二章『水蓮姫』――3
近いうちに――とシャノンは言った。
まさかそれがこんなに早いとは思っていなかった。
ましてや、魔王城の実質的なナンバーツーであるヴァンパイア自らが報せを持ってくるとは想像すらしていなかった。
「――失礼を承知でお尋ねしますが――」
若干顔を引きつらせながら、アイリスは言う。
「陛下がお亡くなりになられた。それも殺されたと、そうおっしゃるのですか? ヴァンパイア閣下」
ヴァンパイアは黙って首を縦に振った。
アイリスとヴァンパイアは丸テーブルを挟んで向かい合わせに座っており、シャノンはアイリスの傍らに控えている。
本当なら今は午後のお茶の時間のはずなのだが、テーブルの上に茶器の類は見当たらない。昼食を終え、しばらく他愛ないお喋りをして、そろそろおやつを取って来ようかな、とシャノンが使用済みの食器を持って部屋を出ようとドアを開いたら、そこに神妙な顔のヴァンパイアが立っていたのである。主人であるアイリスと上司であるヴァンパイアをほったらかして厨房へ向かえるはずもなく、シャノンは回れ右をして部屋に戻らざるを得なかった。
下げ損ねた汚れた食器を話の場に置いておくわけにもいかず、今、それは書き物机の上に放置されている。
「その通りよ、アイリス」
ヴァンパイアは言った。
「一昨日の夜半、陛下が音もなく殺害された――私はそう言ったわ」
「……」
アイリスは絶句し――ちらり、シャノンに恨めし気な目線を送る。
お前こんなこと隠してたのか。
そんな心の声が聞こえるようだった。悪いとは思うが、シャノンも緘口令があるから黙っていたのであって伝えていいなら昨日の時点で伝えている。それどころか、気持ちを落ち着けるための相談に乗って欲しかったくらいだ。だから悪気は感じても謝る気にはならない。
むしろこんな大事を胸に秘めていながら十五分の遅刻以外は平常心を保ち切ったことを褒めてもらいたい。
一瞬の視線の交錯でお互いどれくらい相手の思いをくみ取れたのかは分からないけれど、なんとなく、言いたいことはそれぞれ通じ合ったような気がした。アイリスは眉間に皺をよせ、深く息を吐く。
「――それで」
重そうに、アイリスが口を開いた。
「私に、何をせよとおっしゃるのですか」
「……その返事は予想してなかったわね」
「緘口令が解けないうちに、その中身を貴女が運んできた。ただ事件を伝えるためにそんなことをする必要はない。何か、私に役割を与えるおつもりなのでしょう?」
ヴァンパイアの表情にたじろぎが見えた。
そういえば――シャノンの記憶が確かなら、彼女がアイリスの『鷹』を目の当たりにするのはこれが初めてかもしれない。ヴァンパイアがこの部屋を訪れたことはこの八年で二桁の回数あるけれど、いつも和やかに歓談するだけだったはずだ。
「いいわ。そこまでわかっているなら、単刀直入にお願いしましょう。――アイリス。貴女に、陛下を殺した犯人を見つけてほしいの」
「お引き受けします」
「もちろん無理にとは――え?」
「お引き受けします」
今度はヴァンパイアが絶句する番だった。
どういうつもりなのこの人――アイリスから逸れてシャノンに向けられた彼女の視線にはそんなメッセージが込められていた。
そんなこと言われても困る。
こんな大仕事を即断即決で請け負うやつのことなんか分かるわけがないだろう。
八年一緒に過ごしてきて、多分友人といってもいい関係なのだろうけれど、傍目には飛躍としか思えないアイリスの思考速度に追いつけたことなど一度もない。追いつこうとしたこともないし、別にそれでいいやと思っている。
ただ、いつも堂々としているヴァンパイアが気圧されている様子が思いのほか不憫だったので、「いつもはこんな人じゃないんですよ」とだけ口の動きで伝えることにした。
そう、いつもいつもこんな調子ではないのだ。何かのスイッチが入るとこうなってしまうだけで、普段はどちらかというとのんびりでおおらかなタイプなのだ。そしておそらく、そっちの方が素のアイリスなのだとシャノンは思っている。
「これほどの一大事です。私に協力できることがあるなら、喜んでお手伝いしましょう。必ず成し遂げる、とお約束できないのが心苦しいところではありますが」
「ありがとう……ええ、無茶は承知の上よ」
