第2話 愛久と青いウサギのぬいぐるみ
しきりに頭を下げて謝る親子を見送ってから、愛久は気づいた。
――青いウサギのぬいぐるみがない。
ぶつかった拍子にどこかへやってしまった。慌てて辺りを見回しても、青いくたびれたウサギの影もない。
落とし物を落とすなんて、なんという失態。
窓は開いていないし、手すりと壁の間に挟まってもいない、廊下に這いつくばって椅子の下を覗いてもない。どこにもない。
もしかしたら、さっきの親子の荷物に紛れたのかもしれない。バイトの時間もある、名前も分からない親子を追うには時間がない。ひとまずナースステーションへ行って、看護師に落とし物の報告と事情を説明しておいた。
落とし主に申し訳ない。大事にされていたぬいぐるみだ、きっと困っているだろう。
頼まれたお使いも出来ない兄なんて、弟にも合わせる顔がない。
意気銷沈とバイトへ向かった。
愛久がバイト三昧でいるのは、何かの拍子に入用になったときの保険でもあるし、自分の生活費でもある。
家のことも手伝いたいから一人暮らしは出来ないけれど、家賃と水道光熱費と食費のかわりに、バイトで稼いだ金をいくらか家に入れていた。成人した身として、経済的に自立した男でありたい。
弟、大生とは、見た目が全く似ていない。血が繋がっていないのだから、当然だ。小学生の頃、両親が離婚し、愛久は父に引き取られ、再婚して義母となった相手の連子が大生だ。
義母は責任感と愛情に溢れる人だった。愛久のことも本当の息子として大生と区別することなく接してくれたし、愛久も義母のことを、外に男を作って都合よく自分を捨てた産みの実母よりも、本当の母だと思っている。
愛情深いが故に身体の弱い大生のことで、心労を溜めてしまったのだろう。冬のある朝、突然倒れて帰らぬ人になってしまった。
そんなこともあってか、早く一人前になりたかった。
愛久は高校を卒業したあと、一度就職した。地元の工場だった。
弟の病院の費用があるのに、家に負担をかけたくなかった。父の負担を、少しでも支えたかった。特別、勉強や部活をしていたでもない。だから、大学へは行かず就職を選択した。
だけど、そこはアンデッドの巣だった。最低賃金より安い上、労働時間も長く時間外労働は当たり前、副業禁止で、働いている社員たちは生気がなく、動く屍そのもの。ストレスからか、新人イジメが当たり前に横行していて……。命の危機を察知し、辞めた次第。
バイトを掛け持ちした方が稼げた。弟がまた入院したとき、荷物を届けたり、学校に連絡したり、忙しい父の代わりに家事をこなしたりと何かと融通がきく。働いていた工場は倒産したらしい。不景気を煮詰めた負の溜まり場だ、遅かれ早かれ潰れるのは当然だろう。
家事に関しては、愛久もバイトで家に居ないとき、父の知り合いの女性――桜さんが手伝ってくれているから、男所帯でも不衛生にならず、食事も肉と米だけしかない茶色い丼ぶりが毎日という事態も避けられ、健やかな生活を送ることができている。控えめでも芯の強い桜さんには、身体が大きな愛久も躾けられた大型犬の如く、家庭という群れを円滑に回す力の長けた上位者に頭が上がらない。
愛久の年齢は、同級生がキャンパスライフを謳歌している頃だ。バイトの先輩に誘われてもさして遊びもせず、浮いた話一つしない。バイトばかりしているのだから、家族は会話の節々に薄っすらとにおわせ程度に心配していた。
夜も十一時を回り、バイトを終えた愛久は帰路につく。仕事中も青いウサギのぬいぐるみが頭から離れなかった。
古いし、くたびれていたし、見る人によっては作りが雑にも見え、ゴミに間違えられて捨てられてなければいい。
もしかしたら病院の近くに落ちているかも、なんて思ってもいない愛久だが、念のため、側を通ってみようかという気になる。
――やっぱり、あるわけないか。
自転車を引き、歩きながらアスファルトを舐め回すように見回る。一縷の望みもないのは分かってる。それでも、捜さないと気がすまない。
暗い夜道、自転車のヘッドライトがふらふらと心許なく照らす。
夜風に乗り、どこからともなく歌が聞こえた。
生き物が寝静まる深夜、地方だから走る車もない。
息をひそめて耳を澄ませる。
少女のような、声変わり前の少年のような透き通った歌声だ。楽しそうで無邪気なのに、寂しげで、不思議な音色をしていた。
こんな夜中に子供の歌声。どこかの家の風呂場から漏れ聞こえてくるにしても、子供の入浴時間としては遅い。病室から抜け出したのか、迷子か……まさか、虐待で家を追い出されただとか、警察に頼らなければならない訳ありなのか。
訳ありの子供を見捨てるほど薄情な大人ではない。愛久以外に人は居らず、自分で確かめるしかなかった。勘違いの空耳ならそれでいい。
夜の病院なんて不気味だが、そこで働いている人も、入院患者も――その中に大生も居る、生きた人たちがそこで生活しているのだからなんともない、と自分に言い聞かせて歌の主を捜した。
無邪気な歌声は病院裏手にある公園からしていた。緑化公園で、昼は患者や見舞客が気分転換に散歩したり、ピクニックをしたりしている。だけど、夜中は木々の枝葉が闇を作り陰気な場所に見え、恐る恐る敷地に踏み入る。
アスファルトの歩道の上、自転車を引く。外灯がなく、ヘッドライトだけが頼りだ。
暗いし、五月とはいえ夜中は薄寒い。
片手で羽織っているジップパーカーのファスナーを上げた。
ひと気はなく、わびしい。あったらあったで怖いのだけれど。
夜風がそっと撫でていき、梢がざわざわと波音を立てる。公園の奥へと進み公道から離れると、現実ではないどこかに入り込んでしまいそうな錯覚が起きる。深く入り込めば帰って来られないかもしれない、そんな考えがよぎり、公園が不気味さを増す。
歌声はだんだん大きくなり、近づいてきた。
五百ミリリットルのペットボトルより小さいそれを、偶然見つけるにはあまりにも出来すぎていて、目にした瞬間、ゾクリと悪寒が全身を巡った。
見覚えのある、くたびれた青いウサギのぬいぐるみが、縁石にちょこんと座っている。
人影も人の気配もない。
『歌う人形』ホラーにありがちな単語が頭をよぎる。
――現実にあり得ないだろ。
「誰か、居るか?」
どこかに隠れているのではないかと、声を張り上げてみるも、人が動く気配はないし、歌声も止まない。何度か呼びかけたが結果は同じで、応じるものはない。
気づかなかっただけで、あれにスピーカーが入っていたのかもしれない。子供の頃、ゲームのキャラクターのぬいぐるみにそういったものが入っていて、センサーで振動を感知して喋るそれを欲しがった記憶が、薄っすらとある。
電源が入ったまま放置されたのか、誰かの悪戯か。
愛久が落とした落とし物のぬいぐるみなら、無視できない。
青いウサギを拾うべく、自転車を停め、手を伸ばす――
途端、落ちた。
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