切望の痛み
4
嵯峨夕希が居る日常というものは、死んだ人間が甦るという事象は、異常で異質な、世界にあってはならないものだ。世界に死んだ人間が甦ってはならないというルールが定められているわけではないけれど、少なくとも常識からは外れている。常識から外れたものは、その本質の是非は置いておいても異端であり、排されるべきものだ。
しかし、夕希とともに再開した日常は何も劇的なものではなく、呆気ないほどに牧歌的な当たり前な夏の日常だった。そうあることを一瞬不自然なこととさえ思ってしまうくらいにつまらない、ただの日常。
食料と彼女の服と靴、それから僕が眠るためのブランケット。二人分の生活に必要なものをゆっくりと買い集めながら、夏の中を揺蕩っているといつの間にか数日が経っていた。
この街は、狭い。面積が、というわけではない。人々の繋がりというものが、田舎らしく密接で、名前は知らずとも顔は見知ったような者とすれ違うことは少なくない。ゆえに、夕希には昼の間の外出は控えるように頼んだ。行動を制限するという行為は嫌なものだったけれど、夕希は苦言を呈するようなこともなく僕の部屋で本を読むことで時間を潰していた。書痴のように、貪るように、飽きもせず。
僕が小説を読むようになったのは、夕希がきっかけだった。小説を読んでいる彼女の見ている世界が知りたくて、僕は小説を読んだ。僕の本棚は夕希が好んでいた小説が、作家の作品が幾つか並んでいて、既に読んだことのあるそれらを、記憶のない今の夕希は新鮮な表情で読む。
僕は夜、ブランケットを下に敷いて床に眠るようになった。ソファーのままでも良いと言ったのに頑なに譲らなかった夕希を納得させるために、ベッドの隣にブランケットを敷いて眠ることになったのだ。寝心地は、言うまでもなく良いものじゃない。安物のブランケットが床の硬さをそのまま背中に伝えるせいで、起きた時は痛むようなことも少なくない。ただ、朝起きると彼女が僕のことを見ている時があって、案外悪いものじゃないのかもしれないとも思う。
夏が深まっていく。蝉時雨は情緒もなく五月蠅くなるばかりで、暑さも肉体の一部を溶かそうとしているかのように酷くなり続けている。それでも迎える夏は今までの不快なばかりのそれではなくて、どこか無根拠な期待を孕んでいた。
僕たちは、僕が作った彩りの少ないパスタを頬張りながら真夏の昼をやり過ごしている。冷房もつけず、窓を開けて涼しさを確保しているだけの部屋はじっとりと汗がシャツに滲む程度には暑い。冷房機は、部屋には存在している。けれど骨董品のそれは殆ど部屋を冷やしてはくれないし、何より冷房を動かすために使った電気代は母が払うこととなる。必要以上にあの人に貸しを作るのは嫌だという思いから、僕は出来得る限り最低限度の生活を送っているし、それに対して文句はない。むしろ、生きる限りにおいて必要十分なものを与えて貰っている以上、感謝をしているくらいだ。僕は母のことが好きではないけれど、嫌いでもない。
「ご馳走様でした」と二人して言い、食事を終える。僕が食事を作り、何もしていないことに引け目を感じたのか、食器は夕希が洗うというのがここ数日で緩やかに決まった僕たちの間のルールのひとつだった。
彼女の服は、白いワンピースからジーンズに白いシャツというまたシンプルなものへと変わっている。女性がどのような服を着るのかが分からず、何となく外れないように選んだ結果がそれだった。ジーンズの方はまだしも、シャツの方は彼女の身体よりも少し大きくて、余った服の裾が窓から入って来た夏の風に揺られた。
「午後は、どこか出かけてみようか」
そう呟くと、夕希は顔を上げて僕に尋ねる。
「大丈夫なの? その、私、何も分からないんだけど」
「まあ、大丈夫だよ、多分」
