Malecifium

1

 ふと、強烈な吐き気とともに目を覚ますことがある。夢で見た溺れていくような息苦しさと、掴むことの出来なかった後悔の感触はじっとりと手に貼り付いたままで、眠ることを諦めて身体を起こした。

 忘れるなとでも言うように、あの夢はいつまでも僕のことを襲うけれど、やはり夏になると殊更に見る回数は増えてゆく。毎年のように報道される記録的猛暑の言葉に違わず、七月の夜はじっとりとした熱気を孕んでいた。シャツが汗で身体に貼り付き、頭の中でぐるぐると蟠る不快感が強調される。

 僕はシャツとズボンを脱ぎ、簡単な服装に着替える。時計を見ると、午前二時過ぎ。既に街も夢を見ている時間だが、今の僕にとってはこれ以上ない時間だった。彼女への弔いは、静かな時間の方がいい。喧騒の中を通り過ぎてしまうと、彼女への感情が薄まってしまうような気がするから。

 薄手のシャツとズボンにパーカーを羽織って、外に出る。密閉された部屋の中と比べて、街の中はましと言える程度には涼しかった。

 腐りかけているアパートの階段を降りると、人生に疲弊した人間の吐く溜め息のような音が立つ。不気味とすら思える音に対して僕が思ったことは、憐憫だった。昔から、他人が苦しんでいる姿を見ることが好きではなかった。クラスメイトが怒られている姿を見ると、自分が怒られているわけでもないのに早く終わってくれないかと、常に祈っていた。同情的なことは何も素晴らしいことではない。単に、生きづらいだけだ。

 高校生の夜間外出は条例に違反している。けれど、この時間にまで静まり返った街を見回っているような勤勉な、あるいは狂った警察官は居ない。この弔いを止められるようなことは今までもないし、これからも起こり得ないのだろう。

 自分で言うのもおかしな話だけれども、かつては僕も真面目だった。いや、臆病だったと言った方がいいのかもしれない。どれほど些細な、形骸化したようなルールであったとしても、誰に見咎められるわけでもなかったとしても、守ろうと躍起になっていた。それくらいしか、自分には誇れることがなかったからなのかもしれない。

 けれど、彼女が死んでから、そうしたささやかなアイデンティティすらもなくなった。最初は殆ど無意識のうちだった。初めて夢を見た後、衝動がただ僕を突き動かし外へと赴かせた。条例なんていう二文字は、その時頭の端にすらなかったのだ。

 どのようなものであったとしても、崩れてしまえば呆気ない。僕の生活は、緩やかに退廃的な道筋を辿って行った。今もまだ続いている低空飛行は、いつになれば墜落することになるのだろうか。時折頭を過るそうした考えは、結局それ以上模索されることもなく放棄されていく。いつからか、心の一部分が壊死をしたように機能をしなくなっていることを実感する。

 歩き続けた先で、潮の香りがした。内側から食い破るような痛みと吐き気が、頭の中で暴れていることが分かる。僕にとって、海は最悪な思い出を持つ場所だった。けれど、だからこそ赴かなければいけない。彼女のことを忘れないために。彼女への償いをするために。

 道路を横切って海岸沿いの道へと行くと、波の音が耳朶を打った。微かな月の光を反射する水面の他に見えるのは荒涼とした暗黒だけだけれども、その音が、確かにそこに海があることを証明している。

 石畳の階段を降りて砂浜へと降りる。足が僅かに砂の中に沈む。一歩、また一歩と進むごとに靴の中には砂が入り、足に纏わりつく。これだから、僕は昔から海辺が好きになれなかった。

 波打ち際まで歩くと、砂浜は波によって舗装され随分と歩きやすくなる。月明かりに照らされ、微かに白く示されたその道を、僕は歩き始める。最も向かいたくない場所に向かうために。

 彼女が、嵯峨夕希が死んだ理由はただの不幸だった。むしろ、子供を助けるために溺れたことを、ある種の名誉だと宣う人も居るのかもしれない。仕方のないことだった。そう片付けてしまえば、問題はそれで終わる。簡単に片付く。

 けれど、もしも、という呪いはいつまでも消えることがない。子供が溺れてさえいなければ。彼女が冷静であれば。彼女が優しい人でなければ。僕が気付くことさえ出来ていれば。そして僕が彼女を止めていれば。そうした取り返しのつかない様々な選択を取りこぼした末に、嵯峨夕希の死という結果が生み出されたのだという残酷な現実に、変わりはない。

