一章『大テーブル』――3
現れたのは、給仕服に身を包んだ女性だった。
コウモリのような小さな羽を持っていることを除けば見た目は人間と変わらない。男の劣情の結晶と言っても過言ではなさそうな豊満な体つきとは裏腹に、大テーブルの重臣たちに恭しく一礼し部屋に足を踏み入れる所作は淑やかさに満ちている。
淫魔サキュバス。
魔王城にて奉公している女官たちの長である。
「普段とお変わりのないご様子でした」
ネクロマンサーに事件当夜のことを話すよう言われ、サキュバスは語りだした。
「今日はもう皆の前に出る用事がないから、と、陛下は寝間着にお着替えになられ、私めはそのお手伝いをいたしました。
ご就寝前に一杯の蜂蜜酒をお召し上がりになる、というのが、最近の陛下のお気に入りでございましたので、私めはご準備いたします、とお声がけをいたしたのですが、あの晩、陛下はそれをお断りになられました。
この後ヴァンパイア様がいらっしゃることになっている、彼女がよい葡萄酒を持ってくるから、今日はそれを飲んで寝ることにする、と。そして、そういうことだから、今日は照明も落とさなくていい、後のことは自分でやるからお前は下がりなさい、と続けて仰せになられたのでございます。
私めは陛下付きの女官の職を拝命している身でございますので、本来であれば、では頃合いを測り後ほどまた御用を伺いに参りますと申すべきところでございましたが、陛下はご自身の御手を働かせることを厭わぬお方。そのような差し出口はかえって御気分を害されることになろうと思い――いえ、無論陛下は、斯様なことで声を荒げられるようなお方でないと重々承知しておりますが――とにかく私めは、それではまた朝のお仕度の頃に拝謁を賜ります、今晩もごゆっくりお休みくださいませと言葉を残し、陛下の御寝所を離れたのでございます。
私めはその通りに、翌朝、陛下が御起床なさる時刻を計って、陛下の御寝所をお訪ねいたしました。扉を数度叩いてお呼びかけいたしたのですが、お返事を頂くことが叶わず、まだ微睡んでいらっしゃるのだろうかと私めは思いました。そのような時は、時刻を置いてもう一度出直すのが常でございます。私めはそのようにいたしました。しかしまたしてもお返事が頂けず、もしや、と思い扉に手をかけた時、あるはずの結界がないことに気づいたのです。
私めは驚きのままに扉を開きました。そして――あの恐ろしい光景を目の当たりにしたのでございます」
そこまでを話し終えると、サキュバスは再び、今度は軽く一礼した。
彼女の語り口はゆっくりとしていて、報告というよりは朗読のそれであり、先ほどのケルベロスに比べて冗長とすら感じられるものであったが、大テーブルの中でそのことを咎めようと思う者はいなかった。どころか、途中で口を挟もうとする者もいなかった。
彼女が三度顔を上げ、ようやく、大テーブルから声が上がる。
「お尋ねしてもよろしくて?」
「もちろんでございます、セイレーン様」
「陛下とあなたの会話は、今のお話にあっただけで全部ではないのでしょう?」
「と、おっしゃられますのは」
「他に何かお喋りをなさったのではないかしら」
「はい、お着替えの最中などふとした隙間に、いくらかのお言葉を交わさせてはいただきました」
「どんな内容だったか、教えていただけるかしら?」
「他愛のないことでございます。晩餐にお出しいたしました料理の味をお褒めくださったり、明日の――つまり今日の、歓待の席での献立についてお尋ねになられたり……かつての昔、捕虜とした人間の中に居た料理人に作らせたことがあるという、キッシュなる料理を久しぶりに食べてみたくなった、ともおっしゃっておりました」
「……食べ物の話ばかりですわね」
