甦り
3
真夜中、僕は家を出る。シャツとズボン、パーカーという昨日と変わらない服装。同じような服装を着続けていると、同じ時間が繰り返されているように感じる。何も変われないままで、昨日と同じ僕がまた、今日も続いている気がする。
閑散とした街を抜けて、海へと歩く。不思議と、緊張はしていなかった。どうせ嘘だろうと思っているわけではない。今から向かう場所には夕希が居るのだという、確信めいたものを抱きながらも特別な感情は何も生まれていない。
一歩足を進めるごとに、夜が肌に馴染んでいくことを自覚する。夜を歩く度に、このまま夜に還ってしまえればいいと思っていた。意志も、生も、しがらみも暗闇の中に溶けていく。緩やかな無痛の消失は、僕の望んでいた終わり方のひとつだった。
けれど、今はそうではない。夜に呑み込まれてように、自らと世界の間に確かな境界線を引いて歩いて行く。迷うはずのない、何度も歩き慣れた道を綱渡りでもするかのように慎重に進んで行く。
夕希に出会って、最初に何と言うべきなのかと考える。小粋な言葉を選ぼうとすると気障ったらしくなり、ありふれた言葉を並べようとすると陳腐で味気ないものにしかなれない気がする。正解なんてないということは分かっているけれど、正解でもあってくれないものかと思う。しかしコミュニケーションに正解が存在すれば単調で情緒のない応酬ばかりになる。自由とはかくも素晴らしいものであるけれど、その代わり実力と目的のない者からすると苦しいだけだ。
気が付くと、海に来ていた。告げるべき言葉は見つからないままで、潮騒が耳朶を打つ。潮風が肌を撫でる。
魔女は、どこからか僕のことを見ているのだろうか。彼女は自らを舞台の観客と喩えた。僕たちが演者であり、それを観るだけの立場。その言葉をそのまま真に受けるのであれば、彼女はどこからか僕のことを見ているのかもしれない。
かつての戯曲家や喜劇俳優は人生を舞台に喩えた言葉を残している。人生が舞台に似ていることは否まないが、それは舞台が人生を模したものだからだろう。人生に脚本はないし、何より見世物ではない。魔女に見られるということがこの賭けの前提条件のひとつであろうことは理解していても、嫌なことは嫌だった。日常生活の、それも自らの初恋を他人に見られるなんて、心地の良いものなはずがない。
真っ暗な砂浜を、転ばないよう足下を見ながら歩いて行く。歩きやすいよう、波打ち際を歩いていると、押し寄せた波に気付かずに靴が波で濡れた。重たく、気持ちの悪い感覚を引き摺りながら、それでも僕は進む。前進は、簡単なことではない。特に僕のような人間にとって。ただ、その場所に立っているだけでも精一杯なのだ。けれど、目指す場所があるから進むことが出来る。
巡礼のような歩みを続けていると、時間の感覚が溶けるように失われていった。永遠の中を揺蕩っているような、一瞬の中を横切ったような暗闇をひたすらに歩き続ける。ただ歩いているだけなのに、精神が擦り減っていくことが分かる。
希望をその手にすれば、その先にあるのはそれを失ってしまうのではないかという恐怖だった。僕は既に一度、その経験をしている。失うことの恐ろしさを、日常の尊さを痛いほど知っている。魔女との賭けに負けることもそうだけれども、勝ったとしてその後、もしも再び夕希が事故にでも遭えば。病に侵されれば。通り魔に刺されれば。そんなことを気にし続ければ、日常を過ごすことなど出来ないのだろう。それでも、考えてしまう。恐れてしまう。
それでも足を止めてはならない。全てを背負うと決めたのだから。何があったとしても前へ、前へ――
そろそろ着くだろうかと、僕は面を上げる。吹雪を遮るよう足下だけを見て歩き続けて来た旅人が、行先を確認するため不意に顔を上げるように。
真っ白な月光が視界に溢れる。それと同時に、闇を切り裂くような白い影が見えた。真っ黒な服を着た魔女とは対照的に、夏の海辺らしい白いワンピースを着た少女が、目の前には立っていた。
「夕希――」
衝動的に進んだ心に身体は上手くついて来ずに、危うく蹌踉けて転びそうになる。しかし浮いた足で確かに地面を踏みしめ、一歩、また一歩と進んで行く。それが幻想ではなく、夢ではなく、現実として存在するものだと確かめるために。
ずっと、ぼやけていた。あれほど大切だと思っていたはずなのに、後悔は抱え続けていたはずなのに、思い出せなかった顔が月に照らされ僕の目の前に現れる。色褪せた思い出は鮮やかな現実へと変じ、美しく脳に刻まれる。