 今でも、夢に見る。夕希が静かに水底へと沈んでいく姿を。手を伸ばし、それを掴もうとしても近付くことは出来なくて、僕はただ彼女が暗闇へ呑まれていく姿を眺めていることしか出来ない。表情は見えない。だからこそ、彼女が哀しんでいるのか、恨んでいるのかすらも分からずに形のない恐れが僕を苛み続ける。

 顔も、声も、徐々に僕の中から薄れていく。現実は記憶へと変容し、思い出へと退色する。その果てにあるのは、静かな忘却だけ。既に死んでしまった人は残された人々の中で生きることしか出来なくて、そうした人間を忘れていくことは殺人と言えると、僕は思ってしまう。だから忘れないように、痛みを鈍化させないように、僕はこうして海へと行く。傷を自らの一部なのだと風化させてしまわないように、当たり前にならないように、向き合い続ける。

 例えば、僕が彼女に好きだと言えていれば、今もこうして囚われ続けることはなかったのだろうかと考える。

 形骸化した想いは、呪いだ。吐き出すことの出来なかった初恋は、僕の中で蟠り続け思考を蝕んでいく。それが既にどうしようもないものなのだと分かっていても、僕という人間の深い部分に結び付いたそれは離れてくれない。

 途方もない苦しみは、彼女を忘れずに済むだけの痛みを僕に与えてくれている。仕方のないものだったと諦めて彼女を忘れることと、痛みを伴いながら生き続けること、どちらの方が楽なのだろうか。良いことなのだろうか。考えても、答えは分からない。分かるべきではないのかもしれない。

 彼女が死んだ場所へと近付いて行く。最後に見た、彼女の姿を思い出す。彼女は――彼女はどんな服を着ていただろうか。情けないけれど、それすらも朧げになりつつある。確かに覚えているのは、これから死ぬことなんて知らず、静かに笑っている表情だけだった。

 この世界はフィクションじゃない。死とは劇的なドラマがついて回るものではなく、呆気なく、暴力的に降りかかって来るものだ。そんなことは、分かっている。分かっているはずなのに、どうしてと思ってしまう。どうして、あんな表情をしていた人が死ななければならなかったのか。溺れている子供なんて捨て置いておけば良かったのではないか。

 僕は、良い人間じゃない。ゆえに人を助けて死んだことを美談にするつもりは、ない。見知らぬ子供の命と恋していた人の命であれば、迷いもなく後者を選ぶに決まっている。彼女が死んだということを知ったあの時から今までずっと、助けなければ良かったんだと思ってしまう。

 けれど、そうなるしかなかったんだろうとも思う。嵯峨夕希とは、そういう人間だったのだ。自らの命と引き換えに他人の命を救ってしまうような人間。だからこそ、彼女のことを好きになったのだから。僕は、いずれ死んでしまう人間に恋をするほかになかったのだ。

 海の方に目をやると、月明かりが水面に一筋の道を浮かび上がらせていた。そこを歩けば、その先へと行けば、夕希に会うことが出来るのだろうか。そんな有り得ないことを考える。夜の海は、魔的な魅力を持っている。じっと見つめてみると引き込まれてしまいそうな、危うい力を。揺らぎのような感情を振り払うようにして再び視線を前に向ける。そろそろ、目的の場所へと着くはずだった。

 いつの間にか、目の前には女性が立っていた。

 シルエットで、女性だということは分かる。ただ、夜闇に溶け込むような黒いワンピースを着ているせいで輪郭はぼやけて見えて、亡霊を見たのかと自らの正気を疑う。

 雲が晴れ、月明かりが女性を照らす。そうして見えた女性は、美しかった。長い黒髪と、屍体のように白い肌。黒猫のような瞳と、薄く妖艶な唇。細く頼りないとすら思える肢体は、けれど憐れみを誘うことはなく毅然と佇んでいる。

 完成された美しさは、人に恐れを抱かせるものだ。その女性の有している美しさは、不気味とすら言えそうなほど完成したものだった。

「こんばんは」

 透き通るような声が潮騒の合間を縫い、夜に反響した。喜んでいるようにも、哀しんでいるようにも聞こえる声は不協和音のように歪んだ響きを持っているように感じる。

「貴方が深見廉ですか?」

 彼女の声が僕の名前を呼ぶとざらりとした気持ちの悪い感触が内臓を撫でたような錯覚に陥る。どうして、僕の名前を知っているのか。何者なのか。疑問は頭の中に浮かんでいるはずなのに、上手く言葉にすることが出来ずに何も言えないまま向き合う。

