いきていてよかった
増田朋美
いきていてよかった
寒い日であったが、昼間はまだ暖かくて、上着なしでもいられるかなと思われる日であった。世間では地球温暖化がどうのとか、そういうことを、偉い人たちが叫んでいるが、一般の人たちはそんなことを知りもしないで、もうすぐクリスマスだと言うことで遊び呆けている。まあ、この状況を、平和的でいいと見るのか、羨ましいと見るのか、それとも、憎たらしいと見るのかは人違いだが、いずれにしても、クリスマスは、日本ではお遊び用の行事として、定着してしまったようだ。
その日、製鉄所、と言っても、鉄を作るところではなく、居場所の無い人達が、勉強や仕事をするために部屋を貸し出している福祉施設であるが、その製鉄所では杉ちゃんたちが、水穂さんにご飯を食べさせようと、一生懸命奮戦力投していた。色々御膳建てをして、水穂さんにご飯を食べさせようと目論んでいるが、杉ちゃんたちがいくら一生懸命食べさせようとしても、水穂さんは咳き込んで吐き出してしまうのだ。
「もう!どうするんだよ!」
水穂さんの口元から、赤い液体が漏れてきたところで、杉ちゃんは、お匙を放り投げたくなるような気持ちで言った。利用者たちも、心配そうに四畳半を覗いている。
「関係ないやつは勉強してて良いんだぜ!」
杉ちゃんがそう言うが、利用者たちは心配そうだった。みんな、げっそりと痩せて窶れてしまった水穂さんをずっと見ている。
「だって、あたしたちだって心配なんだもの。」
「水穂さんがご飯を食べてくれなかったら、あたしたちだって、困りますしねえ。」
利用者たちは、そう言っている。確かに彼女たちにとっても、人ごとではないだろう。みんな、水穂さんに、話を聞いてもらったり、勉強を教えてもらったこともある人ばかりだからだ。彼女たちでさえも、水穂さんがここまでご飯を食べないのであれば、心配になるに違いない。
同時に、水穂さんは激しく咳き込んだ。杉ちゃんがああまたやったなと言う前に、朱肉のような液体が溢れてきて、水穂さんは布団に倒れ込んだ。液体は、更に溢れて畳を汚した。水穂さんの体を支えてやっていた由紀子は、急いで水穂さんの体を擦ったり叩いてやったりしていたのであるが、それでも咳き込んだまんまだった。由紀子は急いで、水穂さんに水のみを渡して薬を飲ませた。そうすれば止まってくれるんだけど、ご飯を食べるということからは遠ざかってしまう。
「当分ご飯くれたくないなあ。畳の張り替え代がたまんないよ。」
杉ちゃんに言われて由紀子は思わず、彼を睨みつけてやりたくなった。でも確かに、杉ちゃんの言う通りでもあるのだ。畳の張替えはお金がかかる。
「本当は、ご飯食べてくれれば一番いいんだけど。だけど、このままじゃ本当にだめになっちまうぞ。」
「杉ちゃんそれ以上言うのはやめて!」
由紀子は、杉ちゃんの間延びした一言が嫌で思わず言ってしまった。眠ってしまった水穂さんの口元を拭いてやりながら、由紀子は思わず言った。
「ああ、誰か私達に力を貸してくれる人は、誰もいないのかしら。」
「まあ、無理でしょ。」
杉ちゃんは即答した。
「きっと同和問題を嫌がらない人はどこにもいないでしょ。偉い人ほど自分のことしか考えられなくなるだろうしね。医者に見せても、どうせ、銘仙の着物着ているやつを診察はしたくないって断られるのが落ちだ。医者なんてそんなもんだよ。ジョチさんは、日本から離れさせれば大丈夫だって言ってたけど、それだってね。無理な話だしね。」
確かに、現実はそのとおりなのであった。もしかしたら銘仙の着物を脱がせて身分を誤魔化して診察を受けさせるということもできるのかもしれないが、どこかでバレてしまったら、日頃から差別されている以上のバッシングを食らってしまう可能性がある。それを横車を押して、診察をさせるということは、身分の高い人や、経済的に恵まれている人であれば可能なのかもしれないが、杉ちゃんたちはそんな余裕は無い。いずれにしても、同和問題は、日本のどこへ行っても発生する問題で、いくら銘仙の着物を着ている人を差別するなと言っても、銘仙は部屋着程度にしておけと注意する呉服屋はあとをたたないのである。
「身分をごまかすとか、そんな危ない橋は渡れないよ。新平民と言われたやつは、ずっとそう言われ続けるようになっちまうよ。今でこそ銘仙の価値も変わってきてるけどさ、それだってほんの少数じゃないか。」
「そうだねえ。確かにあたしも、かわいいなと思ってきてみたら、いきなり変な顔したおばあさんに、着るのをやめろと言われたことがあったわ。」
着物が好きな利用者が、そう杉ちゃんの話に続いた。
「あたしも、着付け教室で、銘仙の着物持っていったら、激怒されたことがあったわ。」
別の利用者もそういった。
「でしょ。だから、銘仙の着物を恒常的に着ているやつは、そうやって差別されるのが今の日本では当たり前なんだよ。そういうわけだから、同和問題は解決なんかしてないよ。」
「そんな事言わないで、水穂さんがなんとかして良くなる方法を考えてよ!」
杉ちゃんにそう言われて、由紀子は思わず言った。
「だから無理だってば。これを解決するんだったら、日本の歴史を変えなくちゃならないからな。それは僕らには無理がある。ある意味、パレスチナ問題と近いかもね。」
杉ちゃんがそう言うと、由紀子は、思わず杉ちゃんをひっぱたいてやろうかと思ったが、水穂さんがそれを望まないだろうなと思ってやめておいた。でもなんとかして、水穂さんには、生きていてほしいと思うのだが、それは無理なことなのだろうか?