放り出したような言葉は夕希が居る日常に慣れたがゆえの油断でもあるのだろうけれども、事実でもあった。僕も今では落ち着いている。嵯峨夕希というあるべきではない存在に対して誰かに何かを言われたとしても、適当に誤魔化す程度の余裕はあった。
「それで、行くとしたらどこに行きたい?」
「どこ……。どこだろう。ねえ廉。私たちって、どこに行ってたのかな。ここにはどんな場所があるのかな」
「ああ」と思わず声を漏らす。そもそも、彼女はこの街にどのような場所があるのかも知らないのかと気が付く。自己嫌悪をしても、彼女にあるべき記憶がないことには慣れないままで、何度もこんなことを繰り返してしまう。
「どこに行っていたかと聞かれると、答えづらいな。大体、当てがなかったんだ。目的もなく、ただ歩いて行く。時々迷って、帰れないなんていって頭を悩ませてたこともあった。これといって決まっていた場所はこの部屋か海か、くらいだったのかもしれない」
この街は、幼かった頃の僕たちにとっての世界の全ては、それほど大きな場所ではないし、通い詰めるほど愉快な場所があるわけでもない。冒険と称して一度行ってしまえば、その先にあったものはありふれた田舎の一部だということに気が付き、行かなくなる。そうして結局は安定した場所へ向かうのだ。そういう、つまらないほど耐久性のある場所が、この街だった。
「じゃあ、この街を案内して貰ってもいい? 行けるところまで、私たちが過ごした場所がどんな場所なのかを見てみたいな」
「オーケー、じゃあ適当に一周してみようか」
昼下がりの時間でも、陽が落ち切るよりも前におおよそ街を一周することは出来るだろう。この街の広さはその程度なのだ。
不意に、煙草が吸いたくなった。食事を終えた後に吸う習慣が出来ていたせいで、口寂しさを感じる。ただ、夕希が来てからは煙草を控えるようにしていた。煙草に縋りながら世界に耐えているような弱いところを見られたくないと思っているのかもしれない。
夕希は食器を洗い終えると「行こっか」と言った。一息入れるのかと思っていたけれど、彼女はやる気に満ち溢れているらしい。
「ああ、行こう」と僕が言い、僕たちはドアへと向かって行く。ドアへと向かう途中、部屋で財布を取って、それだけを持ち外へと出る。
刺すような暑さと蝉の声、眩しいとすら思うような空の青。夏が僕たちを出迎える。外に出るとこの夏の気配に中てられてくらりとしてしまうのは、単に僕の不摂生さゆえなのだろうか。
いつも通り溜め息を吐く階段を降り、街へと繰り出す。散々通っている場所のはずなのに、何故だか夕希と共に歩く夏はいつものそれとは違ったものに見えるから不思議だ。
八月に入り、夏の陽射しはその暴力性を増して僕たちに降り注ぐ。キャップを持ってくれば良かった。僕のためにではなくて、夕希のために。僕が日射病になりくたばることはどうでもいいとして、彼女が倒れることは嫌だった。
取り敢えず、どこに向かうべきかも考えないままで足を進める。海とは反対の方向へと歩き始めたのは、海には既に行っているからというよりは夕希と海という組み合わせが死を想起させるから、本能的に忌避したのかもしれない。
目を留め、足を止めるところなどない、つまらない道のり。連なった民家と、ところどころに現れる野放図の自然。見たことのない飲み物をワンコインで買うことの出来る自動販売機に、憂花に電話をかけた化石になりかけている公衆電話。それら全てを、夕希は新しい玩具に目を輝かせる子供のように、興味深そうに眺めていく。記憶の欠落に僕は寂しさばかりを覚えてしまうけれど、新鮮な態度で世界と向き合うことが出来るということは悪いことではないのかもしれない。無知を憐れむのは傲慢だ。無知を持って世界を楽しんでいる人と、知ったつもりになって世界を厭世的に見ている人間では、前者の方が幸福に決まっている。