「深見廉で合っていますか?」

 女性は黙ったままでいる僕を断罪するように言葉を繰り返す。

「……ああ」

 なんとか絞り出した声で肯定する。見ず知らずの女に名前を明かしても良かったのだろうかという考えが生まれたのは、声が出た後のことだった。

 しかし、すぐにどうでもいいことかとも思う。僕みたいな者から得られるような物はない。深夜の海辺という場所は詐欺師と最も似合わない場所のひとつだろうけれど、仮にこの女が頭のおかしな詐欺師の類だったとして、僕の名前を知って何をすることも出来やしないのだ。

「あんたは、誰なんだ」

「私は、そうですね。魔女とでも名乗っておきましょうか。それが一番、分かりやすいでしょう」

 諧謔めいた口ぶりで女は滔々と言の葉を紡ぐ。彼女の言葉には、言い換えれば心には、真っ黒なヴェールが被せられているような気がした。どれほど見つめても、その先にあるものを見ることは出来ない。剥ぎ取ることさえ出来れば、見ることも出来るのだろうけれど、そうするつもりにはなれなかった。誰だって、腐臭の漂う棺桶を好き好んで開けようとは思えないように。

「冗談に付き合っている時間はないんだ。用がないならもう良いか」

「そう? 貴方には、時間が有り余っているように見えますが」

 口惜しいけれど、魔女の言う通りだった。僕には時間が有り余っている。目的すらなく、生きるために生きるというトートロジーの下に駆動し続ける生命はひたすらに命を浪費し続ける以外にすることなどない。

 それが虚しいことであるということは分かっている。それでも、僕は僕のために命を浪費し続けたかった。誰かのために、ましてや見知らぬ自称魔女のために命を浪費するつもりにはなれなかった。

 苛立ちを吐き捨てるように、僕は魔女を追い抜くため一歩足を進めると、彼女はそれを止めるようにして言葉を続ける。

「それに、私には用事がありますよ。貴方にとっても悪くはない用事が」

「……本当にそんなものがあるなら良いんだけどな」

 僕にとって、悪くはない用事などありはしない。正確に言うならば、あるけれど実現することが出来ない。それは、夕希に関する希望ばかりだからだ。死んだ人間に対する願望など、空虚な祈りに過ぎないのだ。

 歩みを再び始め、魔女のことを追い抜く。そのまま、歩き続けてしまいたかった。夕希が死んだ場所まで。そしていっそ、この海岸線の果てまで。けれど、そうした自棄的な覚悟はあまりにも強力な引力によって止められることになる。

「嵯峨夕希に、もう一度会いたくはありませんか?」

 質の悪い冗談に決まっている。死んだ人間は甦らないのだから。

 それでも、その言葉に縋ってしまいたくなってしまったのは、深夜の瘴気に中てられたからなのだろうか。それとも、魔女の言葉にそのような力でもあったからなのだろうか。

 希望をしなければ、失望はない。何かを求めようとしなければ、何かを失うこともない。泥濘のような現状維持が、僕には丁度良いのだ。これ以上に何かを求めるべきではないのかもしれない。

 しかし、理屈ではなかった。真実なのだとしても嘘だとしても、僕は立ち止まらずにはいられなかった。振り返らずにはいられなかった。初めから、選択肢などなかったのだ。

「あんたは何なんだ」

「だから言ったでしょう、魔女と」

「名前を聞こうとしてるわけじゃない。どうして、あんたは夕希のことを知っているんだ」

 不幸な水難事故それ自体は新聞の片隅に載った。ゆえに嵯峨夕希という名前を知る方法はある。ただ、それだけの情報から僕と彼女の繋がりを見出すことは言うまでもなく出来ないことだし、何より僕の望みを見透かしたような魔女の言い草は全くの他人に触れることの出来ない問題だったはずだ。

「どうしてに、意味はあるのかしら」

 魔女は独り言ちるように呟く。

「あるさ。あんたが何者なのかを知らない限りには話を信用することが出来ない」

「信用とは、思ってもいないことを言うものですね。貴方にとって必要なのは貴方が求める結果だけであって、それ以外の過程や理念の貴賤など関係ないでしょうに」

 魔女の言うことは正しかった。もしも本当に夕希に会えるのであれば、この女が何者でどのような思惑があろうとも、僕にとってはどうでも良かったのだ。ただ、それだけのために全てを投げ打つような態度は歪であるような気がして否定をする。既に歪み切った人間であることを自覚しつつも、せめて真っ当な人間である風を装いたかった。そうでもしなければ、僕という人間は崩れていってしまうような気がして。

「いいから話せよ」

 自分でも驚くような、どす黒い声が出た。夕希が死んだあの時から、僕は世界というものに興味を覚えることがなくなっていた。世界と繋がるための器官が失われたように、あらゆるものは僕の感情に触れることなく、ただ通り過ぎていくだけだった。喜びがない代わりに哀しみもなく、愛がない代わりに憎悪もない。途方もない白紙の繰り返し。ゆえに、自分がここまで苛立ちを露わにすることがあるということが、意外だった。