魔女が帳尻を合わせたのか、それとも死後の世界でもまた時は進み続けるのか、夕希の顔はぼやけた思い出の中のそれよりも少しだけ成長しているように見えた。最後に見た顔とは、違う。けれど、そこに立つ少女は紛れもなく夕希だった。
心臓が、おかしくなりそうなほど跳ねている。改めて、自覚する。僕は、彼女のことが好きなのだ。過去形ではなく、今も尚、どうしようもなく恋焦がれているのだ。
恋とは何かと、様々な文学者が、哲学者が文字を用いて書いている。けれど、恋をしたことがある者なら分かるはずだ。それを言葉で表すことは出来ない。顔を見た時、さりげない仕草を見た時、声を聴きたいと思った時、嬉しいことを、哀しいことを伝えたいと思った時、暴力的なまでに自覚をするもの。それが、恋なのだ。したくてするものではなくて、するよりほかになくてしてしまうもの。それこそが、恋なのだ。
考えていた言葉は全てばらばらに解けていく。未来への憂鬱や不安は立ち消えていく。僕の中にあるものは、温かな感情だけだった。恋慕と喜びと安堵と郷愁と、さまざまな感情をないまぜにした、夜の博物館のように冷たくなっていた僕の心を温かくしてくれる、柔らかい感情。
手を伸ばせば触れることの出来る距離まで近付く。夕希はじっと、僕のことを見ていた。暗いせいか、彼女が何を考えているのかを読み解くことは出来ない。甦ったばかりの彼女は、何を思っているのだろうか。不安か、喜びか、それとも僕には想像することも出来ないような、言葉にすら出来ないような何かか。
夕希が僕の腕に手を伸ばし、触れる。布越しに触れた手は、それでもゾッとするほど冷たいことが分かった。肌の白さも相まって、まるで屍体のようだと思う。本当に死んでいたのだ、冗談にならない、最悪の感想だけれども。
彼女は何度も何かを言おうとして、その度に口を噤む。僕は、ただ静かに彼女の言葉を待つ。急かす必要はない、時間は腐るほど残っているのだから。無理やり何かを聞き出すのではなく、ただ彼女が言おうと思った言葉を聞きたかった。
縋るように掴まれた手に入る力が増した。僕は、空いている方の手で彼女の手を包んだ。硝子細工を壊さないように、大切に持つように、今にも崩れてしまいそうなほど脆く見える彼女の手を、身体を、存在を、それでも零れ落とさないように握る。
「分からないんだ」と、彼女は何かが決壊したように小さく呟いた。
「私が誰なのかも、あなたの名前も、ここはどこなのかも、何もかも、全部」
その言葉に戸惑わなかったかと問われれば嘘になる。昔のままの、何一つ変わらない日常が遅れると願っていた。それが、最も良い、理想的な形だった。
ただ、自分でも驚くほどに動揺をしなかったのは、何かがあることを想定してはいたからだった。魔女の様子から見て、今まで通りの僕たちのままであの賭けをするとは思っていなかったのだ。勿論、それが夕希の記憶を損なうという形とは思っていなかったけれど、覚悟をすることが出来ただけあって衝撃は少なかった。不安げな彼女の前で僕自身も動揺をするような醜態を晒すことはせずに済んだ。
「ごめん、あなたが大切な人だったことは覚えてる。それだけは、知ってる。でも、何も思い出せないの。どこに行ったのかも、どうやって出会ったのかも、名前も、何もかも」
僕に関する情報は、忘れられている。けれど、僕の存在は彼女の中に残っている。それは、魔女の能力の限界だったのか、それとも魔女なりの慈悲なのか。
名前は分からずとも、思い出を忘れられていても、僕のことを覚えていてくれていることが、嬉しかった。何が起ころうと彼女のために尽くすという決意に揺らぎはなかったけれど、忘れられるということはあまりにも寂しいから。
「廉。僕の名前は、深見廉だ」
「ふかみ、れん」
名前を伝えても、失われたものを思い出すような様子はない。手がかりさえ掴むことが出来れば欠落した記憶が甦る、というフィクションのような展開にはならないようだ。夕希の声が僕の名前を呼ぶことの喜びと、聞き慣れない異国語の単語を復唱するようなたどたどしさで呼ばれる哀しみが同時に湧いた。僕は今、どんな表情をしているだろうか。なんてことがないような、いつも通りの態度を貫くことが出来ているだろうか。
「深見廉、さん。私は、どうすればいいと思う? どこに行けば、いいのかな」
彼女は今の状況を何も理解出来ていない。この街のことも、かつて居た知り合いや家族についても、恐らくは自分が死んだということすらも。
