5
憂花についての話をした時、夕希は曖昧な表情をしていた。
それも、仕方のないことなのだろう。僕の名前を覚えていることはなくとも、彼女は僕の存在を認識していた。対して、海代憂花という人間は彼女にとって全く未知の存在のはずだ。友人だったのだと見知らぬ人間のことを伝えられても、困ることしか出来ないだろう。
僕の目的のひとつは、彼女たちの関係を以前のように修復することだった。死と記憶の喪失によって決定的に断絶してしまったものを、何とかして甦らせたかった。そこに例え僕が存在していなくとも。
しかし、それでも憂花と夕希を会わせることに躊躇いを抱いたのは、その先に何が起こるのか、予測をすることが出来なかったからだった。魔女との約束という文脈を知らない彼女は、きっとここに居る彼女を嵯峨夕希とは認めない。記憶がないならば、尚更に。そうした反発に遭い、ただでさえ壊れかけた、あるいは壊れてしまった関係が取り返しのつかないものへと変化してしまうことが怖かった。
そして、そういった不確定要素は賭け自体に影響を及ぼす可能性がある。どれほどないと断言しようとしても、感情は揺らいでしまうものだ。もしも、憂花と夕希の関係性的摩擦の末に僕の感情が確かなものだと断言出来なくなってしまったら。それが怖かった。どれほど自分を信じようとしても、最後に信じることが出来ないのが、僕だった。
躊躇などせずに、二人を引き合わせればいいのだろうとも思う。ただ、安定した現状を揺らがせかねない不確定な事象を迎合するべきなのかという逡巡が、判断を引き伸ばす。本当に、それでいいのだろうかという思考が行動に歯止めをかける。
どうせ、時間はあるのだ。全てが終わってからでも、この夏が終わってからでも遅くはないのではないかと思う。その時になれば、何かに急かされるわけでもなく、憂う必要もなく、彼女たちの関係についてだけ想うことが出来る。妙な憂いを混ぜることなく、純粋に向き合う。それこそが、必要なことなのではないのだろうか。それが、ただの逃げにしか過ぎないかもしれないということは分かっているけれど、判断は鈍化したまま夏の中を進んで行く。
ただし、世界は個人的な思考のために足を止めてはくれない。どうするべきかという答えが出るよりも先に、納得をするよりも前に、現実は時折目の前に現れる。どうしようもない不可避なものとして、襲い掛かって来る。
昼下がりの、温い日常に突然触れたのは、無機質なチャイムの音だった。騒がしい蝉時雨を切り裂いて、響いたその音を、一瞬僕は自らの部屋に置かれたものだとは思わなかった。この部屋に訪れるような人間は宗教勧誘かNHKの集金人くらいで、それらも久しく来ていなかった。ここには信仰心もテレビもないということを、ようやく理解したのかもしれない。ゆえに、その音を聞いたのは、何年振りかという単位の話だった。
恐らく、そのいずれかが来たのだろう。そして、そのいずれであったとしても、話す必要はない。突然のチャイムに戸惑ったような夕希に「大丈夫だよ」と言う。そのタイミングでもう一度チャイムが響いたけれど、応じる必要はない。ないものを求められても困るだけなのだ。断りの言葉を入れる必要もない。
珍しく、三度目のチャイムが鳴った。今回の訪問者は随分と根気のある人間らしい。だから僕の態度が変わるかと問われても、何も変わらないとしか答えられないのだけれども。
僕と夕希は静かにそれが過ぎ去ることを待った。そこまで神経質になる必要はないのかもしれないけれど、身動きの一つすら取ろうとせずに、息すらも潜めて時の流れの中に身を委ねる。
そして、チャイムはもう鳴らなかった。
代わりに、硬質なノックの音が響いた。
「廉、どうせ居るんでしょ」
想定をしていなかった声に心臓が跳ねる。他のあらゆる人間を可能性の中に入れていても、それこそ母の可能性すら頭の隅には存在していたけれど、彼女が来ることだけは考えていなかった。あるいは、考えないように思考の中から弾いていた。
「私。海代憂花。妙な押し売りの類じゃないから早く開けて」
僕は動揺のままに夕希の方を見る。彼女は事態を上手く呑み込めていないようで、焦燥に駆られた僕のことを不思議そうに見ているだけだった。それは、そうだ。彼女には僕の当惑など分かるはずがない。