 魔女は僕の声に対して怯えるようなことも、申し訳なさそうにすることもなく、不気味で美しい微笑みを浮かべ続ける。

「だって、本当のことを言ったところで貴方は納得をしないでしょう。魔法によって知った、なんて言ったところで」

 馬鹿馬鹿しいと思う。まだ、魔女というくだらない冗談を続けるつもりなのかと怒りと嘲笑をないまぜにしたような感情が身体の中に湧く。

 魔女はそれを見透かしたように、右手で口を抑えながらくすくすと笑った。

「貴方が欲しかったのは、自分にとって納得の出来る答えにほかならない。自分にとって都合のいい答えにほかならない。違いますか?」

 魔法なんて空想的な存在をどうして信じることが出来るのか。僕は常識的に考えただけで、都合の悪い考えを排したわけではない。

 けれど、その常識は何を証明してくれるのだろうか。人は何かを信じなければいけない。明日もまた陽が昇ることや、一日が二十四時間であることまで疑い始めれば、とても生きていくことなんて出来やしないから。常識を無根拠に信じることは何も悪いことではない。

 ただ、常識というフィルターを外して考えた時、どうして魔法という存在を否定することが出来るのだろうか。常識では測り得ない力学がそこに働いているということを、どうして否定することが出来るのだろうか。

 違う、と僕は靄のように湧き出でた思考を打ち止める。こんな考えは惑わされているからこそ生まれたものに過ぎない。行き過ぎた懐疑は空想だ。現実を求めるあまり、捻じれて空想へと辿り着くのは愚かなこととしか言えないだろう。

「なら、探偵でも雇って調べたということにしましょう。それで問題はありますか?」

 魔法の代わりに提示された理由は尤もらしい、常識的に考えた場合納得をすることの出来るものだった。

 知らないうちに自分を調べられているということ自体は不吉で不快なものだ。それでも、何かを損なうのかと問われればそういうわけではない。元より僕は何も持っていないのだ。これ以上何かを失うというようなこともない。

 そもそもそれ以上、何かを追及しようとしても意味はないのだろう。これ以上聞いても魔女は僕にとって納得の出来る、都合のいい答えを提示し続けるだけだ。

 魔女の言った通りだ。僕にとって、過程は意味を為さなかった。知りたいと思っていたわけでもなかった。魔法だろうが、探偵だろうが、何でも良かったのだ。僕はただ、魔女の提示した可能性に向き合うことが怖くて、それを否定する材料が欲しかっただけなのだ。

「話の続きをしましょう。退屈ですし、歩きながらでも」

 そう言って、魔女は僕を追い抜き、歩き始める。怪しげな言葉を振り切り、身を翻して帰ることも出来たのだろう。けれど、そうすることは出来なかった。僕は魔女の後を追う。誰も居ない、世界の最果てのような海岸沿いを歩く。

 魔女の足取りはワルツでも踊るような軽やかなものだった。彼女は何が愉しいのだろうか。何のためにこんなことをしているのだろうか。それらを聞いたとしても、きっと答えなんて出ないのだろう。再び、韜晦めいた態度を取られるだけだ。僕に出来ることは諦めながら、ただ過ぎゆく現実を待つことだけだった。

「もう一度聞きます。嵯峨夕希に、もう一度会いたくはありませんか?」

 魔女は悪辣な甘言を繰り返す。辟易としながらも、本当のことを答えることにする。嘘を吐くには、今の僕は疲れ過ぎていた。

「会いたいさ。これで良いのか。あんたが聞きたかった言葉は、これか」

「そう怒らないでください。私は提案をしたいだけです。もう一度、彼女に会わせてあげましょうか、と」

「……いい加減にしてくれ。冗談にしては質が悪いし、何よりつまらない」

「冗談だと思うのなら、それで構いませんよ。私はあくまでも提案をしただけですから。貴方がそれでいいというのであれば、無理強いをするつもりはありません」

 甘い言葉で誘い込み、一歩退いたような態度を見せる。それが詐欺師の常套手段であるということは理解していたけれど、僕の中に躊躇が生まれてしまったことは確かだった。本当に、今ここでこの女の提案を断ってもいいのか。本当にこの女が魔女で魔法が使えるのだとすれば、もう二度とない機会なのではないか。馬鹿馬鹿しい、けれど魅力的な言葉が頭の隅を掠める。