「では早速ですが、お話を聞かせていただけますか。昨日の朝、陛下の御遺体が発見されてから今に至るまで、城の中で何が起こっていたのか」
ヴァンパイアは話した。
昨日は丸一日行政の機能が停止していたこと。今朝、会議室の大テーブルに八人が集ったこと。そこで行われた話し合いの内容。ケルベロス、サキュバスから聞いた話のあらましと、アイリスを頼ることになった経緯。
そして、和睦の使節団が、薄氷峠を通過した事実。
「なるほど」
ヴァンパイアが喋っている間、アイリスは一言も発さなかった。
右手の指を数本口に添え、時折目を閉じながら、ジッと聞き入っていた。
「つまり、タイムリミットは三日後――いえ、その日までに解決しておく必要があると考えると二日になりますか」
「そうよ。今日と明日、それしかない」
「難題ですねえ」
フッ、とアイリスが笑う。
その瞬間、彼女の纏う雰囲気から、刺々しさが一気に抜け落ちたように感じた。
「まあでも、やれるだけやってみましょう」
「本当に、頼んでいいのね?」
「どうせダメで元々なのでしょう?」
「それはそうだけど……いえ、よしましょう。私はあなたを頼ると決めたのだから。幽獄塔の水蓮姫――いや、白亜離宮の水蓮姫を信じるわ」
「……そのあだ名は、あんまり好きじゃないんですよね」
アイリスはわざとらしく眉尻を下げた。
白亜離宮。
それはアイリスの故国の宮殿、その一角にある離宮の名前である。
真っ白な壁と小ぶりながら気品に満ちた噴水が特徴で、盲目の美女として有名だった第四皇太妃と、幼き日のアイリスの住まいである。宮廷を震撼させた『恋文事件』と呼ばれる事件をきっかけに、白亜離宮は水蓮姫の名と共に人間の諸国だけでなく陽の差さぬ国にまでその名を知られるようになった。
アイリスが十一歳の時の話である。
当時、アイリスの父親である第四皇太子は、娘の婚約者を見繕おうと考え、信頼できる十人の若者に娘を紹介した。その若者の中から、一年後の誕生日にアイリス自身が婚約者を指名する。そういう段取りだった。
その十人の若者の内、二人が殺されるまで一か月もかからなかった。その翌月には死体の数は倍に増え、さらにその次の月には五人目が土左衛門で見つかった。婚約者の座を巡って血みどろの愛憎劇――そんな風に世間は騒いだ。
この惨劇に終止符を打ったのがアイリスである。
関係者一同が集う前で「さて」と言って、犯人を名指しした。殺害に至るまでの計画、証拠隠滅の手段、アリバイ工作の筋書き、単純でくだらない動機。その全てをつまびらかにしてみせた。幼き姫君のこの活躍は広く世に知られ、「白亜離宮の水蓮姫」の名は民の語り草になったのである。
その二年後に、アイリスは幽獄塔の住人となり、再び世界中の注目を集めることになるのだが……それはまた別の話。
余談が長くなったが、ともかくヴァンパイアは、アイリスのこのエピソードを知っていたからこそ、魔王殺害の犯人特定を彼女に任せようと考えたのである。
「あの時は運が良かったんですよ」
アイリスはどこか遠い目で言った。
「渦中の人であった私のところにたまたま手がかりが転がり込んできた。だから高々十一歳の小娘にも真相が見えた。それだけのことです。今回も同じようにいくとは、残念ながら期待できないでしょう」
「噂の華麗な大活躍が運によるものだったとしても構わないわよ。貴女の脳に賭けるのも貴女の運に賭けるのも、私からしたら同じことだもの」
私は貴女という人間に賭けるだけよ――ヴァンパイアの言葉を、アイリスは微笑みながら聞いていた。
穏やかに上がった口角のふちに微かな寂しさのようなものが見えたのは、シャノンの気のせいだったかもしれない。
「ところでヴァンパイア様」
「何かしら」
「私は犯人を見つければ良いのですか? それとも真実を見つけることを求められているのでしょうか」
「……」
ヴァンパイアは逡巡の後に答えた。
「――真実を」
「そうですか。……ええ、分かりました。ご期待に応えられるかは分かりませんが、全力を尽くすとしましょう」
非常に穏やかなアイリスの声。
ただしその眼には、再び、鷹が宿っていた。
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