「こんにちは。」
と、製鉄所の玄関先から、一人の男性の声がした。それと同時に、
「はじめまして。」
と、聞き慣れない女性の声がする。ちょっと、日本の女性にあるような細い声ではなく、なんだかもっと太い感じの声である。
「はあ、今頃誰だよう?」
杉ちゃんが言うと、
「ああ、カールです。こちらの利用者さんで足袋を買いたいという注文があったものですから届けに来ました。」
ということは、カールさんがやってきたということであったか。
「そうか。私が頼んだったわ。ありがとうございます。」
と利用者の一人がそういったのであるが、由紀子はなんだかおかしいと思った。もしインターネットなどで頼んだら、宅配便などで来るのが普通だ。それをわざわざ店の店主が届けに来るだろうか?もっと別なわけがあるに違いない。それに女性まで連れて。
由紀子の予感は的中したらしい。カールさんはお邪魔しますと言って、製鉄所の建物の中に入ってしまった。それと同時に、一人のよく太った女性が入ってきたのであるが、彼女の肌は、杉ちゃんたちと同じ黄色い肌でも無いし、カールさんのような白い肌でもなかった。いわゆる、黒人と呼ばれる肌の色をした女性だったのだ。
「こちら、僕の友達のバーバラさん。現在、支援学校で働いているそうです。職業は栄養士さん。今は、子どもたちの学校給食を作ることを仕事にしているそうです。」
と、カールさんが説明すると、
「はじめまして。佐藤バーバラと申します。」
と、その太った女性は言った。由紀子は思わず彼女を見た。なんだか、太っているというかそれが度を越して、小錦みたいな風貌の女性である。もしかしたらなにか理由があるのだろうか。
「はあ、バーバラさんね。食べ物を食べすぎて、それでみんなにご飯くれる栄養士の仕事についたのか?」
杉ちゃんが言うと、バーバラさんは、
「まあそういう感じですね。」
と言った。カールさんに負けずに日本語が上手であった。
「それで、相撲取りみたいな人が、なんの用できたんだよ。」
「ええ、つまりこういうことです。水穂さんがあまりにも食べないとお客さんの一人から聞いたものですから、じゃあ彼女に栄養満点な食事でも作って貰えば良いのではないかと思ったので連れてきたんですよ。」
カールさんがそう説明すると、バーバラさんはよろしくお願いしますと言った。
「そうか。じゃあすぐ作ってくれ。ご覧の通り僕らが何をくれても吐き出してしまうもんで。それでは、本人も周りも可哀想だ。だからそれを解消するために、なにか作ってほしい。」
杉ちゃんがそう言うと、バーバラさんは、すぐに台所へ行った。そして冷蔵庫にある食材を見て少し考えたと思うと、すぐに包丁を取ってなにか作り始めた。
「一体どこから来たの、彼女。」
杉ちゃんがカールさんに言うと、
「いやあ、日本では栄養士という仕事は、あまり注目されていませんが、アメリカでは、資格取得も難しいし、より高度な専門家と位置づけられているようなのでそれならと思いましてね。」
と、カールさんは答えた。由紀子は、そういう仕事は、なかなか難しいのではないかと言いたかったが、それはやめておいた。
「しかし、食べ物にまつわる仕事をしているということが、よくわかる女性だ。本当に食べることが好きそうな体格じゃないか。」
杉ちゃんが言うと、
「ええわかりましたか。彼女も摂食障害にかかったことがあったそうなんですよ。なんでも彼女は白人ではないために、学校でいじめを受けたこともあったんだそうです。だから、食べものに悩む人を救いたい気持ちで、栄養士になったそうですよ。」
と、カールさんは説明した。
「ああなるほどねえ。つまるところ、彼女も、解決できない問題に苦しんできたわけね。」
杉ちゃんはすぐ言った。確かに、黒人差別は本当に長い歴史があり、それに基づいていろんな制度ができてきたりしていた歴史もある。それと同和問題は似たようなところがあるだろう。だけど由紀子は、そういう女性でないと水穂さんの気持ちによってあげられない、というのはなんだか寂しい気がした。
「はいできましたよ。ありあわせで作りましたけど、水穂さんのような食べる力がない人でも食べられるように、作ってみました。きのこ入りの全粥です。」