「嘘ですよ」と魔女は振り返り、僕の顔を見て笑った。

「そんな哀しそうな顔をしないでください」

 恐らく、本当に僕は哀しそうな顔をしていたのだろう。嫌になるほど、自分が情けない。けれど取り繕えばより惨めになることも分かっていて、僕は何も言わず進み続け、魔女を追い越して歩く。

 魔女はすぐに僕に追いつき、僕たちは並んで歩く。今は何時なのだろうか。そもそも、正常に時間は機能しているのだろうか。僕は、本来の世界とは異なる空間に紛れ込んでしまったのではないだろうか。この女と共に居ると、思考が解けていくような感覚がする。世界というものが、自分というものが、信じられなくなるような錯覚に陥る。

「きっと、貴方は何を言っても信じようとはしないんでしょうね」

「信じるとでも思っていたのか?」

「そうですね、思っていませんでした。貴方は、どちらかと言えば現実主義者ですから」

 主義と呼べるほど一貫した生き方を持っているとは思わないけれど、僕の生き方を何かに当てはめるのであれば確かに現実主義者なのだろう。あるいは、悲観主義者。その二つは言い方を変えているだけで限りなく同じものを表しているのかもしれないけれど。

「だから、現実を前にすれば信じる。そうじゃありませんか?」

「僕じゃなくとも、そうだろう。誰だって目の前に起こっていることまで疑うことは出来やしない」

「かつて天動説を信じた人々は、どれほど確たる証拠が現れても地動説を否定し続けた。現実に対した価値なんてありませんよ。受け入れがたい事実は真実によって上書きされるものですから」

 現実は、事実は、確かに僕たちが信頼をしているよりもずっと脆弱なものだ。人の認識に問わず、時は流れ、一日は終わっていく。けれど、僕たちは認識の中でしか生きることが出来ない。現実を認めなければ、否定をすれば、真実は幾らでも歪んでいく。

「でも貴方は目の前に起きたことを信じる。それは素直さというよりは、諦観といった方がいいんでしょうけれど」

「……そうだな」

 現実で起こったことを否定するには、僕自身に信念のようなものがないし、何より疲れすぎている。例えば今、空に浮かぶ月が紅く変わったとしても、星が全て取り払われたとしても、そういうものなのだと受け入れるのだろう。現実として起こったのだからと、思考を放棄しながら。

「ですから、実際に貴方と嵯峨夕希を会わせましょう。貴方にとってもそれは望んでいたことでしょうから」

 言うまでもなく、その言葉は正しい。夕希との再会は、僕が望み続けていたことだ。有り得ないことだとは理解をしつつも、それでも捨てることの出来なかった希望。

 ただ、だからこそ僕は慎重になってしまう。奇跡とでも言われるようなことを信じることが出来るほど、僕はもう世界を信用していなかった。都合のいい結果の背景には、その代償が存在している。他人からの施しには、その対価が必要となる。

「あんたの望みは、何なんだ。僕と夕希を会わせて何がしたいんだ」

 魔女はそれこそが話したかったことだとでも言うようににやりと笑う。その表情が、僕が既に踏み込んではいけない領域に、引き返すことが出来ないほど這入ってしまっていることを示唆していた。

「ひとつ、賭けをしましょう。貴方が賭けに勝てば、あとは貴方たち二人で好きにしてくださいな。死ぬまで一緒に居ても、やっぱりいいと適当に折り合いをつけてそれぞれの人生を進むことになっても。私は選択を尊重し、祝福しましょう」

「……つまり、夕希を甦らせるということか?」

「言い方を変えれるならば、そうなるかもしれませんね」

 嵯峨夕希と会わせるという言い方からして、夕希と再会をすることが出来るのは一時的なことかと思っていた。それでも、どれほど短くても僕にとっては十分だった。

 甦りという可能性はこれ以上ない提案だ。本来有り得ることのない、死した人間の復活。僕が望んでいた空想の中でも、最も素晴らしい形。だからこそ、その可能性の裏に存在するものが恐ろしくなる。

「僕が賭けに負けたら、どうなるんだ?」

「彼女が泡へと還る。それだけですよ」

 身体の中から温度が消え失せたような感覚がした。わざと持って回ったような言い方をしていることが気持ち悪かった。泡へと還る。それは、つまり。

「死ぬっていうことか?」

 魔女は何も言わず、にたにたと気味の悪い表情をして、僕の奥底を覗き込むようにこちらを見る。

「今存在していない人が、再び居なくなるだけですよ。貴方にとって悪い提案ではないと思うんですけれど」

 魔女の言葉の通り、賭けに負けた先にあるのは、現状への回帰だけだ。失うものはない。躊躇をする必要など、ないのかもしれない。

 ただ、もう一度夕希が死ぬことは、僕にはもう耐えることの出来ないことだった。それがあるべき世界の姿なのだとしても、一度掴んでしまったものを手放すことは、そう簡単なことではない。もしももう一度、夕希が死んでしまえば、既にぼろぼろになっている僕の中の何かが決定的に崩れていってしまう。そういう予感が、いや、予感というよりももっと確信的な何かが、僕の中にはあった。

