二章『水蓮姫』――4

「酷いよシャノン!」

「えー……」

「なんでこんな大事なこと教えてくれなかったのかな!」

「いや、緘口令がね?」

「でも私には教えてくれたっていいじゃん! 私がシャノンから聞いたって他の人に漏らさなければいいだけなんだし!」

「それが許されるなら口止めの意味がないですよ……」

 ヴァンパイアが部屋を後にした瞬間から、アイリスはおかんむりだった。

 というか拗ねていた。

 さっきまでの冷静沈着っぷりはどこへやら、頬を膨らませてシャノンに噛みつく様は駄々っ子そのものである。

 これじゃ鷹でも梟でもなく鳩の目だよ、とシャノンは思った。怒っている感を強調するためか無駄に目尻が上がってキリっとしているのもそれっぽい。

「ちなみに、どこまで予想してました?」

「誰か重要な人物が殺されたのかも、とは思ってたかな。他にもいくつか可能性は考えていたけれど――まさか、その誰かが陛下だなんて」

「寝耳に水でしたよ、私たちも」

「だよね。……っていうかシャノン、よくそんなに平気だね。思うところはいっぱいあるだろうに」

「……まあ、そうですね。あんまり考えないようにはしてるんですけど、気を抜くと色々と湧いてきちゃいますね」

「なんで考えないようにしてるの? 無理しない方がいいかな、だってシャノンは――」

「姫様」

「あ……ごめん」

「……いえ、謝るようなことじゃないですよ――多分」

 ため息を我慢するのに、それなりの意思が必要だった。

 アイリスに悪気があったわけじゃなくて、むしろシャノンのことを心配してくれているのだということくらい理解している。しかし、大小の違いはあれど誰にだって触れらたくない領域がある。たとえ善意であっても、そこに他人の手が伸びることをシャノンは許せない。

 身勝手な我儘だと、分かってはいるのだが。

「そんなことより、ですよ」

 気まずいのは嫌いだ。

 シャノンは話題を擦り変えることにした。

「よかったんです? あんな即答しちゃって。正直びっくりしましたよ」

「まあ、他に選択肢もなかったかな」

「いや、別に断っても良かったでしょ。ヴァンパイア様はその程度で怒ったりしませんよ」

「彼女本人は、ね」

 随分と含みのある言い方だった。

 素直にその意図を読み取るなら、ヴァンパイア本人が許しても周りが許さない、ということになるのだろう。アイリスがそう言うならそうなのだ、と信じることはできるけれど、できればもう少し説明が欲しい。

 そう思ったシャノンは、それは政治的な話なのか、と尋ねた。

 アイリスがこんな風に言葉を濁す時は大抵そういうことだ、と経験から知っていたのである。

 予想通り彼女は頷き、

「足を引っ張りたい輩はどこにでもいるんだよ」

 と答えた。

「この国にしろ、私の国にしろ、ね。で、そういう連中を黙らせるのに一番効果的な方法が、この場合は私が結果を出すことだった、ってわけ」

「……ふぅん。あんまりピンときませんね」

「あはは、分かったところで疲れるだけかな。まあ要するに、引き受けた方がハッピーエンドの確立が高かったからそうした。それだけのことだよ」

「ハッピーエンド、ですか」

「シャノンも好きでしょ、ハッピーエンド」

「もちろん。……でも姫様、勝算はあるんです?」

「うーん……まあ、無くはない、くらいかな」

 言葉の割りにはそこはかとなく自信を感じさせる声だった。

 そのことをシャノンが指摘すると、アイリスは困ったようにはにかんだ。

「別に自信はないよ。ただ、もうやるしかないって思うと色々と吹っ切れるというか――こんなものを渡されちゃうと、後ろ向きになっていられないというか」

 アイリスはテーブルの上に置かれた一枚の紙きれを指でつつく。

 それは、去り際にヴァンパイアが残していったものだ。

 短い文章が彼女の直筆で記されており、結びには執政官ヴァンパイアの署名と血判で押された拇印。略式ながら、立派な公文書として扱われる書状である。

 その内容は、『これを持つ者が城内を自由に散策することを許可する』というもの。

 ヴァンパイアにこれを差し出された時、流石のアイリスも驚きを隠せていなかった。

「協力してくれるならこれくらいは、ってことなんでしょうね。ヴァンパイア様的には」

「それにしても思い切りが良すぎるかな。城内に限定しているとはいえ虜囚に自由を与えるなんて」

「異例中の異例なのはその通りですけど……でも、まあ、考えてみれば必要な措置ですよね」

 犯人を捜せ、真実を見つけろ。

 そう依頼しておきながら、しかし肝心のアイリスが幽獄塔から一歩も出られないというのでは身動きのとりようがなく、ヴァンパイアの望みが叶う確率は極端に薄くなる。だからヴァンパイアは、こんな書状を用意せざるを得なかったのだろう。

「いや? 別にここから出られなくてもやりようはあるよ?」

「え?」

「私が動けなくてもシャノンがいるもの。調べたいことはシャノンに調べてもらって、私はその報告を聞きながら考えをまとめればいい。実際にコレを渡されるまで、私はそうするつもりでいたよ」

「あー……安楽椅子探偵、っていうんでしたっけ。人間の言葉だと」

「そうそう。もっともそんなことやったことないからできるかって言われたら怪しいけどね。だからまあ、ありがたい話だよ、この書状は」

 その分頑張らないといけないよね――とアイリスは笑う。

 そもそも無茶を頼んだのはヴァンパイアの方だし、この書状もいうなればヴァンパイアが勝手に用意したものだ。アイリスがそれに責任を感じて奮起するいわれはない。シャノンがそう思うくらいなのだからアイリスに分かっていないはずはなく、ありがたいという言葉が、頑張るという言葉が、どこまで本気なのかシャノンには計りかねた。

