三章『寝室』――3

「お待たせしました」

「うんうん、これで身軽になったかな」

 寝室へ向かう前に、まずシャノンが抱えていた食器を厨房に返した。

 今は他によりたい場所はない、とアイリスが言うので、シャノンの案内で二人はまっすぐ城の最上階を目指すことにする。

 昔城の見取り図を見たことがあるアイリス曰く魔王城は彼女の故国の城に比べて非常に機能的な設計になっており無駄が少ないそうだが、そうはいっても城は城。威容を示すためある程度は利便性を捨てて視覚的な美しさを目指している部分がある。ので、階段も最上階までは続いておらず、時折少し廊下を歩かなければならない時間があった。

 生まれてからずっと城の中に居るシャノンが今更そんな不便に文句を垂れることはないけれど、すれ違う人がみんな振り返って自分たちのことを見るのが少し気に入らない。

 もちろん原因は分かっている。

 隣を歩いているアイリスだ。

 魔王城の中をただの人間が歩いていること自体滅多にないことで、気になる気持ちはわかる。シャノンがアイリスの世話係であることは多くの人が知っているので、勘が良ければこの人間が水蓮姫であることにも気付くだろう。幽獄塔の一輪の花がこんなところをほっつき歩いていると知れば、さらに驚きは増すに違いない。

 それは理解できるが、でもやっぱり、気に食わない。自分の友達に無遠慮な好奇の視線が突き刺さるのは愉快じゃない。

 ――あの時は、こんな風には思わなかったのにな。

 ふと、シャノンは思い出す。

 八年前のこと。アイリスと初めて出会った、あの日のことを。

 魔王から直々に呼び出され城の大広間、謁見の間とも呼ばれるホールへやってきたシャノンを待っていたのは、白けた顔の白い少女だった。

 トゲトゲしくて、冷たくて、張り詰めていて、怯えていて、澄んでいながら濁っていて、泣き出しそうに怒っている――初めて視線を合わせた時に感じた彼女の眼差しを表現しきれる言葉をシャノンは知らない。だけど一つだけ、十歳のシャノンにも分かってしまうほどあからさまなことがあった。

 これが敵意だ。

 あの子は、わたしのことが嫌いなんだ。

 今にして思うと、当たっていたのは前者だけだった。あの日のアイリスは頭蓋骨の中を敵意で満たしてはいたけれど、別にシャノンのことを嫌ってなんかいなかった。

 嫌っていたのは全部だ。

 自分以外の世界全てを――いや、自分すらも嫌悪の対象だった。身売り同然で捕虜となったのだから絶望に塞ぎこむくらいは無理もないが、十三歳の少女が、あそこまで苛烈で粘ついた憎しみと軽蔑を宿すのはハッキリ言って異常だ。一体どういう幼少期を過ごしたらあんな人格が出来上がるのか、人間の宮廷とはそれほどの地獄なのか、今もシャノンはアイリスから回答をもらえていない。

『あなたがシャノン?』

 射殺すような視線、では生ぬるい。メッタ刺しにするような視線でシャノンを見つめながら、少女は言った。

 すごく怖かった。

 十歳の少女に、剥き出しの敵愾心は刺激が強すぎる。

 言葉に窮し、シャノンは頷くことしかできなかった。

『じゃああなたがこれから私の面倒を見てくれるのね』

 そうなのか? そういうことになっているのか?

 シャノンはおずおずと、少女の肩越しに玉座を見上げ、魔王の表情を伺った。ニコニコ笑いながら、彼は頷いた。

 だからシャノンもそれに倣って、そうです、と頷いた。

『ふぅん。こんな小さい子がね』

 品定めするように、少女はシャノンの頭から足の先まで視線を這わせる。

『あなたには何ができるの?』

 特に、何も。

 そうとしか答えられなかった。メイドの仕事なんかしたことないし、特技も趣味も、人に言えるようなものは何もない。

『……そう』

 だけど。

『だけど?』

 メイドにはなれなくても。

 お友達になら、多分、なれます。

『……』

 魔王は声を上げて笑っていた。

 それでいい、それでいい――嬉しそうにそう繰り返した後、魔王は言った。彼女を案内してあげなさい、幽獄塔の最上階に部屋を用意してあるから。

 正直、この恐ろしげな少女と二人で歩きたくはなかったし、幽獄塔へ行くのも嫌だったけれど、魔王の命令なら仕方がない。シャノンは少女を先導し、大広間を出て渡り廊下へと向かった。道行く人々が自分たちに注目するのが分かった。ちょうど、今と同じように。

