事件簿1 鉄面宮の慕情 慕情2-⑴


「笛を吹く怪人……なるほど、ちょうどいい。記者君、君は幸運だ」


 宝来町の古書店『奇異話堂きいわどう』の主にして『北の藤岡屋』こと子頭研作ねとうけんさくは流介の話を聞き終えるなり、猫のような顔をほころばせた。


「ちょうどいいところ、とは?」


「僕は今、まさにその話について、想像力を膨らませていたところなのさ」


「はあ……」


「ご覧なさい机にうずたかく積まれた本の山を。興味が広がりすぎて、何について調べていたのか見失いそうだよ」


「ご主人、僕が知りたいの怪人の正体なんです。それ以外の想像は僕が帰った後にしてください」


「正体なら、わかっているさ。笛の怪人は『パーン』だよ」


「パーン?」


「パンとも言うけどね。……言っておくがパンと言っても食べもののことではないよ」


「言っておくも何も、食べ物以外に何かあるんですか」


「あるとも。希臘ギリシャの神だ。いや、神とも言いきれないのかな。好色の半獣神だ」


「好色の神ですって?」


「うん。希臘の神がこのあたりにいるわけはないが、若い娘を見繕っていることに変わりはないだろうね」


「そもそも何なのですか、その異国の神様は」


「牧羊神――つまり羊を監視する神様だね。見た目は山羊の角と獣の脚を持っていて、混乱や恐怖をもたらすとも言われている」


「不気味ですね。でもなぜ小梢さんや僕が見た怪人を、その……パーンだと?」


「笛だよ」


「笛……」


「パーンにまつわる神話に、好色なパーンが美しい精霊を追い回したという話がある。精霊は逃げ切れず川の女神に助けを求めた。精霊は女神の力で葦……竹みたいなものだね、に姿を変えたんだ。パーンは追いかけるのを止めて葦を切り取り、それで笛を作ったという」


「なんだか無茶苦茶な話だなあ」


「神話なんてそんなもんさ。パーンが葦から作った笛――パーンパイプというらしい――は実際に存在する楽器でもある。複数の切った葦の茎を束ねて、音階を奏でるものだ。記者さんが見た「怪人」の笛は、いでたちから考えても『パーンの笛』を意識した物であることは間違いないだろうね」


「ふうむ、なぜそこまで凝ったお芝居をするのかな。娘さん達を怖がらせるためかな」


「街の人々に笛の音で心を惑わせる怪人、という謎めいた印象をもたらすためにはパーンを装うのが手っ取り早かったのだろうね。つまり正体を調べようという気も萎えるくらい、不気味な存在、と思わせたかったのさ」


「しかし『踊り子を探している』という言葉の意味がわかりません。女衒か何かでしょうか」


「そこなんだが……僕は女郎部屋で育ったから色街の匂いはよく知っている。仮に遊女じゃなく芸妓の品定めだとしても、娘を口説く段取りとして笛を吹くというのは異様だ。仮に下見に来ているのだとしても、その怪人は色街の人間ではないだろうね」


「だとしたら、何をする女を探しているんです?」


「かどわかした娘が身売りの必要などない娘だとしたら、『踊り子』というのは本当に『踊り子』なのかもしれない」


「何かの舞踊ですか?」


「そうかもしれないし、巴里のムーランルージュのように舞台の上できらびやかに舞う女たちのことかもしれない」


「……にしてもですよ。仕立て屋の娘さんが一週間も家に帰っていないというのは変です」


「そこだよ記者さん。笛の音に娘さんが自分から外に出たのなら、連れ去られた先に自分の意思で居続けているのかもしれない」


「まさか阿片の類ではないでしょうね」


「ふむ、今時そんな物を使って踊り子を閉じ込めたら大騒ぎになるに決まっているよ」


 研作は「僕にわかるのは、ここまでだろうね」と言うと、本の山に目を移し「ああ、世間話などしていたせいで、どの本までが読んだ奴だかわからなくなってしまった」と嘆いた。


 話を終えた途端、頓狂なぼやきを漏らした研作に流介が呆れた、その時だった。引き戸が開いて見覚えのある人影が姿を現した。

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