暫く歩いたところで、小さな公園へと辿り着いた。夏の激しい暑さのせいか、それともスマートフォンなどの膾炙によって公園という場所自体が廃れているのか、公園に子供の姿は一切見えない。窓の外から聞こえてくる無邪気な声は幻覚だったのか、それとも今の子供たちは公園ではない場所で遊んでいるのだろうか。きっと、大人は十七歳が今の子供について語っていると笑うのだろうけれど、子供の世界にとっての数年は特に大きな変化を齎すものだ。想像をするほかにないほど、今の子供たちと僕が幼かった頃の話は乖離しているだろう。
「私たちはここで遊んでたの?」
「そうだな。時々、だけど」
鞦韆と滑り台、それから街灯とベンチの他に何もない公園は、時間をただひたすらに潰すには空虚過ぎた。ただ話をするだけにしても、ベンチに三人並んででは話しづらいし、鞦韆は二人分しかない。あくまでもここを目的として訪れるというより、行く場所がなくなった末にここに辿り着き時間を潰すということが多かった。
「じゃあさ、昔みたいに遊んでも良い?」
「誰かが居るわけでもないし、いいだろ」
自分よりも幼い子供たちが遊んでいるのであれば控えるべきだろうが、誰が居るわけでもないのだから使用は自由なはずだ。流石に古びているからといって、夕希が使っただけで壊れるようなことはないだろう。
夕希は鞦韆へと向かうと、そこに腰を下ろし、そしてすぐに「あつっ」と言って立ち上がった。夏における座り心地など考えられずに設計された鞦韆は、座ると陽光の熱をそのまま吸収していて熱くて堪らない。昔も同じようなことになったことを思い出す。
「これじゃ座れないじゃん」
「まあ、何とか最初の方耐えてればなれるよ。使いたいならそうするしかない」
我慢しようと思えば耐えれる程度の熱さだし、染み付いたようにいつまでも残り続ける熱さというわけでもない。少し辛抱すれば、使えることには使える。
夕希は慎重に座り、それから熱に耐えるようにじっと身を固める。少しして、熱が引いて来たのか、強張っていた身体を弛緩させたのが見て分かった。
「それで、ここからどうするんだっけ」
「どうするって、どうやって鞦韆を漕ぐかってことか?」
「えっと、うん。そう」
記憶の欠落は、そうしたことまで忘れさせてしまうのかと思う。夕希は、この公園に来ると必ず鞦韆を漕いだ。空に触れることが出来そうなほどまで、危険だと咎めるよりも先に感心をしてしまうほど高く、彼女は鞦韆を勢いよく漕いでいた。その彼女が、漕ぎ方すらも忘れてしまっているのは、哀しかった。僕のことや街のことを忘れるだけならまだしも、嵯峨夕希という人間のささやかで大切な一部分が損なわれるような気がして。
心の中に生まれた寂寞を隠すようにして、僕は隣の鞦韆に座り、実際に漕いで見せてみる。
「こう、身体を後ろに引いて、そのまま足を地面から離すんだ。あとは足を前後に揺らしてどんどん勢いをつけていく」
僕の動きを真似るようにして夕希も鞦韆と身体を後ろの方にやり、それから足を離してゆっくりと揺れていく。しかし、足を前後するタイミングが上手く掴めないままで徐々に揺らぎは小さくなり、やがて止まっていく。この不器用さは、夕希というより憂花を思い出す。鞦韆を漕ぐことは苦手で、けれど鞦韆に座ることが好きだった彼女は空に向けて漕いでいる夕希の隣でそれを見上げながらただ腰を落ち着けていた。僕は鞦韆を囲う柵に寄り掛かって、彼女たちを眺めている。時折、何気ない話をする。そういった、セピア色の記憶。
しかし、哀しむばかりでいるべきではないのだろう。今、僕の目の前には夕希が居る。過去の思い出すばかりではなく、僕たちは新しい僕たちの経験を今に刻み付けることが出来る。
僕は鞦韆から立ち上がり微かに揺れる彼女の背中を押す。「わっ」と驚いたような声を上げた後で、彼女はその揺らぎに身を任せる。鞦韆と少しだけズレたリズムで足を前後に動かしながら。
何度も押していくと、徐々に慣れて来たようで加速していく。僕が加える力は少なくなっていき、彼女だけの力で鞦韆は揺られる。夏の溶けたような空気を切り裂いて、彼女は空を蹴り上げるように漕ぐ。
