2

 目が覚める。昨夜の記憶は夢なのではないかと思うが、服装は普段眠っている際に身に着けているものではなく、海に行った時のままのものだった。帰って来る頃には疲れて、そのまま泥のように眠ったのだ。幻覚を見ていたわけでもなければ、昨夜の魔女は、約束は、確かな現実らしい。

 緩慢な動きで起き上がり、着替えをする。既に夏休みに入っているお陰で、学校に向かう必要はない。けれど、学校がなくなれば行くべき場所を失う僕にすることはなく、いつも通り時間を持て余すことになる。

 何もすることのない夏の一日というものは、ひたすらに憂鬱だ。窓の外から聞こえる蝉時雨は、子供の声は。刺すように照らす陽射しは、纏わりつく湿気を孕んだ熱気は。怯懦を貪る僕を責め立てるように感じて、嫌になる。部屋の中に居れば蔓延した鬱屈に窒息しそうになるのに、外に出れば日射病のせいか頭痛がし始める。どこにも、行き場がない。

 昔は、よく外へと出かけた。特別な目的があるわけではない。ただ無邪気に、世界に触れるため、僕たちは夏の中を揺蕩った。あの時間を、美化するつもりはない。過去だからこそ美化しようと思えるだけで、実際のところ何も特別な時間というわけではない。

 ただ、今でも僕を支える、大切な時間であることは確かだった。何気ない時間ほど、もう取り戻すことは出来ないものだ。

 既にその時間を再生することは出来ない。共に居た一人は死に、一人は僕から離れて行った。

 夕希が死に、僕は僕の世界に籠り過ぎた。そして、その姿に失望され、僕は一人になった。夕希が甦ったとしても、僕の捻じれた精神性が治ることはないし、失ってしまった信頼を取り戻すことも出来ない。例え夕希が甦ったとしても、三人になることは出来ないのだろう。全ては夕希の死という事象によって徹底的に解体され、もう元の姿になることはない。

 しかし、僕を除けば、あの二人だけであれば、以前のように仲良くなることが出来るかもしれない。僕が夕希に対して個人的な感情を抱いていたように、彼女たちの間でもまた、三人で居る時とは違う信頼関係のようなものがあったように見えた。僕が居らずとも、彼女たちはやっていけるはずだ。

 僕は僕たちの間にあったものを損ねてしまった。壊してしまった。何を犠牲にしてでも夕希を甦らせたいと思うように、僕たちの間にあった友情とでも呼べるようなものを甦らせたいというのも、僕の願いだった。それだけが、僕に償えることだった。

「話をしてみるか」と呟く。一人きりの部屋で声を出したのは、世界に対する宣誓であり、僕が自分のした決意から逃げられないようにするためだった。

 僕は魔女と出合い、話をした。ゆえに、夕希が甦ったとしてもそうなるものだったと受け入れることが出来るだろう。ただ、何も知らない者からすれば夕希の復活は異常な事態に他ならない。二人を会わせるよりも先に、僕の口から説明をした方が良い。

 生温い夏の水で顔を洗ってから、トーストを焼き、何も乗せないままで食む。僕は食事という行為の中に娯楽性を見出すことが出来ない。美味しい、不味いという判断をすることは出来ても、僕の中で食事はあくまでも空腹を満たすためだけの行為に過ぎないのだ。

 僕は、僕の中にある欠陥の多くを夕希の死を起因としたもののように考えることがあり、実際それは事実なのだろうと思う。ただし、この食事に関する価値観は、幼い頃から変わらなかった。小学校低学年の頃、自己紹介をする際、好きな食べ物を言わなければならなかったことがあった。好きと言えるような食べ物は何も浮かばないのに、何を答えるのかという幾つもの視線が僕を覗いていた。結局、他にも何人かの同級生が答えていたカレーと答えて終わらせたのだけれども、本心とは異なったかたちで決定された僕の嗜好は暫くの間ささくれのように、微かな痛みを持って意識の隅に居続けていた。

 食事を終え、気分を紛らわせるために煙草に火を点けた。法律に背いていることを自覚しながら、それでも吸い続けるのは弱さと、世界に対するささやかな反抗心がゆえだった。誰かを損ねることを嫌う僕に出来る最大限の現代社会への報復は、僕自身の身体を損ねることしかなかったのだ。

 ラークの煙がゆっくりと肺を満たしていく。昔見た映画の主人公の影響で選んだ銘柄だけれども、未だに僕はあのキャラクターのようになることが出来ていない。言うまでもない、当たり前のことなはずなのに、そうなることが出来なかった責任は僕にしかないはずなのに、現実と理想の乖離に嫌気が差す。

