五章『鷹の目』――1

 城の女官に、バンシーという少女がいる。

 童女のような出で立ちでありながらどんな人間より長生きしており幼いのは外見だけ。女官たちの中では比較的新参で、長く陽の差さぬ国の北西の小さな村で暮らしていたところを、六年ほど前、リッチーの紹介で城へやってきた。

 そのバンシーにサキュバスが声を掛けられたのは、魔王の死から二日後の朝、いつも通り使用人たちが朝食や掲示板の確認のため待機室へ集まっている午前の早い時間のことであった。

「女官長~、シャノン先輩から伝言です~」

 どんな時でものんびり屋の彼女の、間延びした声でそう言われた時、コーヒーに三つ目の角砂糖を入れているところだったサキュバスは、そういえば今朝はシャノンの姿が見当たらないな、と不思議に思った。

 昨日の朝もいつもよりは遅い時間にここへやってきた彼女だったけれど、今日はその時間を過ぎても現れない。

 珍しいといえば珍しい。

 まあ彼女もまだ十八歳、長命の者が多い魔族の尺度のみならず人間の勘定でも少女に分類される年齢である。たまの寝坊くらいサキュバスだって大目に見るが、直近の大事件とシャノンの出自を考えると少し心配になってしまう。昨日は大丈夫そうな顔をしていたけれど、やっぱり心の傷は大きいのではないか。

 けれど伝言を寄越してきたということは何かしら用事があるということで、何かをしようという活力が失われていない証拠でもある。一旦その理屈で安心することにして、サキュバスはバンシーに伝言の内容を尋ねた。

「えっとですね~? 例のお姫様の件で話がある、ちょっと書庫まで来てくれないかって言ってました~」

「書庫? どうしてまた……」

「さあ~? シャノン先輩、たまに何考えてるかわかんないですから~」

 シャノンが聞いたら怒るだろう。

 わたしなんかより姫様の方がわけわかんないです、とか言いながら頬を膨らませる様が容易に想像できる。なお、サキュバスも実際その通りだと思う。そう頻繁に顔を合わせているわけではないが、水蓮姫の掴みどころのなさは中々他では見られないレベルだろう。

 もっともそれと八年も一緒に過ごして、主従でありながら友達ですと公言できるような関係を築いているシャノンも大概ではあるのだが。

 程度が水蓮姫の方が重いというだけで、シャノンも変わり者だ。

「要件は分かったわ。……ちなみに、急いでそうだった?」

「ん~、別に、ですかね~」

「そうなの? ……本当になにかしら」

「探し物ですかね~?」

「それなら私よりケットシー様を頼りそうなものだけれど。ありがとうバンシー、後で行ってみるわね」

「は~い、お願いします~」

 バンシーはひらひらと手を振りながら去って行った。

 それを見送りながら四つ目の角砂糖を手に取り、やっぱりやめて、いつもよりわずかに苦めのコーヒーを味わうことにする。

 昨日の夜。

 デュラハンの突然の出頭から、どうも城全体にどこかきな臭い雰囲気が流れているようにサキュバスには思えていた。メイドや料理人などの使用人にはあまり関わりのないことで、いつも通りに過ごしている者も多いのだけれど、政治にかかわる文官やそもそも彼の部下であった武官たちの間で、良からぬ噂の気配がある。

 といっても、具体的な噂ではない。デュラハンの自白を信じるか信じないか、という議論から派生して、魔王の死の真相について好き放題に予想し合う連中が現れた。そういう輩は得てして無根拠な想像をあたかも事実のように語るもので、結果、尾ひれ背びれがついた様々な憶測が噂という形で人々の口から口へ飛び回っている、というわけだ。

 早く収まってくれればいいと切に願うが、はたしてどうなることやら。

 コーヒーを飲み終えたサキュバスは、掲示板に書かれていた『リネン室の一番奥のアイロン台が壊れています、使用は控えて』という書き込みの上から二重線を引き『昨晩対応済。正午には復旧』と但し書きを添え、待機室を後にした。

 一階の書庫を目指し、換気のために時折窓を開けながら廊下を歩く。

 今日は良い天気だ。

 陽の差さぬ国、と人間は自分達の国を呼んでいるそうだが、同じ星の反対側だからって太陽が昇らないわけがない。昼夜が逆転しているだけで、魔王城にも陽光は降り注ぐ。気候的に、雲一つない快晴の空が珍しいことは確かだけれど、ただただ青ばかりが広がるよりも多少は形の様々な雲が浮かんでいた方が見栄えがよいだろう。

 王が死んでも、国は回り続ける。

 それを寂しいと捉えるかロマンチックと捉えるかは人それぞれだが、サキュバスはどちらかと言えば後者だった。

 尊敬に値する主君の死は無論彼女にとっても痛ましい出来事だけれど、こうして彼が遺した城の中で、彼を愛し彼に愛された人々が変わらぬ営みを続けている。日常という名のこの風景が見たかったから、亡き魔王はバラバラにいがみ合っていた魔族を統一し平和な国を作ろうと決意したのではないだろうか。

