二章『水蓮姫』――2
一言で説明するなら、捕虜収容施設、であろうか。
微睡の塔と対になるよう、魔王城の東に建てられた黒い塔。俗に幽獄塔と呼ばれるそこは、五百年前、魔王が人間との戦争を始めた時に建設が始まったと伝えられている。戦場で捕らえられた捕虜の中でも、王侯貴族や神職など、特に身分の高い者を幽閉するために作られた、人と魔族の対立の象徴ともいえる負の遺産である。
ここに繋がれ、二度と故郷の土を踏むことなく朽ち果てた者は数知れず、人々は口々に魔王の恐怖を幽獄塔の名と共に噂した――というのは昔の話。
戦争が小康状態に入って一世紀近くが経過し、もはや和睦まで秒読みとなった今、幽獄塔の存在意義は薄れに薄れている。戦火を交える機会が無い以上捕虜が生まれることはなく、恐怖も怨念も風化の一途を辿り、歴史の一部になるのを待つばかりであった。
無用の長物。
それが、今の幽獄塔である。
もし、現状唯一にしておそらく史上最後の一人であろう虜囚が存在しなかったなら、今頃この塔は取り壊されているか改修されているかのどちらかだったに違いない。
今やこの塔は彼女のためだけに存在しているといっても過言ではないだろう。四大国に数えられる大帝国、和睦を提案した老帝の孫娘に当たる、彼女のために。
透き通るようなブロンドの髪と、雪解け水を思わせる清らかな肌。目つきは少し気が強そうだけれど、いつも口元に穏やかな微笑みを浮かべているその少女のことを、周囲の者たちは皇族特有の長々とした本名ではなく、彼女の美しさを讃える意味を込め、彼女が好きだと言う花の名前を取った愛称で――水蓮姫、アイリスと呼んでいた。
※ ※ ※
「珍しいですよねぇ」
部屋の中央に据えられた丸テーブルの上で茶葉の入ったティーポットにケトルからお湯を注ぎつつ、どこかぼんやりした口調でシャノンが言う。
「わたしが来る前に姫様が起きていて、それどころかお着替えまで済ませてるなんて。一年に一回あるかないかですよ」
「む。私だってたまには早起きくらいはするよ――と言いたいところだけれど」
質実とした造りだが随所に匠の細工が施された猫足の椅子に座ってお茶が入るの待ちながら、アイリスは少しだけ唇を尖らせる。
シャノンの言う通り、彼女は寝間着ではなく飾り気の少ないシンプルな白いドレスに着替えてはいるものの、普段と比べ目元は若干垂れ下がっているように見える。まだ寝起き気分が抜けきっていないのだろう。
「私はいつも通りの時間に起きたんだよ。遅れたのはシャノンの方かな」
「え?」
「あれ、気づいてないの?」
アイリスは鉄格子の嵌った窓の傍にある柱時計を指さした。
「……本当だ」
「十五分だけだけどね。シャノンが遅刻するなんて、それこそ珍しいかな」
「全然そんなつもりはなかったのに――あ、どうぞ。お茶が入りましたよ」
花柄のティーカップをソーサーに乗せ、アイリスの前に差し出す。
「ありがとう。いただきます」
目を細めて微笑みを浮かべ、アイリスは淑やかにカップへ口をつけた。
それは毎日繰り返されてきた光景である。
八年前、『黒竜事変』と呼ばれる一件を経て虜囚の身となったアイリスが幽獄塔へやってきて、その世話係をシャノンが任されたその日から、寝覚めのひと時はシャノンの淹れたお茶と共に過ごすのがアイリスの常であった。
一目見ただけでは、誰もこの情景が幽獄塔などという禍々しい名前の塔の中で行われているものだとは思わないだろう。
牢獄の一室でありながら、ここには全てが揃っている。
ベッドは優に二人は寝ころべるサイズであるし、部屋の床は一面にカーペットが敷かれ、素足で歩いても冷たくない。東側の壁に背をくっつけるようにしておかれた書き物机は少々手狭だけれど、その隣にあるクローゼットは、明らかに捕虜には不必要な大きさであり、さらにその脇には、きちんと全身を映せる姿見が立てられている。
虜囚の檻というより、王宮の客間である。
五百年前と今では虜囚の扱いも違う。もはや敵対の時は終わり和睦への道を歩もうとしているのだ。仮にも皇族であるアイリスを囚人扱いで虐げるなど持っての他、賓客として遇するくらいでなければ不相応だと、魔王は考えたのだろう。
もっとも、そうはいっても虜囚は虜囚。
アイリスはここから一歩も出ることは許されておらず、十三歳の時に捕らえられてから二十一歳の今に至るまで、この部屋の中だけで過ごしてきた。いくら至れり尽くせりであったとしても、たった一つの空間にそれだけの長い時間閉じ込められれば精神が参ってしまいそうなものだが……アイリスの表情にそういった気配は一切感じられない。
どうしてそんなに平気でいられるのか、と、いつかシャノンは彼女に尋ねたことがある。
アイリスは答えた。
だって友達が一緒だもの、と。