「楽しいね、これ!」
彼女は無邪気に笑う。今の、そして今までの僕の鬱屈を全て吹き飛ばすかのように。
夕希が死んでから、僕は分からなくなっていた。生きている意味が、自分が居続ける意味が。元から、生きる意味や僕という人間が存在し続ける意味などなかったのだろう。ただ、夕希が死に、死というものが空想の遠い存在ではなく、身近で現実的な恐怖として襲い掛かった時、人は自然と生について考えることになる。今までそこに在りはしたけれど、見ようとしたことのなかった生と向き合い、そこに虚しさしかないことに、僕は気付いてしまったのだ。
けれど、今、僕は生きていて良かったのだと思う。この世界に居ることが出来て、良かったのだと思う。傍から見ればなんてことのないことかもしれないけれど、恋とはそういうものなのだ。それがあるだけで世界が鮮やかに見えるような、意味を持つことが出来るような。失ってしまえば世界から色彩が剥がれてしまうような、ただの空虚でしかなくなってしまうような。それこそが、それだけが恋なのだ。
彼女は暫く夏を泳ぐように鞦韆を漕いだ後で、満足したように揺らぎを止めた。
「あー、楽しかった! ごめんね、私だけはしゃいじゃって」
「いや、いいよ。あれだけ楽しそうにしてると見てる方も楽しくなる」
「本当に? ちょっと怒ってたりしない?」
「文句があるなら言ってるさ。妙な遠慮するような仲でもないんだからさ」
そう言うと、夕希は安心したように笑った。表情が素直なところは、相変わらずだ。
「じゃあまた行こっか」
そうして、僕たちは公園を出た。再び空になった公園を後にして、街の中へと進んで行く。
何人か、顔だけは知っている人とすれ違ったけれど、彼らは特に僕たちのことを、死んでしまったはずの人間が歩いていることを言うことはなかった。考えてみれば、当たり前だったのかもしれない。幾ら顔見知りの多い土地だったとしても、何年も見ていない他人の顔までは覚えていない。仮に覚えていたとしても、「死んだ人に似ている」と指摘をするはずがない。きっと思い過ごしだったと考えて、すれ違い、終わりだ。
僕たちは時折立ち止まって、彼女が失った記憶についての話をした。それらは、特筆するようなものではない。仮に僕たちの誰かについての物語が記されることになったとしても、書き留められないようなあまりにも些細な日常の断片。それらを僕たちは拾い集めた。一枚の絵にすることは叶わずとも、少しでも過去を垣間見ることが出来るように。
中学へと向かう通学路だった道で話をしている時、「無理に思い出す必要はないんだ」と僕は呟いた。
「無理に昔をなぞって、かつての自分を模倣するだけになるなんて、おかしいだろ。今の君は君で、それでいいんじゃないか」
思い出すことの出来ない過去に縋り続けて今の彼女が歪むのは、最悪だ。僕は思いでの中にしか存在しない過去が好きなのではない。今ここに居る彼女のことが好きなのだ。無理に思い出そうとする必要はどこにもない。
しかし、彼女は静かに否定をする。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも思い出したいんだ。例え何も思い出すことが出来なかったとしても、せめて知りたいんだ。何も分からないって、怖いことだからさ」
僕は思い出す必要などないと言った。けれど、それは思い出すことの出来ない人間ではなく、俯瞰してその出来事を向き合っている人間だからこそ言えることなのかもしれない。自分が、自分のしたことが思い出せないということが恐ろしいということは、一度想像したはずだった。
彼女は誰のためでもなく、彼女自身のために記憶を欲している。かつての自分を知ることを望んでいる。ならば、僕が止めるべきではないのだろう。僕に出来ることはむしろ、彼女についてのことを話し、少しでもそれを助けることだ。