再び、ノックの音がする。どうして彼女はここまで確信を持って何度も、急かすようなことをするのだろうか。それとも、それほど切迫をした事態なのか。であれば早く出なければいけない。情けないけれど、僕の方からもう一度憂花に対してコンタクトを取る勇気は湧きそうになかった。
何をするべきかも分からないままで「分かったよ、待っててくれ」と言って玄関の方へと向かう。決意をする暇もなくドアを開けると、夏の熱気や陽射しとともに、彼女の姿を目にする。もう長い間見ていなかったような気がする、海代憂花の姿を。
話すことはなくとも、学校では何度か顔を合わせていたはずだ。けれど、久しぶりに学校以外の空間で見た憂花は、僕の記憶の中にあった彼女よりもどこか大人びて見えた。それこそ、甦った夕希の顔つきが変わって見えたように。僕の記憶の中では、最低なことに憂花までも夕希が死んだ時点で時を止めていたのかもしれない。
黒を基調としたスカートとシャツは、憂花によく似合っていた。それと同時に暑くはないのだろうか、などという先ほどまでの懊悩を忘れ去ったような間の抜けた感想を抱く。
「久しぶり」
「ああ、久しぶり」
簡素な挨拶を済ませると、表しがたい空白が僕たちの間には出来た。昔であれば、沈黙が気になるようなことはなかった。けれど、僕たちの時間的断絶はその分だけ僕たちの距離を離していて、出来た空白はあるべきではない、居心地の悪いものに感じられた。
「それで、どうしたんだよ急に」
「どうしたも何も、そもそも突然意味の分からない連絡をしてきたのはそっちでしょ」
確かに、憂花からすれば脈絡のない魔法についての話は、きっと悪い意味で印象に残っているのだろう。暫く話をしていなかったとしても、気に掛けるには十分な理由なのかもしれない。
「気になって何度か電話をかけたけど、その電話番号は現在使われておりませんとしか返されないし」
「ああ、悪かった。ウチ、もう固定電話ないんだ。捨てたんだよ」
「へえ、そうだったんだ」
憂花は意外そうな声色を出した後で、どこか納得をしたように小さく頷いた。幼い頃からこの家の環境を見ていれば、何となくどうして捨てられたのかは想像がつくだろう。
「あの電話に関しては、そんなに深い意図はないよ。読んでる小説に魔法の話が出て来てさ。ほら、一度くらいはするだろう、そういうのを見てもしも魔法が使えたらとでもいうような空想をさ。夏の暑さに中てられて、時間を持て余して、僕が唯一繋げることの出来る番号に気まぐれでかけただけだよ」
誤魔化すような言い方をしたのは、話をここで終わらせたかったからだった。部屋へと入れれば、そこには夕希が居る。今、僕は甦った夕希に対して憂花が抱く疑念を解すような言葉を持ち合わせていない。会えば、複雑な問題が持ち上がるだけだ。ドアを開けるよりも先に、夕希に対して浴室かどこかに隠れるよう言っておくべきだったと後悔をする。
家先で話すだけならともかく、部屋に入れるわけにいかない。そう思うけれど、いつだって僕の思考と現実は相容れてくれない。
「そう。まあ、それも含めて久しぶりにゆっくり話がしたいと思ってたところだし、家、上がってもいい?」
「いや、それはちょっと、待ってくれよ」
「どうして? 昔はよく廉の家で話してたでしょ」
「誰かを呼ぶなんて考えてなかったから散らかってるんだよ。他人を招けるような場所じゃない」
「昔から別に綺麗にしてたわけじゃないでしょ、今更気にしないから」
幼かった頃の僕にはそもそも他人が来るから家を片付けようなんていう殊勝な考えがなくて、確かに散らかったまま招くことが多かった。実際に散らかっていたとして、憂花は気にしないのだろう。
断るだけの理由が見つからない。しかし、今の状況のまま彼女を部屋に上げることだけは、避けるべきだ。
「話すだけなら僕の部屋じゃなくてもいいだろ。適当な場所に入って話そう。一杯くらいであれば奢るからさ」
「適当な場所なんてこの辺にはないでしょ。移動するのだって面倒くさいし、廉の部屋でいいんじゃないの」
「だから、他人を入れることが出来るような状態じゃないんだよ」
「私はどんな状態だろうが気にしないって――」
憂花の言葉が途切れる。彼女の眼が大きく開かれ、僕の後方へとやられていることに気が付く。その視線の先に誰が居るのかは、想像をするまでもないことだった。
