて、何がしたいんだ」
思わず口を出た問いに、憂花はようやく自らがしていることに気が付いたように僕の方を振り向いて足を止めた。彼女は必死に言葉を探すようにして何度か口を開き、閉じる。そうして結局、再び顔を前へと向けて、吐き捨てるように言う。
「出来る限り、遠くまでだよ」
「どうして」
「あんたと話がしたい。それだけ」
「なら部屋の中ででも良かっただろ」
「あそこにはあの女が居るでしょ」
憂花が彼女のことを夕希だと認めていないことは分かっている。ただそれでも、夕希のことを「あの女」と言ったことに対して拭えない違和感を覚えた。静かに避けるような言葉ではなく、明確な攻撃性とともに突き放すような言葉が吐かれたことに僕は哀しみを覚える。
「君について来てるわけでもないんだから、ここまで歩き続ける必要はないだろ。夕希が居ない場所で話したいならもう十分じゃないのか」
そう言うと、憂花ははたと立ち止まり、振り返った。しかし、今度は僕の顔を見るためではなく、僕よりも後ろを覗くために。そうして、当たり前だけれども誰もついて来ていないことを確認すると彼女は酷い頭痛でもあるかのように苦い顔をすると、溜息を吐く。
「それもそうだね。うん、神経質になり過ぎてた。適当にここら辺で話そうか」
「ここら辺って、どこで」
住宅街から自然に寄ったここには、人が座ることの出来るような親切なものは見当たらない。落ち着いた場所を求めるなら、もう少し進むか、戻るかのどちらかだ。
「別に、大層な話をしようってわけでもないし木陰でもあれば十分じゃない。それとも、買い物帰りで疲れてる?」
「いや、別に僕は大丈夫だけど」
「ならそれで決まり」
憂花は少し進んだところにある、何もないただの木陰へと進んで行く。彼女は山とアスファルトの境界線であるコンクリートの塀に凭れ、疲れたような視線を彷徨わせた後で僕の方を見る。疲労と決意の入り混じったような目線は今まで見たことのない色をしていて、僕は戸惑う。
「それで、話ってなんなんだ。どうして、君は僕の部屋に居たんだ」
「なんなんだって、白々しい。分かってるでしょ、以前の話の続きをしに来たって」
分かっていることを聞いたつもりはなかったけれど、確かに考えてみれば分かる話ではあった。彼女の態度から見ても、消化されないままで終わった夏の始めの脈絡からしても。
「部屋に行ったのは話がしたかったから。まあ、あんたは部屋に居なくて結局あれと話すだけになったけどさ」
「話したのか、夕希と」
あれほど彼女のことを拒絶していたのだ、まさか話をするとは思っていなかった。けれど、否定的なスタンスを取る憂花と、記憶のない夕希が話をするということは良くない結果に転ずることが想像に難くないことだった。
憂花は僕が未だ彼女のことを「夕希」と呼ぶことに対して軽蔑でもするような目を向ける。
「話したうえでやっぱり言うけど、あれは夕希じゃないよ。もしもあれが夕希だと思ってるなら、さっさと目を醒ました方がいいんじゃない」
「話したうえでって、何か彼女が言ってたのか」
「そういうわけじゃないんだってば。逆に、何であんたは気が付かないの」
苛立ったような声色が向けられ、思わず反発的な作用が心に生まれたことが分かる。
「それは元から、君があれは夕希じゃないと、否定的な見方をしているからこそ言えることじゃないのか。根拠のない否定を繰り返したってしょうがないだろ」
「あれを夕希だと信じてるあんたからすれば、根拠を求めるのは当たり前だって理解出来る。でも、そういう問題じゃないんだよ。どこがどうとか、明確に言うことは出来ないけどともかくあれは夕希じゃない。ずっとあれの傍に居たなら、一回くらいはあんただって思ったんじゃないの。本当に、この女は甦った嵯峨夕希なのかって」
その問いかけは、今の僕にとって核心的な部分を抉るようなものだった。憂花の疑念が発端とはいえ、僕は夕希に対して少なからずそうした疑問を抱いた。それは、言い訳のしようのない事実だった。