 これから電話をかけようとしている彼女が見たら、怒るなんてものじゃないだろうと思う。彼女は真面目で善い人間だ。それこそ、幼馴染という偶然によって生まれた関係が生まれていなければそもそも話すことすらなかったのだろうと思うほどに、僕とは違う。

 ゆえに彼女へとかける電話の前に煙草を吸うのは、そういう意味では不純で不誠実なことかもしれないけれど、受話器越しに煙の残り香は伝わらない。今回だけは、許してくれないだろうか思いながら、根本まで煙草を吸い切る。弱さは言い訳にならないから言い訳をするつもりはなくて、ただ縋るように許しを祈ってみる。そうした祈りを無下に出来るのが、彼女だろうけれど。

 煙草を吸い終え、電話をかけようとした後で既にこの家に固定電話がないことに気が付いた。父はもう随分前に家から出て行き、母は殆ど家に帰らない。固定電話がある意味もないということで数年前に、母が捨てたのだ。

 スマートフォンも持っていないので、この家から連絡をすることは出来ない。少しだけ、安堵をした自分に嫌気が差した。やるべきだと既に決めていたはずなのに、少しでもその時が来ることを遅らせようとしている、逃げようとしている自分の弱さに反吐が出る。もう散々、自分の弱さとは向き合っているつもりではあるけれど、いざ突き付けられると参る。

 外にある公衆電話を使おうと財布をポケットに入れ、外に出る。鍵を持っていないことに気が付いたけれど、どうせ盗られて困るようなものもないと思い、結局戸締まりはしないままで外に出る。あるいは、夏の日中の空気に中てられたのかもしれない。人が少なく、けれど遠くから子供の声が聞こえる夏の真昼は、どこか時が止まったような錯覚に陥る。何も起こらず、平和なままで世界は保たれているのではないかと思ってしまう。この時間にもきっと誰かは死んでいるだろうし、夕希もまたそのうちの一人だったはずなのに。

 公衆電話を使っている人を、僕は見たことがないし僕自身も使った記憶はない。にも関わらず撤去をされていないのは、僕が見ていない間にも誰かが使い続けているのか、それとも撤去をすることが面倒なのか。いずれにしても、そう遠くないうちに見かけることすらもなくなるのだろうと思う。使用をされていなくとも、維持費というものはかかり続けているのだろうから。

 既に人々の意識のうちから外れ、存在しないものと同じ公衆電話は現実の中からも姿を消していく。そして、ソ連の載った地球儀のように、かつてあった歴史を示すために時折フィクションの中に現れるのみになるのだろう。自分が生きている今が徐々に歴史という大きな潮流の中に飲み込まれ、記号化して処理されていくということは、どうにも遠い、現実味のない話のように思えた。

 形骸化をした公衆電話は遺跡のように、街の中に佇み続けていた。道のはずれ、木々が生い茂っているような誰も見向きもしない場所。そこは現実という戦場から外れるためのシェルターのようにすら見える。ドアを開くと、軋んだような音を立てた。お前が仕事をするのはいつぶりのことなんだ、と声には出さず問いかけてみる。答えは当然ない。

 幸いなことに公衆電話のある場所は木陰に入っていて冷ややかな空気が充満していた。僕は受話器を取り、後の壁に背を凭れる。背筋から、ひんやりとした冷たさが身体の中を走った。昨夜、魔女とあった時の冷たさとは違う、心地よいものだ。

 財布から十円玉を取り出してから、やっぱり百円玉へと取り換えて公衆電話に入れる。十円で話すことが出来る秒数は知らないけれど、たった十円だけで終えることの出来る話だとは思えなかったのだ。

 彼女へと――海代憂花へと繋がる電話番号を押し終え、通話を待機する音が鳴ったところで憂花が出ない可能性についてようやく思い至る。この番号は、彼女の家にある固定電話へと繋がるものだ。過去にかけた時もそうだったけれど、憂花ではなく家族が出ることは有り得ないことではない。僕の家とは違い、彼女の家には母と父、それから兄が家に居る。

 家族が出た時、なんと誤魔化そうかと考えているとコール音が途絶え、がちゃりと受話器を取る音がした。身体が、一気に強張る。

『はい、海代ですが』

 既に、憂花の声がどのようなものだったかを思い出すことは難しかった。人の記憶とは自分が信じているよりもずっと脆弱なもので、気付かぬうちに容易く解けていく。夕希の声も憂花の声も、思い出せるものではなくなっていた。

