事件簿1 鉄面宮の慕情 慕情1-⑷


「お久しぶりです、飛田さん。『畏怖城いふじょう』の一件以来ですね」


 傘羽流山の養女、小梢は反物を扱う手を止めると、目を細めた。


「御無沙汰しています。大十間さんからこの辺りで不審な人影が出没していると聞き、心配になって訪ねて来たのです」


「まあ、お忙しいでしょうにわざわざ……」


 店員が行方不明になった話を流介がすると、小梢は小さな顔に驚きの色を浮かべた。


「でも私のことなら心配いりませんわ。あの島で悪党から逃げ回っていたことを思えば、ここは賑わいの真ん中ですもの。誰かが見ているに決まっています」


「僕もそう思います。ですが僕や天馬君はこれまでにけしからぬ企みを秘めた連中――そう、あの坊馬のような者たちを多く見て来ました。あるいはその、あなたを……」


「隙を見て攫おうという不埒な者が、この辺りに潜んでいるかもしれないと?」


「その通りです。小梢さんは怖くないのですか? 最近はこの界隈に「怪人」が出没するともっぱらの噂です」


「別に怖くはありませんわ。劇場というのも飛田さんが危ぶむほど恐ろしい場所ではないと思います」


「そうでしょうか……」


「飛田さんがおっしゃっているのは、御物屋商店の那々ななさんのことですね?それなら心配はいりません。きっと戻って来るでしょう」


「行方不明になった娘さんは、那々さんというのですね」


「はい。この『荒海洋品店』の開店当時の店員さんで、子供の頃は外国にいらっしゃったという話です」


「外国にいた?」


「露西亜あたりからこの匣館に来たとのことですが、ご両親を亡くされてからはお兄さんが面倒を見てくれたようです」


「お兄さんが……そうですか」


 流介が商いに関わる人々の物語に思いをはせていると、ふいに荒海が「那々さんが行方不明になって以来、お兄さんが貿易をお休みして店員をしているのだそうです。 私も会ったことがありますが、頭の良い方ですよ」と言葉をはさんだ。


「妹さんの代わりに? それはできたお兄さんですね。しかしお兄さんは、妹さんのことが心配ではないのでしょうか」


「それは心配だと思いますよ。しかし馴染みのない街で二人で生き抜いてきたのですから、それなりに腹が据わっているということでしょう」


「なるほど、那々さんもしっかりした娘さんなのですね。そんな方が他の店に移られるのは、痛手だったのではないですか?」


「とんでもない。御物屋さんはお子さんがおらず、那々さんとお兄さんをいずれ養子にと考えているようです。あちらで働く方が幸せなのではないでしょうか。それに――」


 荒海はそこでいったん言葉を切ると、小梢の方をちらと見遣った。


「小梢さんのような素晴らしい感性を持った方に来てもらえたのですから、うちとしては何ひとつ不満などありません」


「なるほど、確かにそうかもしれませんね」


 それにしても、と流介は思った。人が一人行方不明になっているのに、小梢と荒海のこの落ち着きようはどうだろう。流介が拍子抜けしかけた、その時だった。


「――ん? 何か表通りの方から聞こえて来ませんか?」


「そう言えば……」


 風に乗って店の中に飛び込んできたのは、不思議な笛の音だった。


「ひょっとしてこれが「怪人」の笛?」


「飛田さん、外に出ないでください」


「やはりこの音色がそうなんですね。小梢さん、気分が悪くなったりはしませんか」


「私なら大丈夫です。……でも確かにこの音色は人の心を惑わす何かを感じます」


「何か、と言いますと?」


「わかりません。でも心の深い部分に呼びかける何かを感じるのです」


「だとしたら一層、気をつけねばなりませんね。ちょっと戸口から顔を出して外の様子を窺ってみましょう」


「飛田さん、くれぐれも気をつけて……」


 流介は店内に戻ると入り口の戸をそっと開けた。すると視界に、笛らしきものを吹きながら歩く人物の姿が飛び込んできた。


 ――なんだあれは。


 人物は上半身に枯葉色の肌着、下半身に牛のような模様がついた股引をまとっていた。そして最も奇妙なのは、耳のあたりに詰め物をした頭巾で顔全体を覆っていることだった。

 

 ――あのような異様な見た目の人物が、昼間の往来に出没するとは。


 流介は今見たものを追い払うようにぶるんと頭を振ると、そそくさと店内へ舞い戻った。

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