三章『寝室』――1

 目の回る忙しさとはこのことだ、とケットシーは思った。

 本当ならここまで忙殺される予定ではなかったのだ。

 和睦条約調印の式典、その準備は前々から進めていた。工程表を組み、必要な道具の目録を作成し、余裕ある日程で手はずが整うよう計画を立てて作業に当たっていた。もしスケジュール通りに事が運んでいれば、今日の午前中にはすべての支度を終え、午後を休息の時間にあて、明日の使節団到着に備えられていたはずだった。

 ところが、魔王の死が予定表を根底から吹き飛ばした。

 感情的な問題を度外視したとしても、王位が空席となったことがあまりにもまずい。条約に調印する当人が居なくなってしまっては式典もクソもない。無論、こういう時のために後継者としてデーモンが存在するわけだが、しかし彼は未だ即位前の身、調印の資格を有しているとは言えないだろう。

 即位式が必要だ。

 デーモンが正式に第二代の国王となり、その最初の仕事として和睦条約への調印を執り行う。道半ばで倒れた先王の遺志を継ぎ、同時に新しい時代の幕開けを告げる――この流れを作らなくてはいけない。

 式典の段取りは一から練り直しだ。

 どうすれば即位式と調印式を両立させるのか、まずそこから考えなくてはならない――文官たちの焦りようたるや、凄まじいものがあった。

 魔王城の一階の一角に書庫があり、そこは記録の保管場所であると同時に文官の会議室としても用いられている。普段は静かなその部屋は、今朝からずっと意見と怒号の飛び交う戦場と化していた。

 皆、焦燥と苛立ちで頭の中が凝り固まっており、誰かが自分の提案に異を唱えようものなら食ってかかろうとするので何も纏まらない。熱心なのは結構だがこのままではかえって効率を落とすだけだ――書庫の管理人であり議長役を押し付けられたケットシーがそう諭したところでヒートアップした連中は止まらない。

 結果、夕方になっても進展らしき進展はえられないままであった。

 業を煮やしたケットシーは、一度休憩を取って冷静さを取り戻すべきだ、と怒鳴り、一時間の間誰も書庫に立ち入ってはならない、と管理人権限を振りかざして強引に宣言した。書庫から叩き出した文官たちの目の前で、見せつけるように扉に鍵をかけたのである。

 流石にそこまでされては従わないわけにはいかず、文官たちは逸る気持ちを抱えたまま、思い思いの場所に散っていった。ケットシーも例にもれず、外の空気を吸おうと城の裏庭へ足を向ける。

 裏庭の片隅にテーブル付きのベンチがあり、ケットシーはふらふらとそこに座ると思いっきりテーブルに突っ伏した。夕方の風が脱力した彼女の服を優しく揺らしてくれるが、そんな弱い刺激をありがたがる余裕は今の彼女にはない。

「どうしてこんにゃことに……」

 うっかり口からそんな疑問が漏れたが、誰かに教えてもらうまでもなく答えは重々承知している。

「どうせ死ぬにゃら一週間前にしてほしかったにゃ……」

「――それは危ない発言だな」

「ふぇっ!?」

 独り言に返事をされたことに驚いて顔を上げると、そこにいたのは、

「で、デーモン殿下!? にゃぜこんにゃところに!?」

「お前と同じだよ、ケットシー。俺も一休みしにきたんだ。ここは騒がしくなくて、気分を落ち着けるにはうってつけの場所だからな」

「は、はあ……」

「それより、だ」

 デーモンはケットシーの隣に腰を下ろした。

「気を付けた方がいいぞ。死ぬなら一週間前に死ね、だなんて、聞く者によっては不敬罪に問われてその場で斬首されかねん」

「い、いえ、その……本心ではにゃいのです、決して」

「分かってるとも、疲れが心にもないことを言わせたことは。事務方が今朝から働き通しだったことくらい俺も承知しているさ」

「……申し訳ありません……」

「まあ、俺しか聞いていないんだ。謝らないでもいい」

 デーモンは小さく笑った。

「ある意味ではいいことかもしれないからな、こうして仕事に振り回されるのも。葬式というのは忙しさで悲しみを誤魔化すために行うものだ、などという話も聞いたことがあるしな」

「それにしても忙しすぎます。調印式の再調整に即位式の準備。やることが多い、では済まされにゃい仕事量です。それに加えて、陛下殺害の犯人もまだ捕まっていにゃいのですから、もうどれから手をつけてよいか……」

「犯人、か。何もかもがそいつのせいでご破算だ。今すぐに首をねじ切ってやりたいくらいだが、そればかりで頭をいっぱいにしている場合じゃないのが歯がゆいところだな」

「期待するしかにゃいのでしょう、あの姫君に」

 ケットシーは遠くに見える幽獄塔を見上げ、デーモンもそれに倣った。

 彼女が失敗したら、ケットシーの今日の努力は無駄になる――いや、それどころか、和睦自体が白紙に還る危険性すら孕んでいる。もしそうなってしまったら人間と魔族の関係は否応にも変化せざるを得ず、その後の世界の情勢がどうなるか、最悪を想定しだしたらキリがないくらいだ。

 ――大変にゃことを背負わされたものだにゃぁ、あのお姫様も。

 まあ、同じくらい大変な仕事を自分も担がされているのだけれど……そう思うと、会ったことのない幽獄塔の姫君に妙な親近感が湧いてくる。

「……もうすぐ、夜が来るな」

 隣でデーモンがつぶやいた。

「長い夜になりそうだ」

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