二章『水蓮姫』――1
城の主が殺されたからといって、使用人たちの仕事は変わらない。
掃除や炊事といった日常の雑務が不要になることはなく、悲しみに暮れていようが茫然としていようが働かなくてはならない――もちろん使用人にも休日はあるし、その場合は存分に泣き崩れてくれて構わないが。
猫の耳と三本の狐の尾を持つ魔族の少女――シャノンもまた、女官の一人である。
メイドたちの中でも少々特別な仕事を受け持っている彼女は、魔王が死んだ翌日も休むわけにはいかなかった。魔王城の西に寄り添うように建つ白い塔、通称微睡の塔と呼ばれる使用人たちの官舎の一室で目を覚ました彼女は、勢いをつけて気怠さの残る体をベッドから引きはがすと、カーテンを開けて顔を洗い、慣れ親しんだ給仕服に袖を通す。
制服というのは不思議なものだ。
彼女とて魔族の端くれである以上、魔王の死は無論ショックな出来事だった。許されるならしばらく気持ちを落ち着ける時間が欲しいくらいである。が、給仕服を着ると、自分にはやるべきことがあるのだ、という責任感らしき思いが少なからず湧いてきて、複雑でやるせない感情を頭の片隅に追いやることができる。そうやって無理にでも体を動かしていれば、いつのまにか気が紛れるものだ。
日常ってありがたい。
姿見に自分の姿を映し、チャーミングポイントと自負するくしゃくしゃの栗色の髪を手櫛で整えながら、シャノンはそう思わずにはいられなかった。
身支度を整えて部屋を出たシャノンは、使用人の待機室へと向かう。
微睡の塔と魔王城は城の二階にある渡り廊下でつながっており、渡ったすぐ右手に広々とした大部屋がある。六人掛けの長机と簡素な木組みの椅子が何個も置かれたそこは一見食堂のようにも見え、実際、部屋の南側には厨房が隣接され、頼めば軽食やお茶を用意してくれる。使用人たちはここで食事をとったり午後のティータイムを過ごしたりしており、待機室とはいいながら実質休憩室のような場所である。
また部屋の北側の壁には大きな黒板があり、必要な連絡事項を書き込めるようになっている。だから、そんな規則はないとはいえ、使用人たちは朝いちばんにはこの待機室に立ち寄って、自分宛ての伝言が無いか確認するのが習慣になっていた。
お腹は空いていなかったので、シャノンはカウンターでお茶だけを受け取ると、カップを手の中で弄びながら掲示板を確認する。
全体の連絡事項――大変な状況だけれど自分にできることを精いっぱい頑張りましょう、といった趣旨の訓令文の他には、シャノン個人に関係するような書置きはない。ぶっちゃけ、今日に限らずいつもない。
「シャノン」
まだ若干眠気が抜けきっていない頭でぼーっと掲示を眺めていたシャノンの背中に、優しくやわらかな声がかかった。
振り返ってみるとそこには、
「あ、リーダー。おはようございます」
「おはよう。朝ごはん、食べなくていいの?」
女官長――つまりシャノンの上司であるサキュバスが、穏やかな微笑みを浮かべていた。
余談だけれど、他の使用人たちはサキュバスのことを、様、のような敬称をつけるか女官長という役職で呼ぶことが殆どで、日常的にリーダーと呼んでいるのはシャノンくらいである。どうしてそうなったのか本人たちもきっかけを覚えてはいないけれど、そういう事情もあって、上司と部下でありながら、シャノンにとってサキュバスは優しい姉のような存在であり、逆もまたかわいい妹のように思っている節があった。
「えーっと、あんまりお腹空いてなくて」
「そうなの? ちょっと心配ね……まあ、今日はそういう人が多いみたいだけれど」
周囲を見ると、シャノンと同じようにお茶だけで朝を過ごしている者があちこちに見られた。
あんなことがあった翌日なのだ。食欲が失せるのも無理はあるまい。
「無理はだめよ、シャノン」
「平気ですって、寝坊した日なんかも朝ごはん食べないですし」
「そうかもしれないけど……でもシャノン、休みたいなら休んでもいいのよ? だってあなたは――」
喉まで登った言葉が舌に乗る前に、シャノンが頭を振ってそれを制止した。
「今は、そのことは関係ないです――多分。正直、自分の中でもあんまり整理できてなくて、なるべくなら考えないようにしたいっていうか」
「……そうなの」
「大丈夫です。一人でぐちゃぐちゃ考えるより、姫様と喋ってた方が気分もいいですし」
「そう。分かったわ。だけどつらくなったらちゃんと言うのよ? 姫様にでも、私にでも」
「了解です、リーダー。――それじゃ、わたしはそろそろ行きますね」
「うん。頑張ってね」
シャノンはサキュバスに軽く一礼し、カウンターにカップを戻して部屋を出た。
待機室から一番近い階段を登って上へ。城の三階の真ん中には、主に魔王や大貴族が使う豪奢な食堂があり、その脇に調理場がある。シャノンはそこへ顔を覗かせると、料理長のリザードマンからお茶のセット一式とスコーン、それからイチジクのジャムが入った小瓶の乗ったお盆を受け取った。
調理場を後にしたシャノンは、途中で階段を下りて二階へ戻りつつ城の東端を目指す。
たどり着いたのは、西側と同じような造りの渡り廊下。
が、行き来する使用人たちで多少は活気らしきものが見られた西と違い、東はどこかひんやりした雰囲気で人気が無い。カツン、カツン、とシャノン一人の足跡だけが反響してやけに大きく聞こえた。
やがて廊下を渡り切った先は、さらに陰気な空間が続く。
そこは巨大な螺旋階段のような場所だった。中央が空洞になった円形の塔がまっすぐ上に伸びており、壁を這うように延々と階段が続いている。吹き抜け以外から光が入ってこないせいで空気は冷たく湿っており、人の声どころか風の音すら聞こえない。
何より見る者を委縮させるのは、階段の合間で均等に配置されている重たい扉だった。黒く、重く、平坦で、遊びがない。頑丈で無骨な錠前が部屋の外側についていることの意味は、少し考えれば誰にでもわかるはずだ。
シャノンは慣れた足取りで階段を登っていく。
最上階にはやはり扉があった。
しかしこの一つだけは道中に並んでいたものとはやや趣が異なっている。鋼鉄のような分厚い金属でできている点は同じだが、不気味な錠前がないだけでなく、扉の中央上部に摺りガラスでできた明り取りの窓がついている。
シャノンは両手で持っていたお盆を左の手のひらの上に乗せなおし、右手の力だけでその扉を押し開いた。
「――おはようございます、姫様」
ここは幽獄塔。
水蓮姫、アイリスの居室である。
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