バーバラさんが、お皿を持ってやってきた。それは、とてもいい匂いがして、すぐに食べたくなるようなおかゆだった。杉ちゃんが、眠っていた水穂さんの体を叩いて無理矢理起こし、由紀子は、彼の背中にバックレストを付けてあげる役目を負わされた。本当はしたくなかったけど、しなければならなかった。
「じゃあ、バーバラさんが作ってくれたから、しっかりと食べろ。」
杉ちゃんがそう言うと、バーバラさんはおかゆを美味しそうに取って、お匙を水穂さんの前に差し出した。杉ちゃんも由紀子も食べてくれるかなとかたずを飲んで見守った。水穂さんはその美味しそうな匂いに我慢できなかったか、それとも、今まで封じ込めてきた食欲がやっと出てきてくれたのだろうか、それを受け取ってくれて、やっと一口飲み込んだ。バーバラさんがもう一度差し出すと、水穂さんはそれも口にした。しかし、三口目を食べたところでえらく咳き込みまた吐き出してしまったので、由紀子はまたその背中を擦ってあげる事になった。
「おい!せっかくバーバラさんが作ってくれたのに食べんのか?」
杉ちゃんに言われたが、水穂さんは、咳き込んで答えが出なかった。
「そうですか。ご飯を食べてはいけないと思うくらい、同和問題って深刻なんですね。僕らの先祖は、たとえ馬鹿にされていようと、強制労働させられようと、ご飯は食べようと思っていたようですが、、、。水穂さん、やはり、そう思ってしまうのですかね?」
カールさんが水穂さんにそうきくと、水穂さんは、咳き込んだ口元を自分で拭いて、
「僕は銘仙の着物しか着ることができない。」
と細い細い声で言った。
「そうですか。まあ確かに、中世の頃は、僕らの先祖は、服装で差別されたこともあったと聞きますが、それと一緒ですか?」
カールさんはそう水穂さんに聞いた。
「でも不思議ですね。日本人は、同一民族と思っていたのですが、こういうふうに銘仙の着物を着ている人は、徹底的に馬鹿にするんですか。それもなんだか辛いものがありますよね。もとをたどれば同じ日本人であることに代わりはないわけですからね。」
「そこが、日本の同和問題と、西洋のホロコーストの違いかもしれないね。」
カールさんがそう言うと、杉ちゃんがすぐに言った。由紀子にしてみれば、そんな民族問題をどうのというより、水穂さんにご飯を食べてほしいということが心配だったのであるが、どうやらそれはどこかへ行ってしまったらしい。
由紀子が涙をためて水穂さんをずっと見つめていると、
「あなたの気持ちがもう少し、水穂さんに届くといいのにね。」
と、どこからか優しい声が聞こえてきた。由紀子がハッとして振り向くとそこにいたのはバーバラさんである。ということはその発言をしたのは紛れもなく彼女である。
「あたしは、もっと言ってもいいと思うのよ。こういうことって、どんな国でもどんな人でも起こることだと思うから。ほら、今カールが話してることも、水穂さんが、ご飯を食べないのも、名前が違うだけで同じようなことだと思うのよね。でも、あたしたちは、みんな人間だから、ご飯は食べる。そしてそれを生きていてよかったと思える。それは誰でも同じことだと思うの。そこをもっと強調していけば、あなたが水穂さんを救うことになると思うわ。」
バーバラさんの目はとても優しかった。由紀子は、この女性を単に、太っているだけではなく、もっと、すごいものを体の中に持っているような気がした。大変に太っている人は、優しい気持ちを持っていると言うが、由紀子はそれだけでは無いような気がする。
一方のところ、水穂さんは、もう疲れ果ててしまっているらしい。バックレストに寄りかかったまま、静かにというかつらそうに眠っているのであった。バーバラさんが、彼を寝かせて上げようねというと、由紀子はそうしたほうが良いと思い、バックレストを外して、水穂さんを静かに布団の上に寝かせて、掛ふとんをかけてあげた。一方杉ちゃんたちの方は、カールさんが自分の先祖の話をしていた。まあ確かに歴史的な事件に巻き込まれたこともあり、こういう話が始まると長い。なかなか止まらなくなってしまうと言うのもわかる気がする。由紀子は、水穂さんのそばにいてやりたいという思いもあったが、どこか別のところでバーバラさんと話をしたいと言う思いも湧いてきた。