死んでいたのだということを、伝えるべきなのだろうかと考える。どうしてここに居るのか、という疑問はきっとどうやっても拭うことは出来なくて、整然と説明をするためにはその真実を伝えるより他にない。けれど、自分が死んでいたという情報は、精神にとって毒であることに違いはない。
少なくとも今はするべきではない。代わりとなる嘘を思いついた時、話をすればいい。死という目を逸らしがたい事実の輪郭だけをなぞるように話すべきことを組み立てていく。
まず考えるべきは彼女が言っていたようにどこへ行くのかだろう。嵯峨夕希が甦ったのだということを考えれば、嵯峨家へと帰すのが当然の帰結のように思えるけれど、どれほど甦りを希望していても、唐突な死者の来訪を受け入れる場所は、どこにもない。僕は魔女と話し、経緯を知っているから受け入れることが出来るけれど、よく似た別人だとでも思うのが普通だ。今、夕希の記憶が欠落していることからも、そういう風に思われることが目に見えている。
それに、僕は今の嵯峨家がどのような状況になっているのかを、知らなかった。極端な言い方をしてしまえば、まだこの街に居るのかすらも。状況も事情も知らず突然プライベートな関係へと割り込むのは、違うだろう。それに、夕希の両親に彼女を受け入れる姿勢が整っているのかも分からない。
人は誰でも、大切な人が死んだ場合、その人が甦ることを望む。喪失がなかったことになってくれと、希う。しかし、大抵の場合、失われることによって生まれた虚は自然に修復されてゆく。傷は覆われて、見えなくなっていく。
死んだ人間が甦るということは、その傷が再び開かれるということだ。それは、必ずしも良いこととは言えないのだろう。喜びがあることは言うまでもないが、それよりも先に来るのは戸惑いであり、そこには確かな痛みを伴う。世界はきっと、甦った夕希のことを未だ受け入れていない。誰でも、甦った者を受け入れることは簡単なことではない。
嵯峨家にとっても、そして家族の記憶すらもない彼女にとっても、彼女が嵯峨家へと帰ることは望ましいことではない。少なくとも、今の段階においては。ならば、彼女が帰るべき場所とはどこなのだろうか。
「……僕の家でも良ければ、来るか?」
正直に言えば思春期らしい面映ゆさはあったけれど、それしか選択肢はないように思えた。同じ幼馴染であれば異性の僕よりも同性の憂花の方が適しているようにも思えるけれど、彼女は夕希の甦りに順応しない側の人間だろうし、何より彼女の家には家族が居る。死んだ人間が甦ったという騒ぎを不必要に大きくすることは、本望ではない。
幸いなことに、僕の家には殆どの時間僕しか居なかった。時折母は帰って来るけれど、滞在時間はそれほど長いわけではない。鉢合わせた際は隠れて貰えばそれで十分だろう。僕にとっては良いことだけれども、あの人は自分の子供というものに関心がない。あるいは、そういう人の子供だからこそそうした無頓着に対してむしろその方が良いと感じているのかもしれない。
「良いの?」と夕希は申し訳なさそうに尋ねる。
「別に構わないさ。大した場所じゃあないけど、それで良ければ」
恋している女性を呼ぶには手狭で古びたアパートだけれども、困った知人を匿うには十分な場所だろう。元より、彼女が甦った責任は魔女と約束をした僕にあるのだ。僕の部屋へと招くのは当然のことなのだろう。
「うん」と夕希は頷いた。これからどうするべきかは分からないけれど、取り敢えずは行く場所が決まっただけでも十分だろう。落ち着けるような場所や時間がない限りには何も始まらない。
歩き始めようとしたところで、夕希の足が裸足であることに気が付いた。どうやら、魔女も靴までは用意してくれなかったらしい。そこまで求めるのは、高望みと言えるのかもしれない。
「これ履いて、使って」と言って、僕は靴を脱ぎ彼女の方に差し出す。
「あなたは、大丈夫なの?」
「靴下があるからそれで十分だよ。砂浜はまだしも、アスファルトの上を裸足で歩くのは辛すぎる」
アスファルトは想像以上に凹凸が激しいし、小石などもそこらに落ちている。ある程度、短い距離ならまだしも普段靴で歩いているような人間が長い距離を歩くことの出来るような場所ではない。靴があるに越したことはないけれど、僕の家まで歩く程度であれば靴下でも十分だ。それよりも、彼女を裸足のまま歩かせるということの方が選択肢になかった。
彼女は悩んだような素振りを見せた後で、既に脱がれたものを断ることは出来ないと思ったのか靴を履いた。足のサイズよりも大きく、歩きづらいだろうけれど、ないよりはずっといいだろう。