 賭けに勝てば、最善の結果を得ることが出来る。しかし負ければ、僕は取り返しのつかないほど大きな何かを損なうことになる。再び、夕希を殺すことになる。希望が存在しないのは、元からなのだ。ならば、何もするべきではないのではないか。最善と最悪を秤にかけた時、僕は決まって最悪のことを想う。そして、それだけは避けようと選択をする。その果てにあるものが緩やかな墜落だったとしても、劇的な破滅よりは良い。腐り、風化し、朽ちていくような終わり方は悪いものではないのだと僕は思っていた。

 惑わされる必要はない。どうせ死ぬくらいならば、甦らない方がいい。その方が、幸福なはずだ。僕にとっても、夕希にとっても。そもそも、人が甦るということ自体が不自然なことなのだ。あるべきではないことを起こすべきではない。そうに決まっている。自分自身に言い聞かせるように、僕は魔女の提案を否定し続ける。

 それでも、その否定の言葉を口にすることが出来なかったのはどうしても夕希が甦るという可能性をいつまでも諦めきれなかったからだった。恐らく、もう二度とこのような機会は訪れないのだろう。僕が最も望んでいるものは、今この場を逃してしまえば永遠に欠けることになる。空想という場所に逃げることすらも出来ずに、僕は夕希を失った色彩のない世界を歩むこととなる。それは、嫌だった。

「貴方の考えは、いつも後ろ暗いんですね」

 魔女はどこか僕を諭すような、優しい声色でそう言う。

「失敗することばかりを考えている。失うことばかりを考えている。だから、最後まで何も得られない。何かを犠牲にしなければ、何も得ることなんて出来ないのだから」

「……何も得られなくたっていいだろう。何も求めずに、ただ現状に甘んじて生きていくことは悪じゃない」

「そうですね。得るべきとされている物の多くはあった方が良いものに過ぎない。なくても、生きていくことが出来るものに過ぎないんでしょう。けれど、人生には本当に得なければならないものが現れることがある。得ることが出来ないのだと分かっていても、足掻かなければ自分を殺すことになるようなものが。貴方にとって、嵯峨夕希はそういった存在なんじゃありませんか?」

 魔女らしくない、人間的な言葉だと思った。今までの血の通っていないようなものではなく、確かに彼女の意志として吐き出された言葉であるような気がした。この女もまた、僕のような苦悩を携えているのだろうか。それはいったい、どんなものであるのだろうかと考えて、すぐに思考を打ち止めた。そういった風に聞こえるだけの演技をしたのかもしれないし、本当に彼女の中に何かがあるのだとしても、僕に分かるはずがない。僕が感じている世界と彼女が感じている世界はあまりにもかけ離れているんだろうから。想像をするだけ、無駄だ。僕が今向き合うべきなのは、僕の問題についてだ。

 この機会を逃せば、僕は後悔を引き摺り続けたまま生きることになる。それは紛れもなく言えることだった。何よりも揺らぎのない真実だった。その後悔すらもしないのであれば、きっとそれは僕ではない、僕だった残骸に過ぎないのだろうから。

 失敗は、恐ろしい。失敗には、責任がついて回ることになるからだ。夕希が再び死ねば、それは僕の責任だ。今の僕に、その責任を背負いながら生きていくだけの強さはない。重みに潰れ、拉げ、死ぬだけだろう。

 けれど、それは利己的な考えだと気付く。僕は、僕のことしか、自分の苦しみについてしか考えていない。僕が考えるべきなのは、夕希のことだ。ずっとそうするべきだったと後悔をし続けていたのは、夕希のために尽くすことだ。

 彼女のために出来ることは、彼女を甦らせることだけだ。彼女の結果に、僕の責任や懊悩は関係がない。

 ずっと、考え続けて来たことだったはずだ。彼女を救えたのではないか、彼女を死なせずに済んだのではないかと。僕は、彼女の過去を哀しいものだと、仕方のなかったものだと受け入れることが出来ずに、何か出来たはずだと思い続けている。その後悔を拭う機会が訪れたのだ。断る理由なんて、あったのだろうか。