「夕、希――」
その言葉に曳かれるようにして振り返ると、やはりそこには夕希が居た。ずっと帰ってこない僕のことを不審に思ったのだろう。彼女は僕と相対している憂花のことを不思議そうな目で見つめる。
不思議そうな目。彼女は海代憂花を知らない。覚えていない。だからこそ、突然の来訪者に向ける目としては不自然なものではないはずないのだ。それでも、憂花に対して他人行儀な目線を向ける彼女を見ると、僕は痛々しさのようなものを感じてしまう。
「どういうこと。どうして夕希が、居るの。ねえ、何で夕希が生きてるの」
振り返り、再び憂花の方へと向き直ると、彼女は僕の肩を乱雑に掴み、揺さぶる。しかし、僕の意識は憂花の方ではなく、夕希の方にあった。彼女は、今の憂花の言葉を聞いていただろうか。「何で生きているのか」という問いを理解してしまっただろうか。彼女の表情を窺おうとしても、憂花の手は離れず振り返ることもままならない。
「分かった。説明をする。だから、離してくれ」
「……納得のいく説明をしてよ。じゃないと私、あんたのことを一生許さないと思うから」
そう言うと、彼女は僕を突き飛ばすように手を離し、先に部屋へと上がっていく。
以前、彼女が僕を見放したのは、静かな失望だった。それはいずれ僕たちの間が風化の中で消えていく恐れこそあれど、その中でも微かな繋がりの存在していたものだった。だからこそ、僕は電話をかけることが出来たし、彼女も会話に応じ、こうして部屋にまで訪ねて来たのだろう。
しかし、今肩に残された感触は、そうしたものとは異なる決定的なものであるように思えた。このまま進んでしまえば、僕たちの関係は不可逆的な破滅を迎えることになるのだろうという、冷たく鋭い感触。僕は肩に現れた疼痛のようなものから目を逸らすようにして、ドアを閉めリビングへと戻ろうとする。
相変わらずそこに立っていた夕希は、事態を飲み込めていないようで困ったような表情をしていた。この様子からして、「何で生きているのか」という問いは気にならなかったのか、聞いていなかったのだろう。状況が良くないことには変わりがないが、安堵する。
僕は「大丈夫だから」と言った後で「僕の部屋に居てくれないか」と付け加えておく。次にいつ、憂花の口から夕希の死にまつわる話が零れるかは分からない。それに、記憶のない彼女を話に巻き込んだところできっと事態は悪くなるだけだ。憂花に強く求められたのであればともかく、今のところは席を外しておいて貰った方が良い。
夕希は強張った面持ちで小さく頷くと僕の部屋へと引っ込んでいく。これでいい。僕と憂花の間に生まれた軋轢、言い換えれば身近で大切な人間関係における複雑な対立。それは生きていくうちに必ず向き合わなければいけないもので、夕希もまたいずれ向き合うことになるべきものなのだろう。しかし、今はまだその必要はない。何も理解をすることが出来ていない状況においては、そうした奔流には流されることしか出来ないのだから。人が生きていくうえで、傷や痛みは必要だ。けれど、不必要な傷や痛みもあり、そうしたものを避けることが出来るならばそれ以上のことはない。
リビングに着くと、憂花は既に席に着き、僕を待っていた。処刑人が断頭台にて咎人を待つように、厳かな態度で彼女は僕を眇めるようにして見る。
「水しかないけど、それでいいか」と尋ねると「それでいい」と短く返された。彼女にとって、飲み物などどうでもいいのだろう。だから、今から用意するものは僕のためのものだった。会話から逃れるための塹壕のような場所が欲しかった。
夕希が来た時と同じように、二人分の水道水を入れたコップをテーブルに置く。僕は夕希の正面の椅子に座る。
気を紛らわせるために水に口をつけると、想定外の温さに驚いた。いつもよりも少しだけ硬度のあるような気がする液体が喉を伝う。水道水の、独特の味をいやにはっきりと感じる。
「それで、あの人は誰」
憂花は水に口をつけることもなく、僕の目を真っすぐと見つめながらそう問いかける。
上手い嘘を貫くことが出来ないのであれば、誠実に答えるよりほかに選択肢はないのだろう。それがどれほど現実味を帯びていないものであったとしても、今更尤もらしい話をすることも出来やしないのだ。