 もっとも、彼女の本心が見えないことなんて、今に始まったことじゃないのだけれど。

 シャノンの察しが悪いわけではなくて、アイリスという人間はそう振る舞うようにできているのだ。

 素直な時は危なさを感じるくらい素直で、殻にこもる時は鍵穴の場所すら悟らせないほど徹底的に引きこもる。

 どうして彼女がそんな風になったのか、彼女自身が語ろうとしないからシャノンには分からない。多分、幼いころから身を置いていた宮廷という環境がそうしたんじゃないかと予想しているけれど、それだって正解かどうか知る由もない。

 でも、別にそれでいい。自分に見えないところで彼女が何を考えようが、シャノンには関係ない。

 どうでもいい。

 アイリスが――友達が口で言ったことを、シャノンは無条件に信じることができる。たとえ後に裏切られたとしても、アイリスがそう判断したんだからしょうがない、と割り切れる自信がシャノンにはある。

 むしろ可哀そうだ。

 きっとアイリスには、シャノンのように盲目的に誰かを信頼することはできないだろう。見たくないことまで見えてしまって、考えてもつまらないことまで考えないと不安になる。頭が切れるからこそ、虚実を見極める目を持っているからこそ、間違えることの恐怖に取りつかれてしまう。

 これは自惚れも混じっているかもしれないけれど――自分には、無知で無学なメイドのシャノンにだけは、要らない心配なんか全部捨ててくれればいいのにと思う。シャノンがアイリスの助けになれるようなことなんてきっとそれくらいしかないのだ。

 だからだろうか。

「残念だよ」

 アイリスがそう喋りだした時、シャノンはハッとした。

 全部じゃなくても、紛れもない本心の一部を語っているのだという確信があった。あんな虚無的な、諦めたような空っぽの笑顔を、アイリスは絶対に他の人に見せたりしない。

 この表情はシャノンの独り占めだ。

 こんな寂しそうな顔、受け取ったところで嬉しくはないけれど。

「最後の日常くらい、穏やかに送らせてほしかったかな」

「最後……ですか」

「うん。ここで――幽獄塔で過ごす、最後の数日間」

「あ……」

「和睦が成立したら、その証として間違いなく捕虜の返還が要求される。私は母国に送り返されて、八年ぶりに白亜離宮に戻る。……父さんも母さんも居なくなったあの場所に、私一人が帰るんだ」

「姫様……」

 アイリスが続きを言う前に、何か言葉を見つけなければ。

 シャノンは必死に頭の中を探したけれど、結局、間に合わなかった。

 ハハ、と嘲るように彼女は嗤う。

「楽しかったんだけどなぁ、ここでの生活。魔王城には私を踏み台にしようって人はいなかったし、お世辞の返事を考える必要もなければ暗殺に怯えることもなかった。ほんと、気楽な毎日だったよ。……虜囚のくせに変なこと言ってるけど、心の底から、終わっちゃうのがもったいないって思ってしまうかな」

 深々とため息をつくアイリスを見て、シャノンはやっと言うべき台詞が見つかった。

「わたし、着いていきますよ」

「ん?」

「姫様の国でも、見ず知らずの他所の国でも、わたしは姫様に着いていきます。メイドを一人連れ帰ることくらい、和睦成立のドサクサでなんとでもなるでしょう?」

「それは……そうかもだけど」

「なら心配無用ですね。姫様はこれからも、いつも通りわたしに起こされて、今まで通りにわたしの淹れたお茶を飲むんです。何にも変わりません。場所が移るだけです」

「……」

 こういうのを呆気にとられた顔というのだろう。

 わずかに目を見開いて、だらしなく口を半開きにして、リアクションも取らずぼーっとシャノンのことを見つめている。アイリスにしては、とても珍しい表情だ。これが見れただけでも、思いつきの約束を放言した甲斐がある。

 やがて彼女の口元がニヤリと形を変えた。

「物好きだね、シャノン」

「幽獄塔に居心地の良さを感じてる物好きに言われたくありませんね」

「こんな胡散臭いお姫様のお世話をこれからもしようっていうんだ?」

「十歳から今日まで八年続けたお仕事ですよ。今更他の仕事を覚えようとしたって面倒くさいだけです」

「素直じゃないなあ、寂しいから一緒に行きます、って言えばいいのに」

「いいえ? わたしは外の世界を見てみたいだけです。生まれたときから城に居ますからね。姫様のことは、そのついでです」

「あはは、私はオマケかぁ」

「フフッ、そうです。オマケです」

 よしよしよーくわかった――アイリスは椅子から立ち上がる。

 午後のお茶をすっぽかしたから気づきづらかったが、いつのまにか窓から差し込む光には橙色が多く混じるようになっていた。日没は近い。アイリスに、そして魔王城に課せられたタイムリミットは、刻一刻と迫っている。

「さて、それじゃ楽しい未来予測に少しでも現実味を与えるために一働きするとしようかな。一宿一飯どころか八年分の恩と借り、ちょっとだけでも返すとしよう」

 アイリスはシャノンの手を取り、顔を近づけて、悪戯でも始めるかのような挑戦的で活力に満ちた笑顔で言った。

「――出かけよう、シャノン!」

 それはこの八年間で、初めて口にされた提案であった。

 魔王が死んでから、一日半。

 開け放たれた扉から、水蓮姫が動き出す。

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