三章『寝室』――4
ひょっとすると城下町の下宿と勘違いしそうになるくらいに質素な空間だった。
ほぼ正方形のその部屋の壁は綺麗に東西南北を向いており、東側の壁には出入口が、対する西側の壁には窓がある。北側の壁にぴったりくっつけるように、人間なら二人は横になれそうな天蓋付きのベッドが設えてあり、南側の壁には、人間のどの地域の言葉にも該当しない文字で書かれた書冊が詰められた本棚と、数本の酒瓶と意匠や大きさの異なるいくつかのグラスが収められたガラス棚が、隣り合って鎮座している。
あまり、広い部屋とは言えない。
床に敷かれたカーペットや窓にかかるカーテンなど、調度品はそれぞれ、幽獄塔でアイリスが使っていたもの以上の、超一級品であることは見ればわかる。しかしながら、いかに上等な家具をそろえてあったとしても、壁に一枚の絵もなく、書き物机すらないこの空間に華麗さを見出すことはできない。
もし、この空間の主が好き好んでこのような内装にしたのであれば、おそらく落ち着きというただ一点のみを求めていたに違いない。夜、気に入った本と酒を片手に眠る前の一時を過ごす、それだけに価値を見出しこの部屋をデザインした、としか思えない。
それが証拠、とばかりに、物が少ない中にも、ベッドの枕元にサイドテーブルがあり、その横に揺り椅子が所在なさげに佇んでいる。木で作られた暖かい雰囲気のその椅子に腰を下ろし、サイドテーブルの上にグラスを、膝の上に本を置いて、この部屋の住人は穏やかに流れる時間を楽しんでいたのだろう。
ここが――アイリスの目が微かに細まる。
城の最上階にある四つの部屋の一つ、とシャノンに案内された、ここが……。
「亡き陛下の御寝所――ですか」
「左様であります」
開け放たれた部屋の扉から中を覗き込み、誰とも視線を合わせることなく放られたアイリスの質問に答えたのは、すぐそばに控えているはずのシャノンではなかった。
三つ首の番犬、ケルベロスである。
魔王城の警備責任者である彼は、主が居なくなろうが己の職責は変わらない、として、魔王の寝室の扉の前に立って番をしていた。
ひょっとすると犯人が現場に戻ってくる可能性もある、と半ば期待しての行動であったが、しかし現れたのは、どう見てもそうとは思えないお姫様に、帯同するサキュバスの妹分。
これが噂の水蓮姫だな、とケルベロスはすぐに気が付いた。彼女がヴァンパイアの要請を受けて魔王の死の真相を探っていることは、ケルベロスを含む一部には周知されている。
だから、案の定、アイリスが「部屋の中を見たい」と頼んだ時、彼は面倒な問答は抜きにして「小官の立ち合いの元でなら」と即答できたのだった。
「……部屋の扉に鍵がありませんね」
今、自分の手で開けたばかりの扉のドアノブを意味もなく何度かひねりながら、アイリスがつぶやく。
「出入り自由……ってわけじゃないよね?」
「当たり前じゃないですか」
今度はケルベロスではなくシャノンが答えた。
「この部屋には、陛下御自身が結界を張っていたんです。錠前をつけるよりよっぽど信頼できるセキュリティでした――っていうか、ヴァンパイア様がそう言ってましたよね」
「うん。覚えてたけど、形だけでもカギをかけるとか、そういうこともしなかったんだね」
「陛下って合理主義でしたからね」
左様、とケルベロスも頷く。
魔王が示威より実利を重視する正確だったことは、城の中だけでなく魔族の間では常識だったし、人間でも多少の事情通なら知っていてもおかしくないくらいには有名な話だ。寝室がここまでこざっぱりしているのがいい証拠で、食堂や庭園、午前中に大幹部たちが集まっていた会議室にしても、陽の差さぬ国の国土と人口の規模に比べればささやかなものだ。
もちろん無駄だからといって全てをそぎ落とすほど極端だったわけではなくて、国外からの使者を遇するのに多用される大広間や貴賓室なんかは精一杯の工夫を凝らしている。
彼が為政者として優秀だったのはそのあたりなのかもしれない――飾り気のない、けれど居心地のよさそうな寝室を眺めながら、シャノンはふとそう思った。
意味のない装飾を増やしたところで堕落の園が出来上がるだけだが、かといって少しの無駄も漏らさず削ぎ落したら、行きつく先は清潔な地獄だ。大事なのは塩梅で、多くても少なすぎてもよろしくない。このバランス感覚を持っている為政者は今後現れるのだろうか。アイリスの話を聞く限りでは、人間の中にもあまり居ないようだが。
「ここに張られてた結界って、どんなものだったの?」
「見ただけじゃ全く気付かないんですけど、ノックをせずにドアノブに触れたらバチッて弾かれます。それでもなお無理やり押し通ろうとすると、全身に雷が流れて真っ黒こげになって死にます」
「即死?」
「ですね」
「見た目じゃ分からないのにそれって結構危なくない?」
