四章『狂言』――1

 食事室を出たヴァンパイアは、自らの執務室に戻るため廊下を歩いていたが、その足取りはひどく鈍かった。

 気分が悪い。

 単に気が重いというだけでなく、具体的な吐き気すら感じる。どうしてそうなったのか考えるまでもないが、原因が分かり切っていることすら彼女には不快だった。

ヴァンパイアは執政官だ。公私を切り替えることさえできれば、蔑みと怒りではなく打算と計画に従って目の前の現実と対峙することができる。自分にはそういう能力があるのだと、彼女自身が知っている。

 だが今は無理だ。

 一歩一歩足を動かすたび、新鮮な負の感情が腹の底から湧いてくる。この衝動を全て抑え込むのは、彼女にとっても容易いことではない。

 少しでいい、時間が欲しい。

「――執政官閣下!」

 背後で大きな音と共に扉が開かれ、飛び出してきた人物が叫んだ。

 ――ああ、やっぱり。

 ヴァンパイアは立ち止まらない。

 何を言いたいかは分かっている。だから何も言わないでくれ。心の中でそう願うけれど、そんなことを口にする資格がないことも承知している。彼女に今できることは、冷徹を装って無視を演出することだけだ。

 その程度では逃がしてくれないと知っていたとしても。

「待ってください姫様! ダメですって!」

「――聞こえているのでしょう、執政官!」

 やがて声の主――水蓮姫アイリスが、ヴァンパイアを後ろから追い越して目の前に立ちはだかる。

 普段の涼し気な彼女からは想像できない、苛烈な形相で。

 梟の目でも鷹の目でもなく、怒れる人間の目を携えて、ヴァンパイアと対峙する。

「退きなさい、アイリス」

「断る」

「命令よアイリス。道を開けなさい」

「その脅しの無意味さに気づかない貴女ではないでしょう」

 ヴァンパイアはため息をついた。

 言われるまでもないことだ。

「……そうね。言って引き下がる貴女じゃないわね」

「なぜ信じたのです」

 面倒なやり取りは無用。

 彼女の眼差しが、語気が、余計な言葉を許さない。

「……」

「聞こえなかったのならもう一度、何度でも繰り返しましょう。なぜ信じたのです――信じることにしたのです。あの男の言葉に何一つ真実など含まれていないことを、貴女が理解していなかったはずがないというのに」

 ヴァンパイアの脇を、小柄なメイドの少女が駆け抜けていく。アイリスの隣で立ち止まって何かを言いかけた彼女だったが、それより早くアイリスの瞳だけがギロリと動いた。睨まれた少女は思わず息を飲み、言葉を紡ぐ機会を失う。

 力なく一歩後ずさった友人を見て、アイリスの口元に影が落ちる。

 しかしそれも一瞬のことだった。

「答えてください、執政官」

 地の底に響くような彼女の声から、覇気が失われることはない。

「甘言を呑み込み是とした、その理由を」

「――それで解決するからよ」

 ヴァンパイアは答えた。

 アイリスの表情は微動だにしない。

「彼は自首した。自らを罪人と認めた。奴を収監し然るべき手続きの後処刑すれば、この事件に幕を引くことができる。未来への道を塞ぐ大岩は、たったそれだけで取り除かれる」

「……愚かな」

「何とでも言えばいいわ。でもねアイリス、貴女が成果を上げるという保証はどこにもないのよ。ベターだけれど不確かな結末より、ワーストでも確実な解決策を取る。私たちに失敗は許されていないのだから」

「――巫山戯るなッ!」

 窓ガラスが震えるほどの大声に、メイドの少女が竦み上がる。

 きっと彼女にとっても初めてなのだろう。水蓮姫の心からの怒声は。

「失敗は許されない、だと? 先刻の貴女の行動のどこに失敗でない箇所があったというつもりだッ! ――知らないのであれば教えてやろう、奸賊の用意した甘い毒林檎に手を伸ばし、偽りと欺瞞だけが煮えたぎる窯の中に誇りと信頼を投げ捨てることを、誰一人として成功とは呼ばないのだ、執政官!」

「……かもしれないわね」

「分かっていながらッ!」

「それでも構わないのよ」

 喉がズタズタに千切られているような気分で、ヴァンパイアは言う。

 徹底して、演じる。

「たとえ事実と違っていたとしても、それで前に進めるならば構わない。過去の嘘は、いずれ未来の成果で清算される」

 アイリスの全身の毛が逆立つのが傍目にもわかった。

「もう一度言ってみろッ!」

 傍らの友を指さして、アイリスは怒鳴った。

「彼女に、同じことを言ってみろッ! 魔王の死を、遺志を、名誉を、都合のいい虚構の彼方に追いやって背を向けることが未来のためだと、彼女の――シャノンの目を見て、同じことを言ってみろッ!」