「他にも、最近座ってばかりいたためか背中に痛みを覚える、などともおっしゃっておられました。専門ではございませんが私めが按摩をいたしましょうか、と申し出ますと、それにはおよばない、と笑って遠慮なさったことを覚えております」
「それも普通の愚痴ですわね……」
期待外れ、と思ったのか、セイレーンが小さくため息をつく。
会話が終わったことを悟ったのかまたしても礼をするサキュバスに向かって、ひょい、と挙手をして存在を主張する者がいた。サラマンダーである。
「ちょっといいかい」
「何なりと」
「陛下はマダムが訪ねてくることをあなたに喋ってたんですよね」
「はい。伺っておりました」
「じゃあ、ネクロマンサー翁については、何か?」
「いえ、ネクロマンサー様のお名前は、あの晩の陛下と私めとの会話には上がらなかったと記憶してございます」
「ふうん。いや、どうもありがとう」
サラマンダーの目がネクロマンサーに向いた。サキュバスはこの時も、腰を軽く折って礼をしていた。
「……儂を疑うか?」
「いやあ、とんでもない。ケルベロス隊長とミス・セイレーンの証言もありますしね、別に不審なことをしてたなんて思ってないですよ」
「そうか」
ネクロマンサーが素直に引き下がったのを見て、サラマンダーは肩をすくめる。
「繰り返しになってしまい申し訳ないが、あの夜、陛下に変わったところはなかった、と思ってよいのですかな、サキュバス殿」
その隙をつくようにして、サキュバスに話しかけたのはデュラハンであった。
「はい。私めごときの見立てがどれほど正確か、私め自身信じ切れませんけれど、私めの目には確かに、普段通りの陛下に映っておりました。強いて申し上げれば、少々、お疲れのご様子だったことくらいかと存じます」
「なるほど……お疲れであるとは気づきませんでしたな」
「流石に、身の回りを預かってるだけあるわね、サキュバス」
ヴァンパイアの賛辞の言葉に、サキュバスは「滅相もないことでございます」と深々と頭を下げた。
「サキュバス殿。どれほどお疲れであったか、貴女の主観で構わないので、教えていただけぬだろうか」
「と、申されましても……ここのところ、ご政務がお忙しくなる事情もございましたので、考えることが多くて気がすり減る、肩肘を張ってばかりで体が固まる、といった――失敬な言葉選びをお許しいただきたく思いますが――愚痴のようなお言葉が増えておいででした。もっとも、その程度でございます」
「気の疲れ、か。一国の王の重責は、吾輩程度には計り知れぬな」
「まして今この時期だもの、無理もない話よ」
「サキュバス殿。確認になるが、あの晩の陛下は、貴女の目から見て特に変わったご様子ではなかった。また、普段と違う振る舞いをなさったとも言えなかった。そういうことで間違いないと思ってよろしいか」
「はい、はい。私めには、全くいつも通りの陛下にしか思えませんでした。もちろん、あの後陛下がお隠れになるなど、夢にも思っていなかったのでございます」
「……誰しも、そうであっただろうな」
デュラハンはその後、サキュバスと言葉を交わしていなかったリッチーに何か尋ねるべきことはあるかと伺いを立て、リッチーが首を横に振ったのを確認し、サキュバスを会議室より下がらせた。
「あまり、状況は変わらないわね」
ヴァンパイアが言った。
「陛下ご自身に変わったことはなかった。つまり予兆はなかった。今の話でわかったことはそれくらいかしら」
「疲れているようだった、って話はありましたけどね」
「一日の終わりに疲れていないのは怠け者だけよ」
「おっと、耳が痛いな」
サラマンダーはおどけてみせるが、周囲からはあまり反応を得られない。
皆、腕を組むなり頬杖をつくなりしながらしかめ面を浮かべるばかりである。暗雲低迷。彼らの表情は、それだけを物語っている。
「なんかもう、わけわかんねえな」
「諦めるのが早すぎますわよ。もう少し知恵を絞ってくださいまし」