「いや? 全然?」
ノックを忘れたとしても、基本的には静電気程度の刺激で拒絶されるだけ。改めてノックをすれば問題なく通れる。正確にはノックをした上で室内の魔王の許可をもらわなければいけないのだけれど、彼が訪ねてきた者を追い返したという話はあまりきかない。
一度目の警告を無視して、なおも無許可で侵入しようとすると迎撃の仕組みが作動して即死させられるわけだが、そんなことをしようとする輩にまともな奴がいるわけもない。王の寝室に邪な目的で断りなく立ち入ろうというのだ。殺されても仕方ないだろう。
「それもそっか」
シャノンが説明すると、アイリスはあっさり納得した。
「うちの国でも、皇帝の寝室に忍び込んだらまあ無事じゃすまないしね。その場で斬首ってことはなかったと思うけど」
「優しいんですね」
「どうかな。城の中で首を跳ねたら後片付けが面倒だからってだけだと思うよ。どうせ捕まえたら処刑以外ないし」
「前言撤回します。どこも変わんないですね」
「ちなみに、陛下が部屋の中に居なかった時はどうしてたの? ほら、掃除とかベッドメイクはお留守の間に済ませておくものでしょう?」
「スルーパスです」
「うそでしょ」
「初めて聞いたときはわたしもそう思いました。でもホントなんですよ。ね、ケルベロス様」
「左様」
同意を求められ、ケルベロスの真ん中の頭が頷く。
「無論、無用の立ち入りを禁じる規則はありましたが、入ろうと思えば誰でも入れたはずであります」
「そんな……それでは空き巣してくれと言っているようなものですよ」
「警備の者は常に立っております。それに――」
フッ、とケルベロスの三つの頭が同時に、懐かしむように笑った。
「小官もかつて、陛下にご進言したことがあるのです。あまりに不用心が過ぎませぬか、と。しかし陛下はおっしゃられた。『盗られて困るようなものはこの部屋にはない』と」
「ええ……」
俗にドン引きと呼ばれる表情をシャノンは久しぶりに見た。
信じられないのも無理はない。人間の国の事情を知らなくたって、部屋の中に本人が不在なら仕方ないから寝室には好きに入ってくれ、なんて宣った王が居るとはとても思えない。非常識なのはアイリスではなく魔王だ。
「しかしまあ……なんというか、らしいといえばらしい話ではある、かな……」
「そうそう、みんなそんな反応するんですよ」
「にわかには信じられないよ、本当に。でも……そういうことなら。遠慮なくお邪魔させてもらおうかな」
アイリスは颯爽と敷居をまたぎ、床に敷かれた絨毯を踏みしめる。
「だって、部屋の主は不在なんだからね」
結界は作動しない。
もう、二度と。
※ ※ ※
魔王の寝室――魔王の死体が発見された正にその場所、つまり、事件現場。
今、この場所に死体はない。
真相解明に現場の状況保存が大事だということはケルベロスを始め魔王城の面々も理解していたが、いくらそうとはいえ、王の死体を――それも、胸を刃で貫かれた無残な姿の死体を、そのまま放っておくことは我慢ならなかった。現在、魔王の体は城の地下の霊安室に安置されている。
もっとも、死体そのものがなくとも、事件現場の検証には十分すぎるほどここには痕跡が遺されていた。
「生々しいものです」
魔王が最期に座っていたという椅子に視線を注ぎながら、アイリスが呟く。
背もたれと座面、脚、その下のカーペットに至るまで、赤黒い血がべったりとこびりついている。既に一日以上が経過して乾ききったそれからは、匂いや湿り気は一切感じないけれど、そこで何があったのかを察するには十分な情報だった。
人類の天敵、魔王――彼の血の色は、人間と同じ赤だった。
単純なその事実が、アイリスには感慨深く感じられた。
夜の到来に合わせ退場の準備を整えている西日に照らされた部屋の中を、アイリスはゆっくりと歩きながら見て回る。
その様子を、部屋の中には入らないまま、シャノンはジッと見つめていた。
「シャノン殿」
隣に立っていたケルベロスの左の頭が、シャノンの顔を覗き込むようにしながら穏やかな声色で言う。
「無理は、なさらぬよう」
「……無理してるように見えます?」
「気丈に振る舞っているように小官には見えます。が、シャノン殿。老婆心から申し上げる。理性の仮面は、所詮仮面でありますぞ」
「……わかっては、いるつもりなんですけどね」
「現在シャノン殿が感じていることは、小官らのそれとはいささか異なっているものでありましょう。無粋な武人に過ぎない小官には、慰めの言葉など思いつきませぬ。が、大きなお世話と知りながら忠告することはできる。弱音を吐くのは、我慢しない方が良い」
「……」
「たとえ遺体がなくとも、血痕がなくとも、ここには陛下の死という現実が色濃く残りすぎている。もう一度申し上げますが、無理は、なさらぬよう」