 けれど、喋り方は覚えている。素っ気ないような、愛想のない喋り方。声を聞いたのは随分久しぶりなのに、今も変わっていないことに安堵する。

「深見です。深見廉」

 どういう態度で話を切り出せばいいのかが分からずに敬語で名乗ると、受話器の向こうからは沈黙だけが鳴り響いている。電話では、相手の表情が見えない。この沈黙は僕からかかってきたことが意外で戸惑っているのか、それとも僕の声を聴くことが不快で口を噤んでいるのか、分からない。

『何の用?』

 平坦な声の、極めて簡素な言葉が返される。不機嫌にも聞こえるけれど、憂花はいつもこのような調子だった。不機嫌とは限らない。勿論、声の通り不機嫌であるということも否めないけれど。

 言葉を急かされて、今更ながら焦る。夕希についてのことを話そうとは決めていた。ただ、どのような言葉を持ってそれを伝えるべきかを、何も考えていなかったのだ。僕と憂花にとって、夕希の話は癒えない傷のようなものだった。目を逸らしても痛みを無視することは出来ず、そこに在り続ける。痒みに耐えきれず迂闊に掻いてしまえば、傷口は広がり痛みは増す。

 既に、僕たちは散々傷口を抉り、荒らし、取り返しがつかないほど傷を大きくしていた。その結果として、僕たちの関係の崩壊があった。同じ轍は踏んではならない。僕が嫌われたとしても良いから、話だけは聞いて欲しかった。

「……魔法ってこの世界にあると思うか?」

『は?』

 夕希の話をすれば、それ以上聞くこともなく電話を切られると思った。彼女が僕に失望をしたのは、僕が夕希の死に囚われ続け、前に進むことを放棄したからだ。ならば、馬鹿馬鹿しくとも、ともかく耳に残る話をと、そう思った。

「魔法だよ、お伽噺で魔女が使うような超常的な力」

『それは分かってる。私の疑問符は、久しぶりに話した第一声がそんなくだらないことの理由についてよ』

「昨夜、海辺を歩いてたら魔女を自称する女性に会ったんだ。黒い服を着た妙な人で、自分は魔法が使えるんだと言っていてさ。本当にそんなことってあるのかと思って」

『海辺で、ね』

 憂花は意味深長に呟く。彼女は、僕がどうして海に行ったのかを見透かしているのだろう。夢のことは知らないまでも、少なくとも夕希のために行ったということくらいは。けれど、彼女はそれ以上尋ねようとすることはないままで言葉を継ぐ。

『魔法が本当にあるかどうかは、知らない。一般論を言うなら、科学的に考えて有り得ないんじゃないの』

「まあ、そうだろうな」

 一般論は、そこに意志や信念が介在しない代わりに、強度と耐久性を持っている。僕だって、魔女に会っていなければそう考えていただろうし、今もそう疑っている部分はある。

『ただ、仮に魔法なんていうものがあるんだとしても、廉が会った魔女とやらは偽物だよ』

「いやに断定的な言い方をするんだな。魔女の存在も、魔法と同じように、君が知らないだけで存在してるものかもしれないだろうに」

『黒装束を着た魔女が海辺に現れると思う? 普通は森の中とかなんじゃないの』

「海辺の魔女は――例えば人魚姫に現れた魔女なんかはそうと言えるんじゃないか」

 一般的に魔女は憂花の言った通り森の中に住まうものというイメージがあるけれど、かの物語の魔女は海に住んでいたはずだ。海辺に魔女という組み合わせは何も有り得ない話じゃない。

『そうね。日本の、それも夏という条件を無視すればだけど。どんな質の悪い冗談よ、それ』

 言われてみれば、日本の海辺に魔女が居るという構図は、シュウルレアリスムのような滑稽さすら感じる、奇妙な取り合わせだった。似合わない、という無根拠的な理由ではあるものの、人はそうした何となくの判断を蔑ろにすることは出来ない。

 ただ、それは彼女に会っていないからこそ言えることなのだろうと思う。あれが、お伽噺に描かれるような、かつて処刑をされて回った、魔女という存在なのかは分からない。けれど、対峙したうえではっきりと言えることは、あれが人間ではない何かだったということだった。確かに、人間の形はしていた。しかし、それはあくまでも形に過ぎない。それは決定的に自分とは異なる存在なのだと、本能が訴えていた。

『逆に聞くけど、あんたはどうしてそれが魔女だと信じたわけ?』

「いや、何も信じてるわけじゃないさ」

『ならこうしてわざわざ他人に確認まで取ろうとしないでしょ。信じたというほど断定的なものではないのかもしれないけど、信じるか不信かの二元論で語るなら前者だと言えるくらいには傾いてるんじゃないの』