「じゃあ行こう」と僕は急かすように言った。それはきっと、夕希が海辺に居るという状況に対して忌避感を覚えたからなのだろう。例え水面には波ひとつなくとも、溺れかけた子供の影が見えずとも、突然水が彼女を攫い、暗闇の底へと引き摺り込んでしまうのではないかという恐怖が思考を満たす。
夕希の手を引き、一刻でも早くと波打ち際から離れていく。僕のその焦燥とは裏腹に、手から伝わって来る夕希の足取りは海を忌避し、逃れようとするようなものではなかった。彼女には、海で死んだ記憶がないのだと、改めて思う。彼女が死んだ発端が海に行こうという何気ない提案だったように、彼女は海が好きだった。少なくとも、死ぬ前までは。死ぬ前の夕希であれば、もう少し遊んで行こうとでも言ったのかもしれない。
しかし、記憶のない彼女にはそこまでの遠慮はないし、僕もそれに構うような余裕がなかった。例え直截そう言われたとしても、僕は半ば無理やり彼女を海から離したことだろう。もう彼女には、死んで欲しくない。
石階段を上がり、国道に沿って住宅街の方へと歩いて行く。彼女の足取りはおぼつかないままで、視線も目新しいものを見まわす子供のように落ち着きがない。生まれてからずっと住み慣れていたはずのこの街も、今の彼女にとっては未知の空間なのだろうか。彼女から記憶が失われているということは理解しているけれど、彼女の中の欠落を実感する度に生まれる寂しさはどうしようもなかった。
「夕希は――、ああ、そうか。君は、自分の名前すらも思い出せていないのか」
尋ねるように独り言ちると、彼女は小さく頷いた。自分の名前すらも思い出せないのに僕のことだけをぼんやりと覚えているのは、最低限つつがなくゲームが進むようにするための魔女の配慮だろうか。僕にとっては都合がいい、つまるところ魔女にとっては都合の悪い状況はどうして作られているのか、分からない。
魔女もまた、プレイヤーの一人なのかもしれない、と考える。これがゲームなのであれば、ディーラーとプレイヤーを兼任するのは明らかにルールから外れている。一見僕に有利に見える状況も、魔女にとってはどうしようもなくそうと指定されたルールなのではないだろうか。
少し思考した後で、その意味がどこにあるんだ、と僕は自嘲する。僕は夕希を甦らせたい。けれど、もしも魔女が全く関係のない場所から連れて来られたプレイヤーなのであれば、彼女がこの賭けに乗る意義はどこにもない。そもそも、ゲームというのは魔女が言ったレトリックに過ぎない。真面目の文字通りの意味を考えるだけ無駄だろう。これは初めからゲームではない。僕に降りかかる、一方的な災厄、あるいは試練だ。
今、僕は既に甦った夕希と接触し、進みゆく事態の最中に居る。そのうえで、前提となるシステムを、魔女との約束を疑うべきなのだろうか。夕希との関係は、今のところ問題はない。むしろ、彼女がぼんやりとでも僕のことを覚えていて、信頼を寄せている時点で賭けに勝つことは殆ど確定していると言えるはずだ。どうして、今から僕が彼女のことを拒絶する未来があるのだろうか。
そこまで考えたところで、隣に居る彼女のことを蔑ろにしてしまっていたことに気が付く。あれほど大切にしようと、もう取り零さないようにと思っていたのに、考えてばかりで蔑ろにしていては意味がない。僕よりも、彼女の方が不安なのだろうから。
「君の名前は嵯峨夕希だ。僕との関係は、幼馴染っていうところかな」
「さがゆき」
「そう、嵯峨夕希」
彼女は自分の名前すらもやはりたどたどしく呟く。
今の彼女には、何が残されているのだろうかと思う。僕以外に、何が残っているのだろうか。彼女が縋ることの出来るものは、彼女を支えることの出来るものは、何なのだろうか。
孤独は悪いことではない。独りで居るということに対して後ろ指を指されることは多いけれど、それが本人の意志によるものであれば、それで良いのだろうと思う。案外、孤独の居心地は後ろ指を指している人間が思っているほど悪いものではないのだから。
ただ、望まない孤独は最悪だ。どうすることも出来ず、自然とそうなってしまった、そうなるしかない孤独ほど心を蝕むものはない。今の夕希の状況は、まさしくそれだった。頼れるような人間は一人しか居らず、自分すらも信じられない。痛みは共有することが出来ない。彼女の今の痛みを、これから起こるであろう苦しみを、僕は想像することしか出来ないけれど、だからこそその幻肢痛は耐え難いもののように感じた。
僕は、彼女のために何が出来るだろうか。その覚悟はあったけれど、改めて甦らせた責任を取らなければいけないのだと強く思う。
「それから、僕のことは呼び捨てで良い。昔は、そうだったんだから」
