女流絵師・上村松翠の退魔図録

海山 紺

序章

別れと出会い

 初恋の人が、燃え盛る炎のなかで怪しげな笑みをたたえている。


 屋敷から遠く離れた山中にひっそりと建てられた、一棟の蔵。年季の入った木造家屋はたちまち彼が放ったマッチの火で覆われ、やがて絵として封印されていた魑魅ちみ魍魎もうりょうを解放させた。


れい、どうして……」


 少女は呆気にとられ、その場にへたりと座り込むことしかできなかった。火の手があがろうが、妖たちが跋扈ばっこしようが、そんなの関係なかった。


「ごめんね、松実」


 謝罪の念など微塵も感じさせずに、二つ年上の幼馴染はいびつに口の端を吊り上げる。


「君も早くここを出たほうがいい。じゃないと、火と妖たちに喰われてしまう」


 流石の僕も君を失うのは見たくない。


 黎は身をひるがえし、背後にいた高位の妖――玄狐げんこの背に乗った。暗夜を思わせる漆黒の妖狐はゆらゆらとうごめく九尾で格子窓を突き破り、颯爽と蔵から立ち去る。


 待って。行かないで。そんな制止の言葉をかける余裕すら無かった。ただ目の前に突きつけられた現実が受け入れられなくて、松実は茫然自失としていた。


「黎……」


 これまで彼に向けられた優しい笑顔と、穏やかな日々の記憶が脳内を席巻する。


 妖が見える特異な体質ゆえの悩みや困難。それから絵を描くことが大好きだという共通の趣味を分かち合える、数少ない理解者だった。

 けれど、これまで自分が見てきた『彼』は偽りで、今はもうどこにもいない。


 音もなく両頬を悲涙が伝う。お気に入りの着物や袴、それから彼が与えてくれたリボンは灰燼で汚れ、やがて火の手に侵されそうになっていた。


 ――もういっそここで……。


 死んでしまおうか。


 希死念慮が生きる気力を奪う。もう何も考えられなくなる。

 紅蓮の炎が唸りをあげ、暗影を帯びた妖たちが不吉な笑い声を立てて松実に近づく。


 息がしづらくなって、意識も朦朧もうろうとしはじめた。視界がぼやけ、ついに上体が傾いた時――ふと、こちらを支える柔らかな感触がした。


「もう大丈夫だ」


 次いで、低く清亮な声音が鼓膜をくすぐる。


 ――誰……?


 何とか気力を振り絞って見上げると、見目麗しい青年の顔が目に映った。


 涼やかな銀髪に藤色の紫瞳。整った鼻梁と形の良い唇。それから仕立ての良い漆黒の軍服。端整という言葉では言い尽くせないほど、眼前の青年は浮世離れしていた。


 青年は松実の肩を支え自身に引き寄せてから、右手に携えていた銀灰色の刀を床板に突き刺す。すると、切っ先から波紋が広がるように薄水色の妖力が広がり、蔵内をたちまち氷漬けにした。絶対零度の冷気に炎は鎮火し、妖たちは凍てついて絶命する。 


 灼熱から極寒へと一転し、目まぐるしい状況の変化についていけず、松実はついに意識を失った。

 青年は彼女を抱えて立ち上がる。


「隊長!」


 後方から部下の呼ぶ声がして、青年ことえんは振り向いた。


「彼女を頼む」

「はっ」


 松実を部下に預け、縁は氷結した蔵のなかを改めて見渡した。百怪ひゃっかい魑魅ちみの氷像が立ち並ぶなか、そこには追跡していた標的の姿が無い。


「ちっ、遅かったか」


 縁は舌打ちし、愛刀を引き抜く。そのまま縦横無尽に振り捌いて、数多の氷刃を差し向ける。妖もろとも古蔵がばらばらに砕け散り、轟音を立てて倒壊した。

 縁は静かに納刀し、先に妖伐局の本部へと戻った部下を追った。

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女流絵師・上村松翠の退魔図録 海山 紺 @nagigami

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