「で? 何かあったのかな」
スコーンに手を伸ばしながら、アイリスが尋ねる。
「はい?」
「遅刻の理由。あ、もちろん怒ってるわけじゃないんだけど、ちょっと気になっちゃっただけかな」
「ああ、それは――」
昨日はずっとバタバタしていたからうっかり寝過ぎてしまって――と、問われるまま素直に白状しそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
教えるわけにはいかない。
魔王の死の事実は決して城の外に漏らしてはならない、とネクロマンサーの名の元に緘口令が敷かれている。幽獄塔は魔王城の一部だし、そこに捕らわれているアイリスは城の中の人間と言えないこともないが、そんな詭弁を弄していい場面かどうか、判断のつかないシャノンではない。
八年も一緒の時間を過ごしているとつい忘れがちになるが、アイリスはあくまでも捕虜にして賓客であり、シャノンはあくまでも看守にして侍従なのだ。陽の差さぬ国の深刻な現状を伝えてよい相手ではない。
「寝坊したんです」
シャノンは答えを選びなおした。
嘘は言っていない。いつもより十五分くらい遅い時間に起きたから、いつも通りに体を動かしたらここに着く時間も十五分遅れた。それはただの事実だ。
「寝坊? シャノンが?」
「はい」
「……やっぱり何かあったんじゃない?」
「何もないですって。本当に、ただの寝坊です」
「……ふぅん。そうなんだ」
スコーンを頬張りながら、アイリスはシャノンの顔をジッと見つめている。
逃げるように、シャノンはお茶のおかわりを用意するフリをして視線を逸らす。
――たまに怖い目するんだよな、この人。
シャノンはたまに思う。
普段のアイリスの眼差しは、例えるなら梟の目だ。瞳が大きくて力強く、そのせいで相手を怯ませてしまうこともあるけれど、愛嬌があって表情も分かりやすい。
しかし稀に、梟ではなく鷹のような目をする瞬間がある。
冷徹さすら感じる鋭さで、確実に獲物を見つけ出そうとするハンターの目。梟も鷹も同じ猛禽類ではあるが、相対した時の威圧感は後者の方が強い。
大体そういう表情の時のアイリスは頭の中で何かを考えていて、今の場合、シャノンの言葉の裏に何があるのかについて思考を巡らせているのだろう。隠し事をしていることは当然のようにお見通しだ。
「そんなに気になります?」
「いつも時間ピッタリの人が今日に限って遅れてるんだもの、流石に気になるかな。逆なら気にしないけど」
「わたし、そんなに時間に忠実じゃないですよ。寝坊だって今日が初めてじゃないし」
「でも、気づいてなかったでしょ」
「はい?」
シャノンはアイリスの前に二杯目のお茶を差し出した。
「気づいてなかった。十五分遅刻してることに」
「それは――まあ、そうでしたね」
「一分二分ならともかく十五分、いつものシャノンなら気にしないわけがないかな。でもそんな様子はまったくなくて――だから、それどころじゃないんだろうな、多少の時間のズレなんかどうでもよくなるような事情があるんだろうな、って思ったの」
「……なるほど」
誤魔化そうとしたところで、最初から無駄だったわけだ。
部屋に入って開口一番、遅れてすみません、と言わなかった時点で、何と取り繕っても秘密があることはバレバレだった、ということか。
シャノンは諦めて肩をすくめた。
「わかりましたよ。降参です、姫様」
「ふふーん。相変わらず嘘が下手だね、シャノン。隠し事なんてらしくないかな」
「はいはい。私は正直者ですよ」
「それで? 何があったの?」
「秘密です」
「……えー」
「ブー垂れてもダメです。言えないものは言えません」
「ふーん……緘口令?」
「言えません」
「ほぼ答えだよ、それは」
はぁ、とアイリスはため息をつく。
「わかった。そういうことなら深くは聞かない。もし一件落着したら、その時は教えてもらえるのかな? これも答えられないならそれで構わないけど」
「大丈夫ですよ」
シャノンは頷いた。
「今は何も言えませんけど、多分、近いうちに秘密は秘密じゃなくなりますから」
「へえ? そうなんだ」
「そうなったらちゃんと伝えますよ。朝一番に。約束します」
「うん、約束かな」
アイリスは笑っていた。
――もしかして、今のもヒントになっちゃった?
いやいや、この程度は口を滑らせたうちに入らないだろう。具体的なことは何一つ喋っていないし、緘口令が恒久的なものではないという情報一つで魔王の死という事実にたどり着くことは不可能だ。
シャノンは自分に言い聞かせながら、困った顔でアイリスがお茶にジャムを入れる様子を眺めていた。
彼女はとても楽しそうだった。
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