廉さん、という今まで呼ばれたことのなかった呼び方はざらついた感触を僕の胸の中に残していた。見覚えのない他人に対して心を開くことは難しいかもしれないけれど、せめて形式だけでも昔の通りになれれば良い。そう思う。
「分かった、廉」
夕希はどうしてか、僕の名前を呼んで嬉しそうに笑った。名前を呼ぶ、ただそれだけのことなのに改めてそこに特別な意味が付随されたような気がして面映ゆい気持ちになる。同じ音には変わりがないはずなのに、他の人に呼ばれる名前と好きな人に呼ばれる名前では響き方が変わるように錯覚する。
「他に何か、聞きたいことはあるか?」と僕は喜びを誤魔化すように尋ねた。夕希は少し思い悩んだような表情をした後で、「今はない、かな」と言った。答えを聞いた後で、当たり前のことかと後悔をする。そもそも、あらゆる記憶が欠落している以上何を聞くべきかすらも分からないだろう。置いていかれた数学のテキストが、どこから手をつけるべきか分からず白紙のままであるように。
説明をすることが出来ればいいのにと思った。今までの彼女の人生について、僕が知り得る限りのことを伝えたかった。そうすれば、彼女の不安を少しでも拭うことが出来るのだろうから。
しかし、説明をしようとすると最後は彼女の死に帰着する。過去から遡り、今まで繋がる説明をしようとした時、どうして不意にここに居るのか、自分の記憶はどうしてないのか、家族の下に帰るわけにはいかない理由は何故かと、避けることの出来ないものが多すぎる。上手く説明をしようと思えば、結末を避けたままで語ることも出来るのかもしれないけれど、生憎僕にそうした器用さはなかった。
ふと、憂花のことが頭を過った。彼女には、どういった形で夕希のことを伝えるべきだろうか。夕希は憂花のことを覚えていない。そして憂花は、突然現れた夕希のことを拒絶するかもしれない。初めは、僕が居るよりも彼女たち二人で話をさせた方が良いだろうと思っていた。けれど、夕希に記憶がないのであれば僕が間に入らざるを得ない。それを、憂花は許してくれるだろうか。
「なんて言われるかな」と呟く。仮に夕希が甦ったことを都合よく信じてくれたとしても、いつまでも夕希への執着により絶縁をされたのだ、まだ変わっていなかったのかと怒られるかもしれない。
憂花とは、どんな表情で話していただろうか。記憶が茫洋としている。夕希に対して激しい恋情を抱いていたのとは対照的に、憂花と共に居る時間は心地よく気兼ねのない日常だった。何を思っていたのか、どのような時間だったのか、記憶の輪郭はぼやけたままで、本当にそれが本物なのだろうかと自らを疑う。人の記憶の脆弱さが嫌になる。
「何か言った?」と夕希は僕の顔を覗き込む。「いや、何でもない」と僕は否定する。
近いうちに、憂花のことを話すべきだろう。嵯峨夕希という人間にとって、海代憂花という少女は必要不可欠な存在であり、支えになってくれる。僕自身の、二人が再び話し合うことが出来ればという願望が全く含まれていないかと問われれば嘘になるけれど。
ただ、今はまだ良い。甦ったばかりで不安定な彼女に必要以上の情報を詰め込む必要はない。まず必要なのは、休息だ。死という真っ黒い暗闇の中での安息ではなく、温かなベッドの中での休息。何か、食べるようなものは冷蔵庫に入っていただろうかと考える。食事に頓着をしていないせいで、酷い時は何も入っていないのだ。コンビニへ寄ろうにも、ポケットの中には小銭すら入っていない。
思い出せば、部屋の掃除すらままならなかった。少し考えれば、彼女を部屋へと上げることは想定がついていただろうに、自分の至らなさが嫌になる。どうせ、他には何もしていないのだ。せめて好きな人が来る時くらいは何かをするべきだろうに。
夕希が隣に居ると、様々な思い出が自然と思考を過っていく。僕と夕希、そして憂花の三人で当てもなく、どこまでも行けるという無邪気な確信を抱えながら過ごした日々を。
果てまで行こうと海岸沿いを歩き続け、夕陽が落ちる頃になっても果てに着かず心細くなった時に見た、空は晴れているのに「雷注意」と書かれた電光掲示板。ひと気を避けるように歩き続け、点滅をしている自動販売機で買った缶の炭酸飲料と電線の隙間から見えた花火。電車に乗ってわざわざ見に行った向日葵畑の、枯れかけた向日葵。