「分かった。ただ、覚えていて欲しいのは、記憶が戻らなくても、何も思い出せなくても、君の味方は居るっていうことだよ。確かに何も思い出せないことは不安かもしれない。頼れるものなんてないと思うかもしれない。でも、僕は傍に居る。助ける。だから、思い出せなくとも、自分を責めないでくれ」
人は、例えその人に実現不可能なことであったとしても、しばしば目的に達することの出来ない自分に対する嫌悪に苛まれる時がある。そうした、際限なく下降していく思考は生来のものでどうしようもない。自分一人では、考えるだけ悪い方向へと想像が浸食していくだけだ。
そういう時、自分ではどうしようもないから、他人が必要になる。誰かが居るという、ただそれだけのことが支えになる。僕の痛みを彼女の痛みと同じように考え、助けようとすることは傲慢なのかもしれないけれど、何もせずに隣で立ちすくんでいるだけというのは、嫌だった。
「うん、分かった」と夕希は頷く。
あの夏の日、彼女が死んだ日、彼女は誰かに頼ろうとしなかった。それは、他人に頼るだけの時間がなかったのかもしれないし、誰かに頼ろうという発想すら思いつかなかったのかもしれない。いずれにしても、その結果は僕に後悔を刻み付けた。どうして、自分は夕希を助けることが出来なかったのか。気付くことが出来なかったのかという拭えない後悔を。
頼ってもらう、ただそれだけの言葉が、僕はずっと聞きたかった。彼女のために、なりたかった。魔女との賭けによって彼女を甦らせることが出来たのは、贖いをすることが出来たのは喜ばしいことだったけれど、それはあくまでもマイナスをゼロに戻すことに過ぎない。僕は、生きている彼女のために何かをしたかった。それが、彼女が死んでからずっと抱いていた祈りだったのだ。
僕は夕希のために生きていたいと思う。それだけが、僕に行うことの出来る贖いなのだろうから。
また歩き始めた後で、微かな喉の渇きを感じて自動販売機の前で立ち止まった。普段であれば買うようなことはしないけれど、夕希だって喉は乾いているだろう。今は一人ではないのだ、疲労を自罰的に捉え、苦痛を無視したまま歩き続けるべきではない。少し休むべきだ。
「何が飲みたい?」と聞くと彼女は「私お金持ってないけど、いいの?」と聞く。やはり、未だに遠慮がちなところがあるらしい。
「いいよ。このまま何も飲まずに歩き続けてたらいつか倒れることになる」
「それは、そうかもだけど」
「なら、好きなのを選んでくれ」
夕希は比較的新しい、見覚えのあるものが並んでいる自動販売機と向き合う。バス停やもっとコンクリートに溢れた、交通量の多い場所に置くならともかく、こんな場所に置かれた自動販売機は一体誰が使っているのだろうか。こんな場所に置かれた自動販売機が存続している以上、案外僕たちのように意味もなく、当てもなく歩き続ける人間というのは少なくないのかもしれない。
「廉はどれを飲むつもりなの?」
「僕はこれかな」
350ml缶のコカ・コーラを指さす。特別好きだということはないけれど、暑い日、疲れた時はこれを飲むのが常になっていた。ある種の魔力のようなものが、この悪魔のように黒い炭酸飲料には存在している気がする。
「じゃあ私もそれにする」
「オーケー」
硬貨を入れ、ボタンを押し、二人分のコカ・コーラががこん、という鈍い音とともに取り出し口から降りて来た。片方を夕希の方に手渡す。
同じ中身のものを飲むとしても缶の方が美味しいと感じるのは、単なる気分の問題なのだろうか。痛みすら感じる冷たい缶の感触を掌に覚えながら思う。
プルタブを起こすとかしっ、という涼やかな音が響く。夕希は僕の所作を真似るようにして不器用ながらもなんとか同じようにプルタブを起こし、口をつける。
炭酸飲料だということを想定していなかったのか、驚いたようにすぐに口を離して目を丸くする。その様子がなんだか面白くて、僕は笑ってしまう。