 違う、と虚勢であっても否定をするには、僕の態度はあからさまなものだった。魔法なんて有り得ないと、理屈では分かっていても、僕は魔法を信じつつある。

 それは、魔法というものの存在を信じなければ賭けという話自体が破綻をするから、前提となるものを嚥下しているだけだろう。あるいは、あの自称魔女という、超常的な存在と向き合ってしまったのだから、想像や常識を超越したような存在が居るのだと信じざるを得なくなったからだろう。

 言い聞かせるように並べたそれらの理由が間違っていることは、分かっている。僕は、夕希が甦って欲しいだけなのだ。彼女が甦るには魔法が必要だから、魔法があることを信じているだけなのだ。

『ねえ、大丈夫? 魔法とか魔女とか、そういうものを信じるような性格じゃなかったでしょ』

 確かに、僕は空想的なものを信じることはなかった。例え、夕希が死んだとしても、憂花との関係を壊すほど塞ぎ込んだとしても、そういったものに縋るようなことだけはなかった。それが今になって急にそんな話を始めたのだから、我ながら、冗談にしても酷いものだと思う。ともすれば、ついぞ頭がおかしくなったのかと疑いすらするかもしれない。

「大丈夫だよ。狂ったわけじゃないし、何も本気で信じてるわけじゃない。ただ――ただ、そういうものが本当にあれば良いと思っただけだよ」

 憂花の前で夕希に対する未練を零すようなことをするつもりはなかったのに、どうしても口から漏れ出てしまう。直截的に口に出すことはなくとも、僕が希っていることを憂花は知っていて、だからこそばつの悪さに小さく溜め息を吐く。この短い間だけでも、嘘を貫き通したかった。嘘を吐かずとも、隠していたかった。それすらも出来ない自分の不器用さがつくづく嫌になる。

『そう』と憂花は短く答えた。その感情の裏にあるものは、再びの失望か、それ以外の何かなのか、受話器越しでは分からない。

「でも、どれほどくだらない話であっても、憂花と久しぶりに話すことが出来て良かったよ。もう暫く話してなかっただろ、僕ら」

 クラスが違うとは言えど同じ高校に通っているはずなのに、顔を合わせることは何度もあったはずなのに、僕たちは互いを避けるように会話をすることがなかった。

 憂花の気持ちは分からない。ただ、僕はこれ以上話すべきではないと思っていた。きっと、どれほど努力をしたところで僕は夕希についてのことを話してしまうだろうし、そうなれば憂花との関係は今度こそ決定的に断絶する。既に取り返しがつかないほど崩れてしまっていることは理解していたけれど、幾ら壊れたものだからといって踏み躙るようなことはしたくなかった。

 今、こうして平静を装うことが出来ているのは、夕希が甦るかもしれないという希望があるからだろう。希望が、目標が、決意があるから揺らぐことなくしっかりと立っていることが出来る。話すことが出来る。

『……私は別に、避けてたつもりはないけど』

「ああ、そうだな。君が避けていたわけじゃない」

 僕が避けていたのだ。もしも話をしたいのであれば、僕から話しかけるべきだったのだ。元の形を壊してしまったのは僕なのだから。

「あのさ」と言ってから息を吸う。電話ボックスの少しだけ涼しい、けれど湿った夏らしい空気が身体に染み込んでいく。

「また僕ら、昔みたいになれたらいいな」

 僕ら、という言葉は僕と憂花だけではなく、夕希のことも含んでいた。勿論、憂花はそうとは取らないだろう。ただ、これ以上言えば折角繋ぎ直しているこの微かな糸も解けて、途切れてしまう気がして僕は韜晦に逃げる。

『今更だね』

「そうだな」

 夕希が死んでから、憂花と離れてから、もう三年は経っていた。たかだか三年かもしれないけれど、思春期の僕たちにとって三年という時間はあまりにも長いもので、他で代えることの出来ない質量を持っている。起こったことの何もかもをなしにすることなんて、出来ない。

「それじゃあ、また」と僕は言う。

『うん、また』と憂花は言う。

 受話器を置いた。身体の中には虚脱感が蟠って、いっそそのまま蹲ってしまいたかったけれど、そうした弱さに頼ることは嫌で体重をただ後ろの壁に預けることで誤魔化す。

 蝉時雨が硝子で出来た小さな箱の中に反響する。僕は目を瞑り、夏が過ぎてゆくことを待つ。世界との摩擦に耐え忍ぼうとする。

 これから、僕は進み続けなければならない。どれほど激しい嵐の中でも、不格好に、踊るような滑稽さを持ってでも。だから、今だけはその前に休ませてくれないだろうか。ふと見た外の世界の遠い空には、薄れゆく飛行機雲が見えた。

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