想起されていく思い出に夏が多いのは、今が夏だからだろうか。いや、違う。夕希が、夏が好きだったからだ。彼女はいつも夏を楽しんでいた。僕のような人間とは違い、人生というものを常に明るく捉えている人ではあったけれど、その中でも特に夏を好んでいた。どうして彼女は夏が好きだったのだろうか。今となってはもう分からない。隣に居る彼女に聞いても、それは以前の夕希の答えとは違うものになっているのだろう。
結局何も話すことが出来ないままで、いつの間にかいつもの風化しつつあるアパートの前へと辿り着いていた。僕は夕希との間にある沈黙が苦しいものではなくて、むしろ心地よさすら感じるものだと思っているけれど、果たして今の夕希にとって僕との間にある沈黙は苦痛ではなかっただろうかと考える。エゴイスティックに閉じられた思索と無言の信頼に寄り掛かったままでいた自分を嫌悪する。ならば、何を話せば良かったのかは、考えても思いつかないままだけれども。
こうすれば良いということは分かっているのにそれをするだけの能力が足りていないという現実は、直面する度に自分を笑いたくなる。泣きながら、笑いたくなる。
夜も深まっている以上、静かに上がろうとしても古びた階段は否応なしに軋む。まるで上られることに対して嘆息でもするような、諦観の混じった声は聴いているといつも陰鬱な気分になる。
二人が上る分の嘆息を聞き終えた後で僕は部屋へと向かう。鍵のかかっていないドアは無抵抗に開き、鬱屈とした閉塞的な空気が僕を出迎える。夕希が甦って、夕希を連れてきて、それでもこの場所の空気は相変わらずだ。「上がって」と言い、汚れた靴下を脱いだ。夕希は靴を脱ぎ、部屋へと上がる。言うまでもなく、母の靴はない。
リビングの明かりを点けると虚しい部屋の輪郭が世界に現れていく。投棄されたような部屋の中には、気味が悪いくらいに物が少ない。もう何年も前のまま、時が止まっている。生活が乱れている人間の部屋には二種類あり、酷く汚れている場合と、酷く生活の臭いがしない場合で、このリビングは後者だった。母は殆ど寄り付かず、僕も最低限の生活しか送っていないせいでこの場所は汚れているわけでもないのに死んだような空気を纏っていた。
いつから、僕はこの部屋を忌避するようになったのだろうかと考える。外に出ようとしない日でも、僕はこの部屋に毒蟲でも住んでいるかのように寄り付かないようにしていた。その理由は思いつかないままで、僕は夕希をテーブルへと促し、自分は何か飲むものか食べるものでもとキッチンへ向かう。
飲み物はない。昔はパックの麦茶を水道水に浸し飲んでいたけれど、もう暫くは飽きて、そしてパックを浸すことすらも億劫で水道水をそのままコップに注いで飲んでいた。幾つか、干からびたパックはどこかに眠っているんだろうけれど、今更作ろうとしたところで遅いだろう。諦めて、二つのコップにそれぞれ水道水を満たす。
冷蔵庫の中には、案の定何もなかった。明日、何か買いにいかなければならないな、と思いながら扉を閉める。結局出すものは水道水だけ。来客をもてなすには最低の家だ。そもそも、最低が過ぎて来客が訪れることなど想定をしていなかったのだから仕方ないのかもしれないけれど。
「水道水で良ければ」と僕は言い訳をするように言いながら夕希の前にコップを置き、僕自身は彼女と向かい合うようにして椅子に座った。
明かりの下で向かい合った彼女の顔は、やはり嵯峨夕希のものだった。成長をしているのか、少しだけ変わっているけれど、間違いなく嵯峨夕希だと確信を持って言うことが出来る、僕の恋していた、恋している女性の顔。
無遠慮な時間顔を見つめていることを自覚して、逃げるようにコップを手に取り水を飲む。今までだって、夕希の顔をこれほど長く見ていたことはなかったはずだ。それなのに、記憶のない、僕がどのような人間かもしれない人の顔を見つめ続けていた自分を恥じる。
「取り敢えず今日は、時間も遅いし休もう。時間はあるんだ、何をするにしても急く必要はないだろう?」
僕がそう言うと、夕希は頷き、水を飲む。彼女の喉が小さく動き、液体を嚥下していることが分かる。生きていることが、分かる。
「君は――」
君は、どう思っているのか。今の自分について、微かに記憶に残っていた僕という存在について。
そうした質問を沈黙の中で飲み込む。詰問がしたいわけじゃない。そうした答えはきっと、時間を共有するうちに自然と分かっていくことだろう。
「あのさ、廉」
「……え?」
夕希の方から質問をされることを想定していなかったせいで一枡分の空白の後に間の抜けたような声を発する。
「何かおかしなこと言った?」
「いや、何でもない。何でもないよ、続けてくれ」
夕希が遠慮がちな目をしていて、失敗したと思う。例え喜びから生まれたものであっても動揺は見せるべきではなかった。
