四章『狂言』――3
のろのろと、螺旋階段を登る。
夜の幽獄塔は、昼以上に光が乏しい。元を正せば監獄なのだから当然とはいえ、階段にはろくな照明が存在せず、日中は頼りになった吹き抜けから差す陽光も今は無い。
シャノンが手に持つ小さなランタンがかろうじて足元を照らしており、だから本来なら彼女が先を歩いてアイリスを導くべきなのだろうが、実際は逆にアイリスが前を進んでいる。追い越そうと思えば可能なのだろうけれど、ゆらゆらと力なく左右に揺れる背中とそれに従ってなびく髪が無言のままにそれを拒否しているように見え、シャノンは彼女のペースに合わせてついていくしかなかった。
……ここに来るまで、普通ならあり得ないほどの時間がかかっている。
あの後先に正気を取り戻したのはシャノンの方だった。
通行証を失ったからには幽獄塔に帰る以外の選択肢はなく、茫然と突っ立っているアイリスの手を取ってそうしようと告げた。するとその瞬間、抜け殻だった彼女の両目から数滴の涙がこぼれ落ち、ごめん、ごめんと繰り返しながらギュッと目を閉じたアイリスはその場に座り込んでしまった。
かけるべき言葉が見当たらず、またそれ以上に、泣きながら縮こまるアイリスの痛々しい姿を見続けることに耐えられず、明かりを取ってくることを口実に一旦シャノンはアイリスをその場に残し、使用人の休憩室の近くにある備品置き場へ向かった。
ランタンを取って戻ってき頃には多少アイリスも持ち直しており、行こうか、と小さく呟くと返事を待たずに歩き出した。目の焦点が合わないまま幽鬼のような足取りで体を引きずる彼女を追いかけて、しかし前述の通り追い越そうという気にはなれないまま、やっとの思いで幽獄塔までたどり着いた。
そこから階段を登り始めて、既に五分以上が過ぎている。
いつものシャノンだったらとっくに上り終えているのだけれど、今の彼女たちはまだ真ん中付近にいた。
「あっ」
後ろ足を上げた拍子に、アイリスがバランスを崩す。
「――姫様ッ!」
ぐらり、と後ろに重心が傾いてそのまま転がり落ちそうになったアイリスを、シャノンはランタンを放り捨てて受け止めた。とっさに壁に向かって投げたのはファインプレーだった、もし吹き抜けの側に放っていたら明かりを失うところだった。
「大丈夫ですか、姫様!」
抱きとめたアイリスの顔を覗き込んで呼びかけた。
生気の失せた瞳が見つめ返してくる。
「……ごめん」
「ちょっと休みましょう。見てられませんよ」
「……うん。そうする」
二人は階段に腰を下ろしす。
手を伸ばせば届く位置に落ちていたランタンをシャノンは引き寄せ膝に乗せた。
「姫様」
「……なに?」
シャノンには、隣に座るアイリスの横顔が見えている。彼女はまだ目を合わせる気にはなれていないようだが、それでも返事をしてくれてホッとした。声も、さっき――歩き出した時に比べると、いくらか張りが戻っているように思う。
それなら、とシャノンは思った。
少し喋ろう。
「わたしのためだったんですね。ヴァンパイア様のお願いを引き受けたのって」
アイリスは頷きもしない。
それでいい。返答なんか期待していない。
「いくら姫様が頭いいからって、あんな即答はやっぱりできませんよ――今にして思えば、ですけど。あの時姫様は、政治的なあれこれとか損得勘定とか実は全く考えてなくて、わたしの製作者が……生みの親が殺されたから、ってだけで了解したんでしょ?」
「……」
「それが嬉しいかって言われたら、ちょっと複雑です。姫様がわたしのために一肌脱いでくれたことはありがたいなぁって思いますけど、逆に、わたしのことで姫様に頑張らせちゃったことが申し訳なくて」
「……」
「だからね、姫様。あんまり責めないでください。自分のことも、ヴァンパイア様のことも。確かにこんな幕切れはわたしも不本意ですけど、ある意味、仕方ないことだって思えます。皆が、それぞれにとって一番いい結末を目指した結果、今回はこうなった。そう思えば諦めもつく気がするんです」
「……シャノン」
「わたしは平気です。姫様が心配してたことにはなりません。約束します、わたしは――」
「だめ」
知らぬ間にアイリスと目が合っていた。
いつ彼女はこちらを向いたのだろう。
「だめだよ、シャノン」
「……姫様?」
「そんな顔で、平気だなんて言っちゃだめだよ」
「えー? そんな顔って言われても、これが普通の顔ですよ」
「そう。普通の顔。いつも通りの顔。なんでもない日の、特別じゃない顔」
「ですよ。それの何がいけないんです?」
「シャノン。自分の父親が死んで、昨日と同じ顔ができる人はいないよ」
父親じゃありません、造物主です――そんな言葉が飛び出しかけた口を、反射的にシャノンは手のひらで抑えた。
――何を言おうとした?
――姫様の間違いを訂正しようとした。
ホムンクルスはあくまで命の模造品、被造物に過ぎない。製作者は親ではない。
客観的にはそれが事実だろう。しかし、今、そんな杓子定規な定義を強調することに何か意味があるか? さっき自分で口にしていたではないか――生みの親、と。他ならぬシャノン自身が、そう思っていたはずではないか。
なぜ、否定する?
何から目を逸らしたがっている?