「嵯峨夕希だよ。僕たちの幼馴染だった、嵯峨夕希だ」
「馬鹿じゃないの」
憂花は何を聞くこともなく否定する。死んだ人間が甦ったという事実に対して否定をすることは、ごく自然な反応だ。想定をしていた、けれど僕にとっては最悪の反応であることには変わりがないのだが。
「死んだ人間は甦らない。妄想もいい加減にしなよ」
「君だって彼女を見て夕希だと思っただろう。有り得ないと思うようなことであったとしても現実として起こっているなら受け入れるべきだ」
「確かに私はあの子の顔を見て夕希だと思った。でも、他人の空似なんて珍しい話でもないでしょ。少なくとも、人間が甦るなんていうことよりはずっと理解の出来る話だけど」
「僕が夕希に似た人間を連れてきて、そのうえで嵯峨夕希だと思い込んでいるとでも言いたいのか」
「私からしてみればその方がずっと自然に思えるけど。いつまでも夕希に執着してる、あんたらしいじゃん」
彼女の言葉の中には銃弾ような攻撃性が含まれていて、僕の心を抉る。しかし、それは僕にあって然るべき痛みだった。いつまでも死者に囚われ続けた人間に対する、呪いだった。
「仮に他人の空似だったとして、じゃあ彼女は誰なんだ? 自分に似てる知り合いが居るっていうだけの、全く知らない男の家に転がり込んだ女だと?」
「そういう妙な人も居るんじゃないの。家でして行く当てがなかったから、自分のことを知っている風な人に話を合わせて付いて行くことにした、みたいなさ。確かに異性の部屋に転がり込むってのは相応のリスクがあるけど、家出をしてるんだからそれくらいのことは承知の上で、って感じなんじゃない」
憂花の想像は確かに一定の耐久性を持った仮定だった。非現実的な事象を起こり得ないものだと否定したうえで、どうして死んだ人間が生きているのかということを説明するにおいてはこれ以上なく辻褄のあった解釈なのだろう。
ただ、それは違うと断言をすることが出来る。
「なあ、前にかけた電話の内容。覚えてるか」
「魔法とか魔女とかの、意味の分からない話でしょ。つまり、魔法とか魔女によって夕希が甦ったって、そう言いたいの?」
「ああ」
僕が頷くと、彼女は意外にも否定するような素振りを見せずただその言葉を受け入れた。安堵よりも、諦観により見放されたのではないかという焦燥が過り、言葉を継ぐ。
「魔女を自称する人に会ったという話をしただろう。そして、彼女が夕希を甦らせてやると言ったんだ。そうした協力者が居て尚、全くの他人である僕に頼る理由はないはずだ」
「例えば、その魔女とやらにはあの子を助けることが出来るだけの余裕がなかったのかもしれない。だから、他人に頼らざるを得なかった」
「なら、どうして僕と夕希の関係を知っていたんだ? 確かに、夕希が死んだことに関しては水難事故として地方新聞の端には載ったさ。でも、顔写真まで載るようなことはなかった。もしも夕希に限りなく似ている他人が居たとして、自分と似た少女が死んだことなんて知ることが出来たはずがないだろうし、ましてや僕との関係まで知ることは出来ないだろ」
それに、僕が彼女のことを好きだったということも。他の人物に知られるはずなど、ないのだ。
「僕が夕希に執着していることは、分かってる。夕希に似た顔立ちの人を見れば、もしかしたらと縋ってしまいたくなることもあるのかもしれないとは思う。ただ、今の状況から見て似ているだけで済ませられる話じゃないだろ。魔法なんていうものが信じがたいことは分かってる。でも、そうとしか解釈の出来ない事柄が起こったなら、信じるほかにないじゃないか」
僕がそう言うと憂花は納得のいかない顔をして何かを言おうとした後で、結局言葉を飲み込んだ。これ以上言っても意味がないと見限られたのか、それとも覆すような言葉を思いつかなかったからなのかは分からない。
「廉の言葉が本当にそのまま起こったことなら、魔法だと解釈する理由も頷けるかもしれない。でも、仮に魔法なんていうものがあったとしても、私はあの子が夕希だとは思えない」
「どうして」
「どうしても何も、あんなのは夕希じゃない」
「今の彼女には記憶がないんだ。違う人に見えたとしても仕方がないだろう」
「違う。記憶とかそういう話じゃなくて、もっと根本的に彼女は夕希とは違う。分からないの?」
