第一章 異世界トリップ
第3話 森の中
視界が暗転、空中に投げ出された落下感。足元に大穴が空いてそこに落ちたようだった。辺りは黒一色だったが、景色を確かめるどころではない。上下左右前後、どっちに落ちているのかもわからない。
前触れのない落下感は、本能的に危機を訴える。全身から冷や汗が滲み、パニックに陥る。
――死ぬ!
生存本能が死を知覚した。
落ちている感覚に陥ったのも過ぎれば一瞬で、気づけば池の畔に倒れていた。
覚醒する意識と同時、眩しさを覚える。草と土、それから新鮮な水のにおい。木漏れ日が丁度、愛久の顔に当たっていた。夜中だったはずが、木々の間から日の光が差し込んでいて明るい。午後の微睡みを覚える陽光よりは、澄んだ午前の陽光。
パニックから一転、やけに落ち着いていた。
あの公園に池はあった。けど、完全にコンクリートで固められた人工池。
目の前にある池を覗き込む。底まで透き通り、コポコポと底の砂が動いているから水が湧いているのだ。池ではなく、泉といった方が相応しい。
水の違いなどなどわからない愛久でも、澄んだ水は、ドボンと飛び込んで水遊びの為に底の砂を巻き上げ、己の汗やらで濁すのも躊躇われる清浄さがあった。
泉の周囲は、座り込む愛久の腰丈程の植物が、土が見えないくらい生える草地でふかふかしている。密集して身体を支えてくれる、ベッドよりも柔らかい植物があるなんて知らなかった。小さくなって苔むした上に乗れたら、こんな感じだろう。
ネット画像で見る大木が育った原生林とも違うが、自然が作り出す美しい場所だ、人工物とは思えない。
――こんなところ、公園にあったのか。
バイト三昧で疲れていたから、気を失うように寝ていたのだろう。そんなだから、家族にも心配される。自分では気づかなかったけど、外で寝てしまう程身体を酷使していたなんて。無自覚セルフ過労死、病院裏の公園で事切れていたなんて笑えない。今回ばかりは流石に気をつけようと反省する愛久だった。
跳ね起き、伸びをする。緑の濃いにおいを肺いっぱいに吸い込んむ。町中では味わえない、空気が澄んでいて気持ちがいい。疲れた心と体が洗われるようだ。
柔らかな草のクッションもあって、体重のある筋肉質な愛久でも身体に痛みはない。自室のベッドより上等な寝心地だった。意図せずたっぷり寝て、頭も身体もスッキリ絶好調。森林浴の効果かもしれない。
森の中を暫く歩く。最初の内は、明るい緑が奇麗だと元気いっぱい、のんきに散策気分だった。
それから何時間歩いたのか。行けども行けども森の中、装された歩道に当たらないし、出口もわからない。さほど広くない公園だったはず。
次第に疲れてきた。愛久の脚は丈夫だし、森の中が何故か歩きやすくて、まだまだ歩けるのだけれど。体力が、というよりも、どこにも行き着かない不安による心労だ。
誰にも会わない、人が居ない、遭遇する生き物といえば落ち葉を分解する小さな虫くらいだ。散歩中の犬や野良猫はもちろん、自然豊かな場所だから居てもいいのに、小鳥やネズミといった小動物すら見当たらない。たった一人で森を彷徨う心細さ。
本当にここは公園の中だろうか。今日は何も口にしていない。腹が空いてきたし、喉も渇いた。
退院する弟を迎えに行くはずだった、夕方からバイトの予定も入っている。
――家事は一日二日やらなくても、桜さんも居るし大丈夫。けど、無断外泊なんて父さんに怒られるだろうな。
もう、どっちから来たのかさえわからない。せめて喉の渇きを潤そうと泉の場所へ引き返すも、どこをどう歩いてきたかわからず、戻れない。このまま脱水症状を起こし、干からびて死ぬのか。病院裏の公園で遭難なんて。いい歳してちょっと泣きそうになった。大きな身体の成人男性が、迷子になって泣いたところで可愛くはないのだけれど。
すんと鼻をすすり、絶望しかけて宛もなく彷徨っていると、風に乗って人の声が聞こえてきた。耳に神経を集中させてよくよく聞くと、途切れ途切れの弱々しい歌声。あの青いウサギのぬいぐるみが歌っていた歌と同じ。歌詞のある歌ではなく、メロディだけのハミング。
だけど、声が違った。成人男性の低い声。
――ウサギを追いかけてウサギ穴に落ち、知らな土地を彷徨うなんて、不思議の国のアリスじゃあるまいし。ルイス・キャロルの不思議の国のアリスの主人公は、可愛らしい女の子だったけれど。
体格のガッチリした成人男性がメルヘンな物語の主人公なんて、誰も得をしない。なんて、現実逃避をしてしまった。
これが夢であれ、なんであれ。
兎に角。
人が居る。
人の気配に歓喜した。見知らぬ誰かの存在が、こんなに嬉しいと感じたのは生まれて初めてだ。森から出られる希望に、嬉々として声のする方へ急いだ。
木々をくぐり抜け、草をかき分けて走る。
緑の先に、見つけた。
木に寄りかかって足を投げ出して座り、歌を口ずさむ、長い金髪の青年。
ファンタジーゲームの聖人みたいな、毛織物に似た分厚い生地の、純白のローブを着ていて、高潔なものに見える。コスプレ撮影でもしているのか、とも思ったけれど、様子がおかしい。
白が、ジワリと赤に浸食されつつあった。腹から何か飛び出ている。ナイフの柄だ。ナイフの刃が見えないくらい深く刺さり、根元から血が滲み出る。血糊にも演技にも見えない。
今にも死にかけている男が、息も絶え絶えに穏やかな声で歌うのは、童謡に似た、素朴で楽しげなメロディ。降り注ぐ白い木漏れ日に溶けて消えてしまいそうな、血の気の引いた白い顔は、絶望するでもなくただ粛々と死を受け入れている。
頭上から筋状になって差す光が、彼の長い金髪をキラキラと輝かせる光景は、天使か何か、生き物とは違う神聖なもの――この森や世界そのものが祝福しているかのようだ。
男とか女とか、性別はどうでもいい。
命の灯火が尽きよういる様は厳かな儀式にも見え、汚してはならない、踏み入れてはいけない領域に感じ、足が竦み、鳥肌が立つ。
絵画のようだが人工的なものとは違う、何とも形容詞し難い。あまりにも美しく、息を呑み、愛久はその場に縫い止められた。
人が死のうとしている場面でありながら、不謹慎にも心の底から全身が震えて息苦しい、感動さえ覚えた。
彼は人間ではないものなのかもしれないと、勘違いさせる。
土地神、あるいは、エルフか――
「妖精……?」
自分の口から出た言葉に、愛久は違和感を覚えた。それは確かに理解できる言葉だったのだが、何故か日本語ではなかった。日本語を話しているつもりが、知らない言葉に置き換わった。
愛久の呟きが瀕死の彼にも届き、目があった。青みががった深緑の瞳。穏やかに澄んだ深い湖畔のよう。
透き通った瞳が、親しみを込めて柔らかく微笑み掛けてきた……気がした。
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