 今にも泣きだしそうな声だった。

 いや、既に泣いているのか。赤くなった目尻に小さな水滴を浮かべながら、喉が張り裂けるくらいにアイリスは叫ぶ。

「――彼女が父と呼べる存在は、あの魔王しかいないんだッ!」



※   ※   ※



 ホムンクルス。

 彼らは正確には生きてはいない。

 鼓動をするし、呼吸もするし、食事や排泄、睡眠など、生命活動に必要な行動は一通り行うけれど、それらは彼らの肉体――人工的に作られた極めて生物に近い人形に備わった機能でしかない。

 死体と同じだ。

 欠損のない死体の心臓を無理やり動かしても命が戻らないのと同じように、形を作っただけでは意味がない。

 魂を吹き込む必要がある。

方法は主に二つあって、他者から魂を抜き取って移植する方法と、魔術で一から贋作を作る方法とがあるのだけれど、いずれにせよ、身体が身体として作動するためのシステムを組み込まなければホムンクルスは動かない。

 そうやって作り出される彼らは、その構造上魔力が尽きた瞬間に死を迎える。魂を定着させていた術式が無くなって肉体との接続を維持できなくなるか、魔術で形成された魂を模した魔力の塊が消え去るか――魔力の枯渇がシステムの崩壊を招き、生命活動の真似事ができなくなるのである。

 まあ、生きていない彼らに死という概念を当てはめるのもおかしな話ではあるが、すべての動作を停止して二度と再起動することがなくなる現象のことは、死と呼んでも間違いではないだろう。

 とにかくホムンクルスとはそういう存在であり――魔王がそれに興味を示したのが、今から十八年前のことであった。

 魔王は怠惰ではなかったが、かといって常に新しいものへの食指を伸ばすタイプというわけでもなかった。そんな彼がどうして急に、今まで見向きもしていなかったホムンクルスなんかを気にし始めたのだろう。

 周囲の怪訝な眼差しを意に介さず、魔王は本を読んだり、魔術に造詣の深い魔族――主にネクロマンサーのことだ――から話を聞いたりして、ホムンクルスへの理解を深めていった。

 そうして、半年が過ぎた頃。

 魔王は一人のホムンクルスを作り出した。

 猫の耳と、三本の狐の尾を持ったか弱い魔族の少女――魔王の被造物だけあってその出来栄えは素晴らしいものだったけれど、臣下たちの疑問は深まるばかりだった。

 なぜそんなものが必要なのか? 耐えかねず直接尋ねた者もあったそうだが、魔王はその質問には答えなかった。

 さらに不可解だったのは、魔王がそのホムンクルスを手元に置かなかったことである。

 普通、ホムンクルスは何かしらの目的を持って作成される。そうでなければ、高度で複雑な魔術を学んでまで生き人形を作ろうとは思わない。召使いとして、話し相手として、ペットとして。場合によって事情は様々だが、何かしらの意図は必ずある。

 しかし魔王は、出来上がったホムンクルスに役割を与えようとしなかった。

 それどころか、この子が城で生きていけるよう手配してくれ、とヴァンパイアに丸投げしてしまったのである。

 完全に関心を失ってしまったわけではなくて、たまに様子を気にしてはいたようだけれど、城の中で過ごすそのホムンクルスに積極的に関わろうとはせず、ましてや何かをさせようとはしなかった。十年の時を経てとある虜囚の世話係を命じるまで、放任主義を貫いた。

 ――自分は何のために生まれてきたのだろう。

 今でもホムンクルスは――シャノン、という愛称を与えられた少女は時折考える。

 一度、聞いてみたいと思っていた。

 作ってみたかっただけ、とか、ただの暇つぶし、とか、そういう酷い答えが返ってきても構わなかった。何でもいいから理由を知りたくて、そして、ありがとうと伝えたかった。

紛い物でも命をくれたこと、ずっと見守ってくれていたこと。……友達に出会わせてくれたこと。気恥ずかしくて、中々面と向かって声にする勇気は出なかったけれど、いつか、全部まとめてお礼を言うんだと心に決めていた。

 そして、もし叶うなら。

冗談でもいいから、父さんと呼んでみたかった。

 ホムンクルスは血を分けた子どもではなく被造物に過ぎず、造物主を父親扱いするのは筋違いの思い上がりだということくらいシャノンにだってわかっている。でも、自分をこの世に生み出してくれた人のことを親と呼ぶのは間違っていないはずだし、それ以上に、魔王がどんな顔をするのか見てみたいという気持ちが大きかった。