「優しいんですね、ケルベロス様は」
浮かべた笑みが自虐的であることは、鏡を見るまでもなかった。
それでもシャノンは目を逸らさない。
「辛くはないんです。ただちょっと、怖いだけで」
「……シャノン殿」
「でも――いや、だからこそ、もうちょっとこうしていたいんです。誰も居ないこの部屋を見続けることには耐えられないかもしれないけど、ほら、今は空っぽじゃないから」
「……左様。水蓮姫がいらっしゃる」
「姫様の面倒を見るのがわたしの役目です。大丈夫、少しでも辛いなって思ったらすぐそっぽ向きますよ。わたし、そんなに辛抱強い方じゃありませんからね」
「ふっ。思いのほか強情ですな」
「真面目って言って欲しいですね」
ケルベロスとシャノンが話している間にもアイリスは室内の検分を続けており、やがて戸棚の陰に気になるものを見つけたらしく、こっちにきてくれ、と外の二人を手招きした。
呼びかけに応えるべくシャノンは部屋の中へ進もうとしたが、一瞬――本当に僅かな時間、頭に体の動きがついてこなかった。
その隙を見逃さず、ケルベロスはシャノンの肩を軽くたたいて動きを制止すると、自らがアイリスの傍へ寄っていく。
――やだやだ、かっこ悪い。
自分って案外見栄っ張りなんだな、とシャノンは思った。
しっかり傷ついてるじゃないか。
「いかがなされた」
「ここ、このフック。何かを掛けていた跡ですよね。何があったか、覚えていませんか?」
「無論。剣であります」
「剣――そうか、ヴァンパイア様の話にもあった、陛下の体に刺さっていた剣ですね?」
「左様。現在は、御遺体と共に安置室へ」
「なるほどなるほど……どんな剣でした?」
「陛下にとっては特別な思い入れがあったようであります。四百年の昔に戦場で相まみえた、名も無き人間の戦士のものだと聞き及んでおります。陛下は手傷一つ負わぬまま戦士を屠ったのでありますが、自らに立ち向かったその者の振る舞いに畏敬の念を感じ、彼こそ真の勇者であると称え、遺物を持ち帰ったのだとか」
「御伽噺のようなお話ですね」
「当時、略奪したものを戦利品として国へ持ち帰ることは、人間にも魔族にも当たり前の行為でありました。が、後にも先にも、陛下がそうなさったのはこの剣一振りだけだった。いつか、ご本人がそうおっしゃっておりましたな」
「ふぅん。よほど感銘を受けたのでしょうね……しかしケルベロスさん、人間の持ち物であったということは、その剣は何の変哲もないただの剣だったのでは?」
「左様、小官も一度手に取らせていただいたことがありますが、特に逸品とも感じぬ平凡な剣でありました。そのような物がこうして寝室に飾られ続けたのは、かの勇者に対する尊敬の表れ以外の何物でもなかったのでありましょう」
「そのような剣が凶器に選ばれるとは……皮肉というか悪趣味というか、酷い話もあったものです」
満足したのか、アイリスはケルベロスに謝意を伝えると、再び部屋を丁寧に見て回る。壁を這うようにゆっくりと移動する焦点はやがて室内を一周し、出入り口に佇むシャノンの顔までやってくる。
「……」
目が合った。
お互い何も言わず――かける言葉が見つからず――数秒、体感では数十秒続いた沈黙の時間は、その様子を傍らで眺めていたケルベロスの肩身を狭くした。
「あ、あの、姫様――」
「ごめんシャノン」
被った。
視界の端で、さらに居心地が悪くなったケルベロスが肩をすくめるのが見えた。
「どうぞ」
「うん。えっと、一番近いテラスか談話室の場所ってわかる? ちょっと疲れちゃったから休憩したいかな」
「ええ? そりゃ分かりますけど、でも姫様、まだ満足いくまで調べられてないんじゃ?」
「ううん、終わった。もう十分」
「あの、もしわたしのことを気にしてるなら大丈夫ですよ?」
「違う違う。疲れただけかな」
あ、これは譲らない気だな――シャノンは察した。
さっきケルベロスが自分を「強情だ」などと評したが、アイリスの方がよほど頑固で融通が利かない。一度決めたら火にくべられようが縄でつるされようが絶対に主張を曲げない。
鍔迫り合いをしたって不毛なだけだ。
ここは、ごり押しに負けてやるとしよう。
「はぁ……了解です。案内しますよ、姫様」
「うん、ありがとう、シャノン。――ケルベロスさんも、お手数おかけしました」
「いえ、実りがあったならば幸いであります」
「ええ、ありました。期待通りの収穫が」
アイリスは力強く微笑むと、足早に寝室から抜け出した。
――やれやれだ。本当にかっこ悪い。
自分はもう少し器用だと思っていたのに――シャノンは大声で悪態をつきたい気分を抑えながら、魔王城の最上階に重い足音を響かせた。
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