――間違っているのは、どっちだ。
「最初に泣き方が分からなくなる。私もそうだったかな」
「いや、姫様。違います、これは」
「違わないよ。他に考えないといけないことがあるから、やらないといけないことがあるから。そう自分に言い聞かせて、認めたフリして受け入れた気になって、一番向き合わなくちゃいけないことから逃げようとする。……同じだよ、シャノン。私と、まったく同じ」
「でも――わっ!?」
ふいに、アイリスの手がシャノンの両肩に伸びた。
ふわり、と透明な長い髪が顔にかかり、くっついた胸から彼女の鼓動が伝わってくる。背中に回された腕から感じる温かさと、押さえつけられているような微かな息苦しさ。
ワンテンポ遅れて、シャノンはアイリスに抱きしめられていることに気が付いた。
「悲しい時に泣けなくなると、楽しい時に笑えなくなる」
耳元で、アイリスが囁く。
その声はわずかに震えていた。
「シャノンにそうなって欲しくないんだよ。覚えてるでしょう? 出会ったばかりの頃の、私のことを。嬉しい、苦しい、辛い、寂しい。そういうの全部捨てちゃって、憎いと怖いだけをめいっぱい詰め込んでた、あの頃の私を」
「……ええ、もちろん」
「シャノンがずっと隣にいてくれたから、八年かけてようやくここまで取り戻せた。でも、ごめんね。私はあなたに、同じことをしてあげられないんだ。シャノンの気持ちが壊れた時、私じゃ力になれないんだ」
回された腕に、力がこもった。
「だから――だからね」
ランタンを置いて。
シャノンもお返しに、アイリスの背なかに両手を伸ばす。
「仕方ない、だなんて冷たい嘘を言わないで。平気、だなんて酷い強がりを言わないで。泣きたいなら泣いて、叫びたいなら叫んで、私みたいにならないで。――ねえシャノン、あなたは今、どんな気持ちでここにいるの?」
その質問には、答えられない。
「……相変わらず、ズルばっかりです」
「……ごめん」
「どうしてくれるんですか、昨日からずっと我慢してたのに。こんなことされたらこらえるのがバカらしくなっちゃいますよ」
この感情を何と呼ぶのか、シャノンは知らない。とても一言では言い表せない、一言にしてはいけない、初めての感情だった。
「おかしいなぁ、なんで泣いてるんだろう、わたし。ちっとも分からないのに、全然止まってくれないや」
「……いいんだよ。それで、いいの」
「ちっとも良くないですよ。かっこ悪い」
この世で目を開いた時のこと、初めて言葉を使った時のこと。手を引かれ歩いた知らない城の知らない廊下、最初に飲んだスープの味。たまたまテラスで休んでいたあの人を見かけて、思わず声をかけた去りし日の昼下がり。
自分に役割ができたあの日の大広間。笑っていたあの人と仏頂面の少女。あれから何度となく繰り返してきたさりげない日々と、いつか聞いてもらおうと思って大事に覚えていたありふれた思い出。
あの人が死んだと聞いた朝の空の色。
その夜に見た、二度と叶わない泡沫の夢。
アイリスの肩に温かい雫を零すたび、仕舞っていた過去が蘇る。
……一体どれだけの時間、彼女に甘えていただろう。
十分か。二十分か。ひょっとしたら一時間くらい経ってしまっているんじゃないか。時間感覚なんかすっかり忘れて、シャノンは記憶の旅を駆け抜ける。
やがて最後の一滴がこぼれ落ちて、ゆっくりとシャノンはアイリスから手を離した。
「――帰りましょう、姫様。濡れちゃったドレスを着替えないと」
「いいよ。今日はもうやることもないし」
二人は立ち上がった。
今度はシャノンが前に立って、螺旋階段を再び上り始める。泣きはらした顔で見上げた吹き抜けの空がなぜか少し誇らしい。
思い描いた通りの一日ではなかった。
さっきまで割り切ったつもりになっていたけれど、今はそれがとても悔しい。自分たちの目の前に横たわる現実のままならなさは、直視すればするほど憎たらしい。
終点に辿り着いたとき、シャノンは自然と笑っていた。
自分にはアイリスがいる。後ろ向きかもしれないけれど、憤りや苛立ちを共有してくれる相手がいる。
部屋に戻ったら思いっきり愚痴を聞いてもらおう。きっとアイリスも山ほど鬱憤がたまっているだろうし、二人で気が済むまで文句を言い合って、眠くなったらそのまんま寝る。どれだけ汚い言葉を使おうが大声で喚こうが咎める人は誰もいない。好き放題心の泥を吐き出して、新しい朝を迎えよう。
そうだ。
自分達にはまだ明日があるのだ。
仮に今この瞬間が納得いくものでないとしても悲観しすぎる必要なんかない。希望へ続く道はいくらでもある。たとえそれがシャノン一人では掴みとれない未来だったとしても、アイリスと一緒なら。
決意とも呼べそうな心意気で、シャノンは幽獄塔最上階の扉を押し開いた。
そして。
「……遅いご帰宅だ。水蓮姫」
誰もいないはずの部屋には、既に明かりが灯っていた。
二人は目を見張る。
部屋の中央、丸テーブルに添えられた猫足の椅子に座って、黒いローブに身を包んだ小柄な怪人が待ち構えていた。
アイリスにとっては馴染みが薄いかもしれないけれど、シャノンには――いや、魔王城の住人であれば彼のことは誰もが知っている。
「ネクロマンサー様……?」
小さく、怪人は頷いた。
夜は、まだ終わらない。
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