 失敗は、恐ろしい。それでも、その真っ暗な可能性を受け入れ、僕は進まなければならない。そうでもしなければ、僕という存在は死ぬことになる。

「分かったよ、賭けに乗ろう」

 魔女は分かっていたのだろう。僕がこの賭けに乗らざるを得ないことを。掌の上で踊らされているようで不快ではあったが、それで夕希が甦るのであれば、死ぬまで踊り続けてやる。そのさまがどれほど滑稽でも、惨めでも構わない。

「賭けの内容を聞いてもいないのに大丈夫なんですか?」

「あんただって、分かってるんだろ。僕には元から選択肢がないって」

 どれほどの無理難題なのだとしても、残酷な要求だとしても、乗るのだと覚悟をした時点で僕はそれと向き合うしかなくなる。退路は断たれる。内容は関係ない。僕にとっての問題はその賭けに乗るのか、乗らないのかという極めて単純なものだったのだ。

「賭けの内容は、何なんだ」と僕は尋ねる。声は、震えていなかっただろうか。

 賭けに乗るのだと決めても、未来は怖いままだ。後戻りをすることが出来なくなった分だけ、その恐怖は実体を持って迫りつつあるとすら言えるのかもしれない。

 魔女は勿体ぶるように「そうですね」と溜め息を吐くように言う。彼女の道化じみた所作は、何に由来するものなのだろうか。その韜晦は、一体何を隠しているのだろうか。

「安心してください。何も死ぬかもしれないようなことをさせるつもりはありませんよ。肉体的、社会的、共にね。私が求めるのは簡単な――そう。至極簡単なことですよ」

「御託は良い。早く教えてくれ」

「そんなに焦らないでください。もう少し、情緒というものを大切にした方がいいんじゃないですかね」

 情緒を蔑ろにしたいわけではない。少なくともこの女の前では、そういった余裕が、言い換えれば隙が、必要ではないのだと考えただけだ。

 魔女は、僕を見てはにかんだ。それは世の中には善と悪しか存在しないのだと信じる少女のように、真っ白なあどけなさを持った表情だった。

「私は、彼女を用意します。貴方が勝つための条件はこの夏が終わる時、八月の三十一日に、貴方がその彼女のことを好きになり、受け入れる。それだけですよ」

「……どういうことだ?」

 拍子抜けするような賭けの内容に湧いた感情は、安堵よりも不信だった。

 今までの口ぶりからして、魔女は僕の夕希に対する感情を見抜いていたはずだ。賭けをするまでもなく、僕が彼女のことを好きだということを、知っているはずだ。この賭けは、始まる前から終わっている。行う意味がない。

 僕からしてみれば賭けに勝つことが出来る。何もせずとも、ただ夏の終わりを待てばそれで良い。危険な可能性に賭ける必要はない。それは何よりも僕が望んでいる展開だ。

 だからこそ、訝しむ。そのような僕にだけ都合のいい提案をして何の意味があるのだろうか。結果の見え透いている形式的な儀式に、意味などあるのだろうか。

「怪しまないでくださいよ」と魔女は僕の不信を見透かすように言った。

「元より破るつもりなら、約束などしなければいい。自分からした以上約束を守るというのが、私の唯一でささやかな信条なんですから、裏切るようなことだけはないとはっきり言っておきましょう」

 その言葉がどれほど信じることの出来るものなのかは分からないけれど、賭けに乗ると決めた以上僕に出来ることは信じることだけだった。前提となる部分まで疑ってしまえば、きりがない。

「それに」と愉し気な声色で続ける。

「貴方は全く無意味な賭けだと思っているでしょうけれど、結末はまだ決まったわけではないんじゃないですか」

「どういうことだ?」

「夏が終わるまでの時間をかけて、貴方が彼女のことを好きではなくなるかもしれない。ともすれば嫌いにすらなるかもしれない。そういった可能性について、どうして考えないんでしょうか」

 もしも僕が賭けに負けるのだとすれば、確かにそうした心変わりをするという可能性だろう。人の心は絶対ではなく、単純で簡単な出来事でいとも容易く変わる。それも、想定も出来ないようなものへと。今は七月の終わりだ。八月が終わるまで一か月以上ある。それだけの時間があれば、好きだった人間に失望することなど、容易いのかもしれない。もしかすれば、僕が夕希のことを嫌うように、魔女は何かを仕向けるつもりなのかもしれない。

 それでも、そのようなことはないのだろうと、僕は確信を持って言える。例え、どのようなことを知らされようとも、どれほど残酷な現実と向き合うことになっても、彼女を甦らせることが出来るのであれば、僕は彼女に好意を寄せ続けられる。