憂花の言葉に動揺する。彼女の言葉は、いつになく真剣な色を帯びているように思えたからだ。
「根本的に違うってどういうことだ?」
「それは、上手く説明出来ないけど、違うんだよ。決定的な何かが全部」
「曖昧な言葉を使わないでくれ。それともただ否定をしたいだけなのか?」
「違う!」
引き裂くような鋭い声が部屋の中に木霊した。彼女は何かを抑え込むようにテーブルの上に置いていた手を握り、僕の方を睨む。
「あんたにちゃんと話すように頼んだ以上、私だって誠実に話そうとしてる。でも、言葉じゃ説明出来ないことだってあるでしょ。私にとって、彼女が夕希とは違うように見えるっていうのは本当の話。ただ、どうしてって言われても分からないよ。違うとしか言えない。ごめん」
次第に声は小さくなり、彼女の顔はテーブルの方へと俯いていく。憂花の疑念に根拠はなく、あくまでも彼女自身の感覚の話に過ぎない。そう一蹴することは簡単だろう。ただ、痛々しいほど切実な態度を見ても尚無下にするのは、彼女の考えと僕の理想が相反するものであったとしても出来ないことだった。
「……記憶がなくなるような脳の障害の中には、同時に性格を変化させるようなものもある。それに、今までの自分がどのような人間だったかという記憶はアイデンティティを形成するうえで大切なものだろう。それが欠落すれば性格が変わったように思えるのも無理はないんじゃないか。憂花が感じたのは、そういうかつての夕希との齟齬なんじゃないか」
僕自身も、少なからず今の夕希と過去の夕希との間に生じた違いを感じてはいた。しかし、それは記憶を失ってしまったがゆえの影響だと納得が出来る程度の範囲に収まっている。それでも夕希が甦ったのだと憂花が信じないのは、元より懐疑的なスタンスを取っているからなのだろう。
憂花は僕の言葉に納得してはいないようだった。もう一度、僕の方を睨むと、彼女は何も言わずに席を立ち、蝉時雨の降る世界へと通じるドアの方へ向かって行く。僕はそれを止めることも出来ないまま、緩慢な動きで後を追って彼女の背中を見送る。
彼女はドアに手をかけたところで、振り返らないまま口を開いた。
「廉が何と言おうと、私はあの子を夕希とは認めない。そろそろ、目を覚ましなよ」
そう言って、僕の言葉を待たないまま、憂花は部屋を出て行った。古びたドアの軋んだ音は、僕の心の中にひどく不気味な色を落とす。
「目を覚ませ、か」
思わず、小さく呟いた。
僕は、夢を見ているのかもしれないと思う時がある。暗闇へと沈んでいくような悪夢ではなく、夕希が甦ったらという都合のいいだけの夢を見続けているだけなのではないかという不安が思考を埋めつくす時がある。
しかし、それでもいいのではないか。幸福の中に溺れて死ぬのであれば、それは悪いことではないのではないだろうか。
身を翻し、自室のドアを開けると夕希は心配そうな面持ちで部屋に這入った僕の方を見た。
「大丈夫だった?」
「ああ、何でもない。大丈夫だよ」
憂花はきっと、再び今の夕希に会ったところで拒絶をするだろう。夕希と憂花の関係にひとつの大きな溝を生んでしまったのは確かであり、もっと上手いやり方があったかもしれないという後悔に苛まれる。
「ごめん、私のせいで」
「夕希は悪くないさ。気にしないでいい」
誰も悪くはない。悪が存在するのだとすれば、僕自身の能力不足だろう。
何もかもが望んだ通りにいくわけではない。憂花との決裂は、僕にとってひとつの避けるべき最悪ではあった。ただそれでも、夕希が隣に居てくれるというだけで救われたような気持ちになるのだから、僕という人間は随分と単純な機構をしているらしい。
「あのさ、無理はしないでね。私は私の記憶を取り戻したいと思っているけど、でもそのために廉に負担をかけたりはしたくないから。今だけでも、十分に幸せだから」
それが優しい嘘だったとしても、今を幸せと言ってくれることが僕にとっては嬉しかった。だからこそ、その喜びという怯懦の中に居てはいけないのだろう。
「分かったよ、無理はしない」と答える。きっと、無理をするのだろうと思いながら。
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