「そと、出ましょうか。」
由紀子がそう言うと、バーバラさんも大きな身体でそうねと言った。二人は、そっと四畳半を出て、縁側に出た。
「ねえ。」
由紀子は、思わず彼女に言ってしまう。
「バーバラさんって、とても優しいんですね。あたしには、そんなことができそうな自信がありません。あたしは、きっと好きな人を独占したい気持ちが湧いてしまって、バーバラさんのような人を拒絶してしまうかもしれない。」
「それで良いのよ。」
バーバラさんはそういったのであった。
「大体の女性はそうなりますよ。だって、そういうことに巻き込まれないで、生活をすることができるってことほど、幸せなことはないもの。」
「そうなんですか。でもそれでは、なんだか申し訳ないような気がしてしまうのですが。」
由紀子は思わずバーバラさんに言った。
「良いの良いの。幸せな人は、不幸な人の気持をわかろうとして苦しんでも、答えなんて出ないから。あたしも、きっと、白い人たちに差別を辞めるように言われても、嬉しくないと思う。だから良いのよ。そんなこと、わざわざ思わなくても。あなたが本当に欲しいものが手に入れば。」
バーバラさんは由紀子にそう言ってくれた。そんなことが言えるなんて、やはり、普通の人とは違うんだなと由紀子は思った。由紀子は思わずこう聞いてしまう。
「バーバラさんがこの仕事を選んだのは、なにか理由があったからですか?」
「種明かしをしてあげましょうか?」
バーバラさんは、苦笑いしながら言った。
「ちょうどクリスマスも近いからこんな話しても良いかな。あたしは、ご覧の通り、肌の色が違うから、学校で他の子に、あんたの家には絶対サンタクロースが来るはず無いって言われてバカにされてたのよ。だけど、一度だけサンタクロースが来てくれた事があって、あたしにケーキをプレゼントしてくれた。のちになってあれは父が変装していたことだったってわかっちゃったけど、あたしはあれで生きていてよかったと思った。だから、こういうふうに人の役に立てる仕事、食べ物を通していろんな人を助けられたら良いなって思った。」
そうなんだ。と、由紀子は思った。
「そうなんですね。バーバラさんはすごい。夢を忘れていないんだもの。あたしは、もう、そんなこと忘れて、ただ水穂さんのそばに居たいだけ。それでは、全然、いても意味がないみたい。」
「いいえ。どんな仕事だって素晴らしいわよ。みんなが幸せになれるように、一生懸命やれるんだったら。あなただって、水穂さんのそばにいてあげることが必要だからいるんでしょう。きっとあなたがいなかったら、水穂さんだって持たないわよ。それを忘れないであげてちょうだいね。」
バーバラさんは、にこやかに笑っていった。由紀子は、そうなんだなあと考え直した。
「あたしも、もう少し自身持って生きていてよかったと思えるようになりたいです。」
「今すぐじゃなくていいわよ。だけどいつかは、水穂さんにも、そう言って挙げられるようにしてあげてね。」
由紀子に向かってバーバラさんは言った。
「それが、水穂さんには一番必要なことなんじゃないかしら?」
「そうね。」
由紀子は、そう言われて、即答した。
「あたしにできるかしら?」
「ええ。できると思うわよ。あなたが強い意志があれば。女性って、そういうところがすごいんじゃないかってあたしは信じてる。もちろん男性も意思はあるけど、女性は、それ以上の意思を持っているとあたしは思う。」
由紀子はそう言われて改めて水穂さんのそばにいてやりたいと思ったのであった。それは、自分に課された最大の使命であるのなら、絶対それを果たしてあげたいと思うのであった。
外では、クリスマスを祝う声や音が、アチラコチラで聞こえていた。
いきていてよかった 増田朋美 @masubuchi4996
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