「僕の気持ちは変わらないさ。賭けの内容はそれで良い」

「そうですか、ならせいぜい頑張ってくださいね。勝つにしても負けるにしても、私は貴方が足掻くさまを見ることを愉しみにしているんですから」

 他人の行動を観測するというのは悪趣味だと思いつつ、元より魔女とはそういう存在なのかもしれないとも思う。人を甦らせることが出来るような存在が、人間と同じ場所から世界を眺めることなど出来やしない。ゆえに、人間を俯瞰するしか出来ないのだろう。

「明日のこの時間、この場所に来てください。そこから、賭けを始めましょう」

 ふと、魔女が立ち止まり、僕も足を止める。いつの間にか、そこは夕希が死んだ場所だった。偶然とは思い難い。これもまた、魔女による仕掛けだったのだろう。

 夕希が、僕の心のある機能が、終わってしまった場所から始めるというのは最悪だなと思う。あるいは、終わりを拭うという意味ではこれ以上ない場所なのだろうか。

「あらかじめ言っておきますが、私は貴方たちの関係に介入する気はありませんよ。賭けにおいて私はプレイヤーですが、貴方たちの人生において私は演者ではなく観客に過ぎないのですから」

 こちらからしてみれば、尚のこと好都合だ。不確定要素である魔女が介入をしてこないのであれば、僕の決意が揺らぐことはない。

 本当に、これで良いのだろうかと、不安が思考の隅に滲んだ。魔女の口ぶりからして、彼女は僕に対して施しを与えようとしているわけではなく、賭けに勝つ気でいる。僕が、夕希のことを裏切ると思っている。

 理由もなく、希望的観測を信じるような性格には見えない。何か、僕が彼女のことを裏切るだけの理由を、魔女は想定している。その想定が現実となることが、怖い。彼女を厭い、裏切り、再び殺す。僕が最もなりたくない人間に僕自身が変容していくかもしれないという可能性は想像をするだけでも気分が悪くなるものだった。

「最後にひとつだけ」と魔女は何か秘密を囁くように言う。

「私は、フェアな賭けを望んでいます。ただ、貴方を取り巻くあらゆる状況を全て懇切丁寧に説明をするつもりもありません。現状を理解することもまた、貴方がするべきことでしょうから。ですから、賭けの間一度だけ。貴方の質問に答えることにしましょう。その時に私は私の知り得る限りの真実を、嘘を交えることなく伝えると約束しましょう」

 約束と言った以上、魔女がこの言葉を反故することはないのだろう。魔女は僕にとって都合のいい条件ばかりを提示し続ける。僕を惑わせ、自ら破滅へと進ませるための罠なのだろうか。

「質問は、どうすれば良いんだ。いつもあんたが近くに居るわけじゃないんだろう」

「質問をしたいと思った時、私は貴方の傍に現れますよ。それくらい、他愛のないことです」

 滅茶苦茶なことを言っていると思うが、魔女ならば出来るのだろう。

 尋ねたいことは、今もあるし、これから先更に現れることにはなるのだと思う。ただ、出来れば、魔女に頼りたくはなかった。他人に頼るという弱みとも言える部分を、この女に晒したくはなかった。

「ああ」と曖昧な返事をすると、魔女は僕の曖昧でくぐもったような心を見透かしたように小さく笑った。魔女の思い通りにいかないよう、僕は精一杯の抵抗をする。けれど、それは虚しいままで終わることになるのだろう。そういう、嫌な予感が漠然と頭の中に浮かんだ。

「それでは、ご健闘を祈っていますよ。心の底から」

 慇懃無礼とさえ思えるような所作で魔女は礼をし、そして歩き始めた。僕は何かを言うべきなのか、追いかけるべきなのかと逡巡し、結局身を翻して帰途に就く。

 暫く進んだ後で振り返ると、既にそこに魔女の姿はなかった。夜闇に紛れて見えなくなったのか、魔法でも使い姿を晦ませたのか。いずれにしても、不吉であることには変わりがない。

 夕希が甦る。有り得るはずのなかったその希望を前にして、しかし心中に湧いた感情は焦燥と不安をないまぜにしたようなものだった。恐らく、彼女が甦ることに対しての現実味が、未だ湧いていないからなのだろう。それに反して、魔女が残した名状し難い、どろどろとした不快感はいつまでも纏わりつくような実感を持っていた。

 息を吐いて、吸う。夏の夜の、冷たい空気が肺を満たす。後ろ暗いことばかりを考えるべきではない。僕は、進まなければならない。

 空を見上げると、月は相変わらず煌々と海面を照らしていた。また、夕希が月を見ることが出来たらと思う。隣に僕が居なくても良い。離れていても、同じ月の下に居るというだけで、十分なのだから。

 月は無機質な眼差しを持って僕を見下し続ける。僕は目を逸らすように視線を砂浜へと戻し、また一歩足を進めた。

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