「……思ったことは、あるさ。ただ、それは前も言ったように記憶を失ってしまったから起こるずれみたいなものだろ。僕も憂花も、時間が経てば人は変わる。誰だって、以前のままのその人であるはずがない。違いがあることは確かだろうが、決定的に他人だなんて言えるような違いはない」
「そうだよ、人は変わる。死んだ人間の中でも時間が流れ続けてるのかは分かんないけど、仮にあれが本当の夕希だったとして、そうした時間の流れによる変容はあるのかもしれない。でも、変わらないものは、あるでしょ。そういう根本的な部分が、あの女は夕希と違うんだよ」
憂花の言葉は一種の宣告のように断定的なものだった。その言葉を聞いて、僕と彼女の話が交わることがないのだろうと実感をする。今、僕は彼女が夕希であると信じている。拭えない疑念こそあれど、それが期待の入り混じった不純な希望であることは自覚していても、嵯峨夕希は甦ったのだと、そう思っている。
対して、憂花は彼女は嵯峨夕希ではないのだと否定している。姿形こそ同じであれど、本質的な部分は僕たちの知っていた夕希とは全く異なるものなのだと、断言している。
彼女の正体は分からない。本当に甦った嵯峨夕希かもしれないし、憂花の言う通り嵯峨夕希とは異なる何かなのかもしれない。しかし、事実とは別に、僕たちの見ている認識の世界は決して交わることのないものだったし、交わろうとする意志すらもないものだった。話はいつまでも平行線上を辿ったまま、何も変わらない。
夏の始まりと共に現れた少女の正体が証明されない限りには、哀しいけれど僕たちの語っていることは全て妄言の域を出ないのだから。
「どうして、君はそこまで彼女が夕希ではないと否定するんだ」
零れた疑問は、脈絡からは外れた純粋な、僕の中で蟠り続けていたものだった。
「どうしてって、逆に聞くけどあんたはどうして夕希じゃないものを夕希だと認めようとするの。私は、夕希が死んで何年も経った今でも、それからきっとこれからも、私たちの過去を大切なものだったと思ってる。それを掘り起こされて、あまつさえ偽物まで用意されて。大切に仕舞っていたものに泥をつけられれば、誰だって怒るのが当然でしょ」
僕が憂花の視点に立っていれば、夕希のことを偽物だと思っていれば、同じことを考えるのだろう。彼女の憤りは深く理解をすることが出来る。しかし、だからこそ、僕は彼女の行動を理解することが出来ない。
「それなら、どうして今になってもう一度こうして僕に言うんだ。以前話した時に、何を言っても聞かないのだと見切りをつけたのであればもう来なければ良かった。僕の態度を見ても諦められないのであれば、もっと早くに来ることだって出来た。このタイミングで再び訪れた、その理由が分からないんだよ」
憂花の考えがどうであれ、行動を起こすには、晩夏の差し掛かった今は遅すぎるように思える。僕が彼女の来訪に対し、殊更に戸惑った理由はそれだった。あの話をした数日後に憂花が訪れたのであれば、それが突然の来訪であったとしても、僕の居ない間に部屋に上がっていたのだとしても、納得をして驚きはすれど戸惑うことはなかっただろう。
「それは」と憂花は歯切れ悪く言い、継ぐべき言葉を手繰るようにして視線を彷徨わせる。迷いのない、苛烈とすら思えるような先ほどまでの勢いは一瞬にして削がれ、生々しい逡巡が露わになる。
「それは――諦められなかったんだよ。一度は諦めようと思って、それでもやっぱり諦められなかった。それだけのこと」
悩んでいたという理由は、確かにこれ以上ない説明になっているように思える。少なくとも、そんなことは有り得ないと否定をすることが出来ない。ただ、それを真実だと受け取ることは、出来なかった。それが真実だとして、言い淀むような理由は見つからなかったし、何よりそうした懊悩をすることは、憂花らしくないのだから。
彼女自身の言葉を借りるのであれば、海代憂花という人間のどうしたって変わることのない、根本的な部分というものは自らの判断に対しての迷いがないことだった。自分の行動や思想の全てが正しいと思い込んでいる、というようなことではない。他者から見て正しくはないかもしれないという可能性を考慮しつつも、それでも彼女は自分の中にある正しさを貫く。だからこそ、彼女が本当の動機について語る際に言い淀むとはどうしても思えなかった。