彼女はコップの方へと目を伏せてから、気を紛らわせるようにコップを両の手で包み、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、どうして私にここまでしてくれるの? あなたは、私のことをどう思っているの?」
好きだった。嵯峨夕希のことを紛れもなく、どうしようもなく、愛していた。
けれど、それを口にするべきなのかと思い悩む。
今の彼女に対して余計な感情を伝えたくなかった。右も左も分からない中で、唯一頼れる人間として僕は寄り掛かられている。その中で、僕が好意を伝えるのはフェアじゃない。もしも彼女にとって僕の好意が好ましくないものであれば、彼女はきっとこの部屋に泊まることすら嫌になるだろうし、そうでなくとも無理にその感情に応えようとするかもしれない。
僕は確かに夕希に好きだと言われたい。愛して欲しい。けれど、求めるものは不自然に歪んだ感情ではない。それくらいなら、嫌いと言われる方がマシだ。
それに、最低にエゴイスティックなことに、僕としてはこちらの理由の方が大切なのかもしれないけれど、好きだという言葉は自分で選んだタイミングで言いたかった。流されて仕方なくではなく、本当に彼女のことを好きなんだと世界に対して示すように、何かに縛られることなく言いたかった。
都合のいいタイミングを求めることは、愚かなのかもしれない。その末に、僕は一度、彼女に好きだということが言えないままで全てが終わってしまった。自らの感情から逃げ続けた先で嵯峨夕希は死んでしまった。この世界は舞台ではないし、僕は主人公ではない。万全のタイミングで物事が起こってくれるなんていう奇跡は、有り得ない。今、このタイミングでも言うべきじゃないだろうかという揺らぎが生まれる。
しかし、言うべきではないタイミングで発する言葉が悲劇を呼ぶこともまた事実だった。最善のタイミングは訪れないのかもしれない。次善と呼べるようなタイミングすらも。ただ、悪いタイミングだけは避けたかった。そして、今は悪いタイミングだ。最悪ではないかもしれないけれど、言うべき時ではない。
僕はもう逃げない。自分の感情を誤魔化し、目を逸らすようなことはしない。だから、今だけは感情を隠すことにする。告げないことにする。
「どうしてって、幼馴染だからだよ。夕希は僕にとって――大切な、かけがえのない友人なんだから」
嘘を言ったわけではない。僕の感情に関わらず、告白すらしていない以上僕たちの関係は友人と定義づけられるものだった。ただ、韜晦めいた言葉を選んだだけだ。
「そっか」と夕希は言った。その言葉に寂寞の色を感じたのは、気のせいだっただろうか。
「じゃあ私、このソファーで休ませてもらうね」
そう言って夕希は立ち上がり、近くにあったソファーへと座ろうとする。
「いや、ちょっと待ってくれ」
「ん? どうかしたの? あ、ここ使っちゃ駄目なところ?」
「そういうわけじゃないんだけど、でも客人をソファーに寝かせるっていうのもおかしいだろ」
床よりはマシなことは確かだけれども、ソファーは人が眠るように設計されていない。それに、この部屋にあるようなソファーなのだ。とっくにくたびれていて、眠るにはあまりにも適していない。
「僕の――」ベッドに。
そう言おうとして言葉に詰まった。僕のベッドに夕希を寝かせるのか。僕の自堕落が染み付いたようなあの場所に。
母のベッドはどうかという思考が頭を過る。もう随分と、あの人はこの場所で夜を過ごしていないが、ベッドは存在している。あそこに眠ればそれで十分ではないだろうか。しかし、あの人の場所を個人的な目的の下に使うことは言語化することの出来ない忌避感があった。僕とあの人は、血縁上も戸籍上も繋がっているけれど、決定的に断絶している。儀式的な出来事があったというわけではなく、自然と立ち消えていくように、静かに、けれど確かに。今の僕にとってあの人の部屋はないものと同じだった。それを今更都合よく使う気にはなれなかった。
ならば、僕のベッドに寝かせるより他に方法はないように思えるけれど、あんな場所に寝かせて良いものかという妙なプライドが阻む。ただ、ソファーに寝かせるよりはマシだろう。
「僕のベッドで良ければだけど、使うか?」
「私は有り難いけど、廉はどこで眠るつもりなの?」
「僕はそこのソファーで眠るさ。それで良い」
「良くないよ。私だけベッドで眠るのって、不自然じゃないかな。あなたの部屋なのに」
「別に、不自然じゃないだろ」
「いや、おかしいって」