「なっ、何これ」
「それ、炭酸ジュースなんだ。言ってなくて悪かったよ」
悪意などではなく、どの範囲までの記憶が欠落しているのかを理解していなかったための失念だった。けれど、戸惑う姿を見て愉快だと思ってしまったこともまた確かなことだ。
僕も倣うようにして口をつける。心地よい刺激と強烈な甘さが口の中を満たす。これほど美味しいのに、炭酸が抜ければ、温くなれば、最低に不味くなってしまうのだから不思議だ。価値観というものは簡単なことで裏返り、真逆のものへと転じてしまうのだと、百余円の缶ジュースから考える。随分とチープな知見だ。高校生にはお似合いの程度なのかもしれないけれど。
夕希は炭酸に面食らっていたようだったけれど、暫くすると慣れ始めたようでゆっくりと飲み進めていく。美味しいと言うことはなかったけれど、徐々に飲むペースが速くなっていくところを見るにお気に召してはくれたらしい。
かつての夕希は何が好きだっただろうかと思い出そうとする。炭酸飲料が好きだったことは覚えているけれど、コカ・コーラだったかは定かではない。では何かと考えたところで、特別に何かを飲み続けるようなことはしていなかったな、と思い出す。僕は夏の日、疲れる度にコカ・コーラを飲むことを習慣のようにしていたけれど、彼女はその日の気分によって、その場所にあるものによって、飲むものを変えていた。飲み物だけではない。あれほど一緒に居たはずなのに、好みと言えるようなものを僕は把握していなかったのかもしれないと思う。
夕希は極端な人だった。拘りのあるものに対しては、どうしてそこまでするのかと言いたくなるほど凝っていたのに、とんと興味のないものにはまるで執着をしようとしなかった。飲み物に関しても、単にその時の気分によって変えていたというよりはさしたる関心がなかったのだろう。
だからこそ、嵯峨夕希という人間が僕は分かることが出来ていなかった。勿論、他人である以上完全に理解をすることなど出来るはずがない。それでも、あれだけの時間を共有したのだから、何かが分かると思っていた。分かったのだと、思い込んでいた。しかし、思い返してみるとそこにあったのは思っていたよりも断片的で空虚なものなのだと知る。僕が知っていたものだけを嵯峨夕希の全てだと言うには、あまりにも傲慢なのだということを痛感するほどに。
それに関して、何かが出来たのだと後悔をするつもりはない。あの頃の僕は、他者の見ている世界を想像するには、想像しようとするには幼過ぎた。今でもまだ幼いと言えるのかもしれない。ただ、理解をすることが出来ないのだとしても、今は理解をしようと動くことが出来る。足掻くことが出来る。無駄とも言える行為に、祈りに意味があることを僕は知っていた。夕希の視界を、生き方を、懊悩を、苦痛を、僕は理解をしたい。夕希のために、そして僕のために。
コカ・コーラの炭酸が喉を刺す。彼女もまた、同じような感覚を覚えているのだろうか。同じものを飲んでいても、きっと思うことは違う。出力される表現は異なる。その違いがあるからこそ、他人と関わることは素晴らしいのかもしれないけれど、僕は彼女と同じ世界を見ていたかった。同じ感想を抱くことが出来れば良いと、願った。
夏の中で時間はゆっくりと溶解していく。何も生み出さないけれど、何かが損なわれることのない人生の浪費。分かりやすい幸福の形は夢であるからこそ憧れるのであって、何気ない日々の連続こそが、誰しもが本当に求めるものなのだろう。
飲み終えた缶を自動販売機の隣に備え付けられていたゴミ箱に捨てた。中には既に缶が捨てられていたようで、からからという音が響いた。風鈴にしては騒がしい、けれどどこか涼しくなる音だった。
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