「絞れるほどの知恵なんか無えよ、俺には」
「だからって放り投げるのは無責任ではなくて?」
「つってもなあ。何をどうこねくり回したって『無理』しか出てこねえじゃんか。考えるだけ馬鹿馬鹿しくなってくるぜ」
「だとしても……」
セイレーンの声は弱弱しかった。
この場の誰もがミノタウロスと同じことを思っており、自分もまた例外ではないのだ、とセイレーンは知っていたからである。
「実際のところ、どうしたものか」
デュラハンが真面目な口調で言った。
「段階を踏む、状況を明らかにする。その考えには今でも異論はないのですが、早くも弾切れの予感を拭いきれませんな」
「三つ首に淫魔。二人から何かを聞き出そうとしても得る物は少なかった。人数を増やしたところで同じ結果になるじゃろうな」
「リッチー殿の予感は正しいでしょう。一晩中扉を守っていたケルベロスに、陛下の御遺体を発見したサキュバス殿。これ以上、誰に何を聞けばよいというのか」
大テーブルの雰囲気は、停滞の色を隠しきれていない。
そこに新たな提案を放り込んだのは、サラマンダーの暢気な声だった。
「休憩にしません?」
「……悠長だな、サラマンダー。儂らには時間がないことを忘れたか?」
「そうは言ってもジリ貧は明らかですよ、ネクロマンサー翁。ドツボにハマる前に気分転換した方が、議論もいくらか活発になろうってもんじゃないですかねえ」
「それが良いかもしれませぬな。吾輩も、慣れぬ討論に疲れを感じ始めたところです。一度、頭の中を整理する時間を頂きたい」
「……ヴァンパイア。どう思う」
「私? 別にどっちでも構わないわよ。けど、あまり長々と休むわけにはいかない、ということは一応釘を刺しておこうかしら。……先が長そうだものね」
「……ならば、サラマンダーの案を採用し、一時休会としよう。各々、気分を入れ替えておくがよい。再開の頃合いを計り、使いを寄越すことにする」
「了解。じゃ、僕は外の空気を吸ってきますよ。一旦、失礼」
「俺もそうするわ。頭使ったら腹減ってきたしなんか食ってくる」
一人、また一人と、重臣たちが会議室を後にする。
軽食を求める者、茶を欲しがる者、散歩へ繰り出す者、自室に戻る者――休憩時間の過ごし方は各々異なっているようだったが、明るい表情を浮かべる者は一人もいない。皆、口元に自虐的な微笑みを張り付けて、ため息をつきながら思い思いの場所に向かって行った。
無理もない――と、出ていく者たちの背中を眺めながらヴァンパイアは思う。
午前の、それなりに早めの時間からこの話し合いは始まったはずだが、太陽が天の中心にまで登り切った今なお手がかり一つ掴めていない。そんな状況では焦りもするし疲れるのも当然だろう。
何かを間違えている。
見落としている。遠回りしている。
ヴァンパイア自身、そんな感覚ばかりが頭の中で渦巻いており、もどかしさを押し殺すのに苦労しているのだ。それが暴発してしまう前に休憩を挟もうと提案してくれたサラマンダーには感謝しなくてはならないかもしれない。
これといって欲しいものもやりたいこともないので会議室から離れようとは思わないが、少なくとも、ひと時だけでも眼前の問題から目をそらしてよい、というだけで息苦しさは大分緩和される。あまり認めたくないが、ホッとした、と言ってもいいくらいだった。
やがてネクロマンサーも「……一服つけてくる」と言い残して席を立ち、八人がひしめいていた大テーブルに残ったのはたった二人となった。
「せっかくなら、聞かせてもらおうかしら」
ヴァンパイアは、残ったもう一人に問いかける。
話し合いが始まってから今の今まで、ずっと静観を貫いていた、大テーブルの八人目に。
「貴方はどう思っているの? デーモン殿下」
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