 照れくさそうに笑うだろうか。

 呆れてため息をつくだろうか。

 ちょっと怒るかもしれないし、案外感動で泣いてくれるかもしれない。

 どれもあり得そうで正解は分からないけれど、どの想像の中でも魔王は楽しそうだった。都合のいい妄想と言えばそれまでで、しかし実際に確かめるまではそれでいい――それでよかった。

 ……もう、全てが過去形だ。

 今は――今のシャノンには。

届けたい言葉が、ごめんなさい以外思いつけないでいる。



※   ※   ※



「……親を殺された子どもが――そしてその真実すら奪われた子どもがどうなるか、私は良く知っています」

 シャノンの目の前で、アイリスが肩を震わせている。

 その姿は、どこか飄々としているいつもの彼女からあまりにもかけ離れていて、できることなら目を背けたいくらいだった。

 けれど、自分だけはそれをしてはいけないような気がして、シャノンは唇を強く結んでただ先を待つ。

「壊れるんですよ。信じられるものが何もなくなって、目に映る者は全て敵になって。だけどそんな内面を悟られたら隙になってしまうから、上辺を取り繕う方法を学んで、使って、使い倒して、いつの間にか自分がどんな顔をしていたのかすら忘れてしまう。……そしてある朝、忘れたことすら忘れた頃、鏡の前で気付くんです――知らない誰かがそこにいる、って」

 一歩。

 さっき後ずさった分、もう一歩。シャノンは友達に近づいた。

支えてあげないと、倒れてしまいそうな気がしたから。

「……私は覚えてる。首の折れた母の死体も、涙一つ流さずそれを埋葬した父の面倒くさそうなため息も、お気の毒にと言って嗤った叔父の顔も、何も知らないとシラを切った使用人たちの陰口も! 全部、全部!」

「……アイリス、あなた――」

「消えないんですよ! あれからずっと! 十三年経った今も、瞼を閉じれば何度でもあの日が蘇る。積み上げてきた時間は確かに心の痛みを癒してくれた、だけど元通りにはしてくれなかった!」

 アイリスは顔を上げてヴァンパイアを睨みつける。

 しかしその目には、気迫や凄みは欠片もない。公園の隅で泣いている、一人ぼっちの少女がいるだけだ。

「……あんな醜い日々を味わうのは、私一人で十分ですよ。腐った笑顔で這いまわった地べたの感覚を知っているのは私だけでいい」

 姫様、とシャノンはアイリスに呼びかけた――つもりだった。

 けれど、口を開けて舌動かしたのに全然音が出てくれなくて、今にも崩れそうな背中にその声が届くことはなかった。

「貴女はシャノンに、同じ思いをさせるつもりなんですか。他でもない、彼女に今の呼び名を与えた貴女が、そんな惨い真似をしようというのですか……?」

 ヴァンパイアは答えた。

 突き放すように、素っ気なく。

「それとこれとは別の問題よ」

「……っ」

「申し訳ないとは思うわ。貴女にもシャノンにもね。でも私の考えは変わらない。私個人の感情は、私の行動を変える理由にはならない」

「貴女は――ッ」

「正しいのはそっちよ、アイリス。非難されるべきは私で、貴女たちには私を蔑む権利があるのでしょう。でもね。間違っているだけでは失敗にならないし、正しいだけでも成功にはならないのよ」

「……どうしてそこまで……」

「ここまでよ。もう言うべきことも尽きたでしょう」

 パチン、とヴァンパイアが指を鳴らす。

 呼応するように、シャノンのメイド服のポケットから一枚の紙が宙へ躍り出る。三つ折りに折りたたまれた書簡は一直線にアイリスの横を通り抜け、ヴァンパイアの右手の中へするりと納まった。

 今日の午後、ヴァンパイアがアイリスに渡した通行証。

 城内でアイリスを連れ回すにあたってシャノンが持ち歩いていたそれが発行者の手元に戻ったということは、つまり。

「これも、もう必要ないわね」

 無造作に、眉一つ動かさず、ヴァンパイアは書状を破り捨てた。

「想定外で後味の悪い結末だったけれど、力を貸してくれたことには感謝しておくわ。お疲れ様、アイリス。部屋に戻ってゆっくり休んでちょうだい。――シャノン、案内は頼んだわよ」

 ヴァンパイアは歩き出す。

 アイリスは引き留めようとしない――どころか、すれ違うヴァンパイアの姿を目で追う気力すら、今の彼女には残っていないようだった。

 カツン、カツンと背後で響くハイヒールの音。

 やけに耳に残るその音が遠のいて消えるまで、シャノンもアイリスも、指先一つ動かそうとせず、寒々とした夜の廊下に立ち尽くすばかりであった。

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