しかし、本当の理由は何だと尋ねたところで、意味がないことは分かっていた。今の僕と憂花が混じることはない。本当の理由について韜晦を選んだ以上、彼女がその意志を曲げることはないのだろう。ならば、そうした強硬的でエゴイスティックな態度はいたずらに僕たちの関係を破滅させるだけだ。ならば、僕は沈黙を選ぶ。彼女の意図を知ることが出来ずとも、失ってしまうよりはずっといいから。
憂花は言うべき言葉を全て吐き出したのか、それともこれ以上何を言っても僕に響くことがないと思ったのか、ゆっくりとコンクリートで出来た塀から背中を離す。僕を見つめる憂花は、今までに見たことのないような表情をしていて、何を考えているのか読み取ることが出来ない。それとも、夏の暑さに中てられて見たことのない表情を僕が見出しただけなのか。いずれにしても、彼女の眼差しは深い不安を僕の中に刻み付ける。
「あれが夕希なのかどうか、本当に知りたいなら知ってる人にでも聞けばいいんじゃない」
「知ってる人って、誰もそんなことの証明のしようはないだろ」
「そう? あんたの言葉を信じるなら、夕希を甦らせた人が居るんでしょ。その人なら、知ってるんじゃないの」
夕希を甦らせた人間なら――魔女であれば、確かに彼女の正体を知っていることが道理だ。彼女が本物の嵯峨夕希であっても、そうではなかったとしても、それを用意したのはあの魔女なのだから。
憂花の言葉で、魔女としたもうひとつの約束を思い出す。賭けについてと、もうひとつ。一度だけ、質問に答えるという約束を。
まるで、魔女との間にあったその約束を知っていたような言葉に戸惑う。しかし、むしろ逆なのかもしれない。このタイミングがあることを見越して、魔女はあの約束をした可能性はないだろうか。憂花が僕の過去を見透かしているという仮定より、その方がずっと得心がいく。
憂花はそれ以上僕の言葉を待つことはないままで、背を向けて歩き始める。別れの言葉もないままで、茹だるような真夏の中を進み、僕から離れていく。
止めることも出来ずに、僕は遠ざかっていく背中を見送る。彼女が居なくなった後の木陰にはぽっかりと埋めることの出来ない空白が出来てしまったような気がした。
すぐに部屋へと戻る気にはなれず、憂花が凭れていた場所に僕も背を預けると、がさりと手に持っていたビニール袋が鳴って自分が買い物から帰って来る途中だったことを思い出す。
魔女に尋ねれば、僕の中に蟠っている問題はすぐに解ける。魔女さえも真実を知らないということはないのだろうから、嘘を吐かずに答えるという言葉を信じるのであれば、それで呆気ないほど簡単に解決する。
しかし、拭えない抵抗感があることもまた、確かだった。不透明で不気味な存在に頼るということはその時点である種の負けのように感じる。出来ることならば、その約束に頼りたくないというのが賭けを始めた時から僕が抱いている考えだった。
いや、そんなものは嘘なのかもしれない。どのような形であっても、僕は真実を知ることが怖いだけなのかもしれない。知ってしまえば、もう戻ることは出来ない。今度こそ、僕は選択をして、何かを切り捨てなければいけない。無知を言い訳にすることが出来なくなる。
どのようなものを代償にしたとしても構わないのだと、決めたはずだった。それなのに、いざそれを目前とすると失うかもしれないものの大きさを実感し、足の進みは遅くなっていく。進むことが恐ろしくなる。
けれど、現実はどうしようもなく迫って来る。目を逸らすことは出来ても、逃げ切ることなんて出来やしない。蝉時雨は既に夏の盛りのような騒がしいものではなくなっていて、蜩の寂しい声がいつまでも響いていた。
夏の残響が鳴っている。それはむしろ静寂を強調しているようで、思わず耳を塞ぎたくなった。何も聞こえない方がマシだと思いながら、夏の軋む音を聞いている。
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