妙なところで意固地になるのは昔ながらの夕希らしいと、温かい気持ちが湧く。ただ、今はそうした感情に流されるわけにはいかない。
「取り敢えず、今日はベッドで眠ってくれないか。僕がソファーで眠ることについては近いうちに、何か案を考えておくから」
果たして僕の脳で名案が思い付くのかは疑問だったけれど、そうでも言わないと夕希が納得をしなさそうでその場凌ぎの言葉を吐く。僕の人生は、いつだって決まってこんなことばかりだ。その場凌ぎの言葉ばかり吐いて、自らの後始末に追われる。そうして緩やかに沈んでいく。
「まあ、分かった。じゃあ、私は廉の部屋で寝かせて貰うね」
そう言って夕希はソファーではなく僕の方へと身体を向ける。何を求めているのだろうかと、僕は彼女の次の行動を窺う。
「あの、部屋に案内して貰ってもいいです、かね」
「ああ、ごめん」
何度か、夕希や憂花をこの部屋に招いたことがあった。今ほどではないけれど、あの頃から母がこの場所に居ることは殆どなくて、この場所は僕たちの小さな秘密基地のようだった。古びた壁や世界から隔絶されたような雰囲気も、居住地としてではなく秘密基地として捉えれば悪くなかった。
あの頃から、僕たちが集まるのはいつも僕の部屋だった。母の部屋に這入るわけにはいかず、リビングに居つくこともどこか憚られた僕たちは、僕の部屋へと向かい、無意味で有意義な時間を浪費し続けた。だからこそ、夕希が僕の部屋を知っているのは当然だと思い込んでいた。今の彼女にその記憶はないはずなのに。
「こっちだよ」と言って先導するかたちで僕は僕の部屋へと彼女を案内する。お世辞にも、綺麗とは言えない部屋。しかし、汚いとも言えない部屋。状態としてはリビングと似ている。ただ、本が散らかっている分こちらの方が汚いと言っていいのかもしれない。
ぐちゃぐちゃにされたままのブランケットをせめて整えて、「こんなところで良ければ」と言う。彼女は特に躊躇うような様子もないままでベッドに腰かけて、僕を見て笑った。
「私には上等過ぎるくらいだよ、ベッドで眠るなんてさ」
「それならいいんだけどさ」
本当にこんなベッドで良いんだろうかと思いながら、それ以上ベッドの前で彼女のことを見つめ続けるのも不自然で僕は「それじゃあ」と言って夕希に背を向けドアへと向かう。
「おやすみ、廉」
「ああ、おやすみ」
その言葉を最後に、僕はドアを閉めた。そう言えば、夕希におやすみと言われたのは初めてかもしれない。彼女と同じ屋根の下で夜を過ごすということは今までなかったし、それ以外の場所でも、彼女は「おやすみ」という挨拶を使わなかった。その言葉を嫌っていたわけではない。「またね」という言葉を好んでいたのだ。別れの挨拶は、いつもそれだった。
「また」といつだって再会を望んでいた彼女が別れの挨拶すらもないままで暗い水底へと沈んで行ったという現実は、最低に不条理なことのように思えるけれど、世界とはそういうものなのだろう。夕希が今生きているという現実のお陰で、少しだけ、昔よりあの残酷な過去を受け入れることが出来るようになった気がした。
リビングへと向かい、電気を消してテーブルに残っていた水を飲み干す。暗い部屋の中で、けれど目はやけに冴えていて煙草でも吸おうかと探す。しかし、煙草は部屋にあるだけで、リビングには置かれていない。今更夕希が眠っている部屋まで行って取るのもみっともなくて、僕は諦めて明瞭な意識を携えたままソファーへと身体を委ねて目を瞑る。
いつも、眠ることが怖かった。ベッドにつく度に、夢の中で沈んでいく夕希のことを見るかもしれないと、また何も出来ないまま彼女の死と向き合うことになるのだろうかと不安になった。あれはただの夢ではなく、彼女の亡霊が僕のことを呼んでいるのではないかと、恐ろしかった。
あの夢の正体が本当の亡霊なのか、僕が作り出した幻影に過ぎないのかは分からない。ただ、いずれにしても、嵯峨夕希が甦った今となってはその夢を見る心配もないように思えた。もう、憂うことはない。安心をするべきだということではない。これからも、夕希のために僕は現実と戦う必要がある。それでも、あの夢に囚われ続けることはないのだ。
あれほど恐れていた目の前に広がる暗闇は、不思議と心地の良いものに思えた。僕はそのまま意識を手放し、微睡の中へと溶けていく。夏の夜と一体になるように、明日、また夕希と話すことが出来ればと思いながら眠りに就く。
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