 そうして幽獄塔の入口へたどり着いた時、少女が言った。

『シャノン、だったっけ』

 あれ、とシャノンは思った。

 なんだか、さっきと違って言葉に嫌な感じがしなかった。

『……お友達って、どうやったらなれるの?』

「――のん。――シャノン!」

「……ん? あ、はい。なんですか姫様」

「なんですか、じゃないかな。呼んでるのに全然返事しないんだもの」

「……すみません、ちょっと考え事を。で、何か聞きたいことが?」

「さっき階段があったのにスルーしたから、ちょっと気になって」

「ああ、あれは最上階じゃなくて屋根裏の物置に繋がる階段なので。こっちで大丈夫ですよ、考え事していようがわたしが道を間違えたりしませんって」

 そうなんだ、と暢気につぶやいてアイリスは着いてくる。

 あの日出会った、胸の奥に秘めた激情に体内から焼かれ続けているような少女の面影は、もう殆ど残っていない。

 その変化は、果たしていいことなのか悪いことなのか。

 多分いいことだよね、とシャノンは思っている。

「ま~たボーっとしてる。さっきから何考えてるの?」

「いやー……姫様も丸くなったなあ、って」

「ま、丸……!? そんなに太ってないよ! 確かに日ごろから運動不足なのは否めないけど、それでも体形は維持できてるはずかな!」

「そういう意味じゃなくて。素直になったなってことです」

「む。なにそのお姉さん目線。忘れてるかもだけどシャノンの方が年下なんだよ?」

「毎日毎日、おはようからおやすみまでお世話してますからねえ、それで今更年上って言われても」

「あー! 今鼻で嗤った!」

 子供みたいな顔でアイリスが騒ぐ。

 こんな間抜け面、八年前の彼女なら絶対しなかった。いや、できなかったのか。

 感情に逆らわず表情を作る。それができるようになったことは喜ばしいことには間違いないけれど、成長と呼べるものではないことも確かだ。

治った。そういうのが正しい気がする。

「その階段かな?」

「ええ、ここです」

 さて、そろそろ思い出に浸るのはやめて現実に戻るとするか。

 階段に足をかけながら、シャノンは自分の背中に鷹のような視線が絡みついているのをヒシヒシと感じ取っていた。



※   ※   ※



 踊り場で、思いがけない人とすれ違った。

「おや、シャノンですか?」

「あれ、サキュバス様」

「それと隣にいらっしゃるのは――もしや……」

「そうですよ。アイリス様、水蓮姫です」

 ああ、とサキュバスは目を細めて愛想笑いを作った。

 彼女とアイリスは初対面ではないはずだが、最後にあったのももうずいぶん前だ。

「お久しぶりです、サキュバスさん」

「ご無沙汰をしております、水蓮姫。よもやこのような場所で貴女様にお会いする日が来ようとは、私めは想像もしておりませんでした」

「あはは、私もです。本来なら、和睦が成立するまで幽獄塔から一歩も出られないはずなのですから」

「ヴァンパイア様より伺っております、水蓮姫。貴女様のご活躍、私めも心より願っております」

「ありがとう。……ああそうだ、サキュバスさんには、一応聞いておきたいことがあったんでした。まあ今じゃなくてもいいんですが、お急ぎの用はあったりします?」

「いいえ」

 サキュバスは力なく首を横に振る。

「陛下がお隠れになり、今、私めにはするべきことがございません」

「……心中お察しします、などと軽々しくいうべきではないのでしょうね」

 サキュバスの仕事は、魔王の身辺の手助けをすること。政務には直接かかわらないものの秘書のような役目を担うことも多く、いうなれば、最も近くで彼の姿を見続けてきたのが彼女である。

 喪失感と悲しみは、誰よりも強いといっても過言ではないかもしれない。

「お気遣い感謝いたします。ですがどうぞご遠慮なく、お尋ねになられたいことがごじあましたら私めにおっしゃってください――もしよろしければ、近くにテラスがございますのでそちらでお伺いいたしましょうか。お茶もご用意できるかと」

「いえ、ここで済ませてしまいましょう。長話をするつもりはないので」

「畏まりました」

「ありがとう、ではさっそく……えーっと、何を聞くんだったかな……」

 ちら、とアイリスはシャノンを見た。

 こっちに振るな。私にわかるわけないだろう。

「そうだそうだ。サキュバスさんが陛下の御遺体を見つけた時、ワインはそこに置いてありましたか?」

「……はい、ございました。葡萄酒がひと瓶」

「それはヴァンパイア様が陛下にお渡ししたものですよね」

「そこまでは分かりかねます」

「グラスの数は? 二つありましたか?」

「いえ、一つしかございませんでした」

「瓶の中身は残っていましたか?」

「……はっきりとは記憶しておりませんが、少々、残されていたかと」

「なるほど」

 ふむ、とアイリスは小さくつぶやく。

「ついでにもう一つ伺いますけど、明かりはどうでした?」

「明かり?」

「寝室の照明です。点きっぱなしでしたか? それとも消えていましたか?」

「消えておりました」

「……部屋の照明って蝋燭だったりします?」

「はい。陛下のこだわりでした」

「じゃあ、蝋燭はどれくらい残ってました?」

「……それも、注意して確認してはおりませんので間違いがあるやもしれませんが、おそらく、全て燃え尽きていたように思われます」

 アイリスはうなずき、サキュバスに笑いかける。

 とても自然な笑顔だったが、シャノンが見れば愛想笑いだとすぐに気づく。心からの笑顔なら、鷹の目を浮かべたままのわけがない。

「どうもありがとう、サキュバスさん」

「いえ。お力になれましたら何よりでございます」

「お手間取らせました。行こう、シャノン」

「もういいんですか? ――って姫様! 置いてかないでくださいよ! ごめんなさいサキュバス様、しつれいしますね!」

 ツカツカと歩き出してしまったアイリスを、シャノンは慌てて追いかけて――。

「あ、そうだ」

「ヴぇっ!」

 急に立ち止まった彼女の背中にぶつかった。

「ご、ごめんシャノン」

「なんなんですかほんとに……」

「いや、ちょっと聞き残しを思い出しちゃって――サキュバスさん、最後にもう一つだけ」

 一連の流れを見守っていたサキュバスは、呼びかけられて居住まいを正す。

 アイリスは言った。

「明日のご予定は?」

「……特には、なにもございません」

「そうですか。――さ、これで全部だよ、シャノン」

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