 少々センチメンタルになりすぎているな、と苦笑いしながらサキュバスが城の中央階段に差し掛かった時。

 眼鏡をかけた猫とすれ違った。

「――おや、おはようございますサキュバスさん」

「ケットシー様。おはようございます」

「ふふふ、実はこれから寝るところにゃんですよ、ただでさえ忙しかったところにあの爆弾ですからにぇ、寝る暇がにゃかったんです」

「お疲れ様です。ごゆっくりお休みください」

 微笑みと共に一礼し見送ろうとしたところで、はたと気づく。

「ケットシー様、つかぬ事をお伺いしてもよろしいですか」

「おや、にゃにか?」

「シャノンを見かけませんでしたか?」

「シャノン? というと……ああ、陛下がお造りになられたホムンクルスの女の子ですにぇ? 今は水蓮姫のお世話係をしてるという」

「はい。彼女が書庫にいると伺ったのですが、ケットシー様がこちらにおられるということは、今、書庫には鍵がかけられているのではないかと思いまして」

「いいえ、鍵はかけてませんよ」

「では、中に?」

「それもいいえですにぇ。今、書庫には誰もいにゃいはずです」

「……それではなぜ施錠をしないままに?」

「つい先ほどリッチー様がいらっしゃいまして。後で読みたい本があるからまた来る、しばらく開けておいてくれと頼まれたのです。にゃので、そのままにしておきました。まあ、二時間くらいしたら副管理人が来るはずにゃので、無人にゃのは一時だけです」

「左様ですか……」

 なんだか分からなくなってきた。

 徹夜明けのケットシーをいつまでも立ち話に突き合わせては申し訳ないので、ありがとうございましたと礼を言ってその場を離れる。

 なんで無人の書庫にわざわざ自分を呼び出したのだろう。

 首を捻りながら目的地にたどり着いたサキュバスは、音を立てないように扉を開閉して中に入ってみるけれど、ケットシーの言葉通り、やはり、誰も居ない。

 書架の立ち並ぶ書庫内は一目見渡した程度では隅々まで把握できないとはいえ、人の気配が全くしない。特にリッチーがいるならば、彼の垂れ流している瘴気が棚の上からでも見え隠れしそうなものなのに、それすら見当たらない。

 ――どういうことなのかしら。

 一度引き返すべきか。

 状況が不透明過ぎてサキュバスは踵を返しかけたが、

「あ、リーダー!」

 バタン、と無遠慮な音を立てて、呼び出した張本人であるシャノンが駆け込んできた。

「ありがとうございます、いいタイミングです」

「タイミング?」

「人づてに呼びつけておきながら待たせちゃって申し訳ないです。ちょっと次の仕込みに時間とられちゃって」

「仕込み?」

「あ、そうだリーダー。これ渡しときますね。サラマンダー様にもらった魔石です、持っといてください」

「サラマンダー様に?」

「えーっと、あとは――」

「ちょ、ちょっとシャノン?」

 いい加減にしてくれ、と彼女の両肩をがっしり掴んで、目を合わせて頼む。

「説明して。私は、あなたが水蓮姫様のことで相談したいことがあるらしい、ってバンシーから聞いてここにきているのよ?」

「え、バンシーちゃんそんなこと言ってたんですか?」

「……はい?」

「私が頼んだ伝言って、『姫様からの指示です、詳細は尋ねないでとりあえず来てください』だったんですけど……」

 話が違うじゃないか。

 バンシー。どう聞き間違えたらああなるんだ。

 いいけれど、別に。どのみち来てしまっているわけだし。

「あー、バンシーちゃんそういうとこあるからなぁ……」

 たはは、とシャノンは困り顔で笑った。

「安心してください、リーダー。説明はします。だけどちょっとだけ待ってください」

「……一応、これでも忙しい体なのだけれど」

「分かってます。けどもう一人、ゲストが来ないと説明を始めるわけにはいかないんです。同じ話を二回も聞きたくないでしょう?」

「ゲスト?」

 サキュバスが首を傾げるのと同時に、

「――シャノン」

 彼女は現れた。

 凛とした声からは驚愕と、微かな警戒が伺える。入口を背にして立っているサキュバスには闖入者の姿が見えていない。が、一言でも聞けば、彼女が誰なのかすぐに分かる。

「リッチーに言われて来てみれば、まさか、貴女がいるなんてね」

「驚きました?」

「ええ。昨日の今日でどういうつもりかしら。サキュバスの様子を見るに、私たち二人をここに呼び出したのは貴女……いや、違うわね。貴女はこういう小細工じみたことをする子じゃない。アイリスの差し金ね」

 カツカツとサキュバスの隣に歩み寄りシャノンを見下ろす背の高い女性――ヴァンパイアは、眉をひそめてため息をついた。

「とりあえず座りませんか。ヴァンパイア様も、リーダーも」

 サキュバスはその様子をハラハラしながら眺めていた。

 要人の中の要人であるヴァンパイア相手に、手のかかる妹みたいな子だと思っていたシャノンが物怖じせず口を利いている。物怖じせず、というのは大分気を使った表現で、ズケズケと、といった方がニュアンスは正しいだろう。普段なら失礼だと叱るところだが、目の前の猫耳の少女の堂々とした態度には小言を躊躇わせる圧力があった。

 開き直っている――まるで水蓮姫のように。

「……ええ、そうしましょうか。サキュバス、貴女もそれでいいわね」

「は、はあ。ヴァンパイア様がそうおっしゃるのでしたら……」

 シャノンに促されるまま、二人は手近なテーブルを選んで隣り合って座った。

 向かいに、シャノンが腰を下ろす。

「聞いてください。実は、こういうわけなんです」

 彼女は語りだした。

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