ほなみのおしっこ

@DojoKota

ほなみのおしっこ

この小説のタイトルは「おしっこ」という。

でも、正式には「ほなみのおしっこ」という。


僕は何人かの友達にこの小説を読んでもらった。


でも、その度に、「友達に自作のおしっこ読んでもらう」という字面に戸惑った。


 女の子の名前を知りたい。女の子の名前はほなみという。ほなみの名前を知りたい。ほなみの名前は、ほなみという。ほなみはほなみである。僕の目の前でおしっこを漏らし続けている女の子の名前がほなみ。

 僕はほなみのおしっこが好きだ。どちらかといえば好きなのではなく、ずっとずっと好きだ。ずっとずっとずっと、実家から国道に沿って、海の見える場所まで歩く、その間、ずっとずっとずっとほなみのおしっこが好きだ。

 女の子の名前は三文字が良い。四文字だとだめだ。ちんちんとか、おまんことか、おしっことか、だいたい四文字の言葉はそういうものばかりだ。だから、女の子の名前は三文字がいい。あかりとか、まなもとか、ほなみとかがいい。

 ほなみのおしっこは目に見えない。そして、空気と同じくらいに軽い。つまり、透明で、ぷかぷかと漂っている。ただ、匂いだけがする。ただ、うっかり触ると生ぬるい体液の感触がする、まるで不意にみみずにでも触った時みたいににゅるり。そして舐めると赤くて苦い。ほなみは、自身のおしっこが透明でぷかぷか浮かぶことを良いことに、素知らぬ顔で、いつも、いつも通り、いつも、教室の中などで、おしっこを漏らしている。それはオスのライオンのように堂々としている。僕はいつもそれを圧巻だと思う。ほなみの背は小さいけれど。

 ほなみの教室のクラスメイトはいつも、思っている。どうして私たちの教室はいつも誰かのおしっこの匂いがするんだろうって。でも、みんな透明なおしっこぷかぷかと浮かぶおしっこなど存在しないと思っている。だから、ほなみの教室のクラスメイトは、いつも、たぶん、気のせいと思っている。その匂いを、そんなわけないでしょう、と嗅がなかったことにしている。みんなが、たぶん、気のせいと思っていることに、ほなみはいつもほっと胸を撫で下ろしている。ほなみだって自分がいつもおしっこを垂れ流し続けているだなんて思われたくないし、そんな自分を直視したくない。「私は、おしっこを垂れ流したりなどしない」といつもほなみは思っている。事実に反することを、頑なに、思い続けることが人間にはできる。「私は、おしっこを垂れ流したことなど、一度たりともないのだから」とほなみは、僕の書くこの文章に文句を言う。僕は僕で、「僕は、一度たりとも、嘘の内容を文章にして頒布したことなどないのだけれど」と思う。僕は、嘘はつかない。なぜならば、特に理由なんてないけれど、嘘をつかない。

 ほなみはおしっこを止めることができない。

 ほなみはずっとおしっこを漏らし続けている。というのも、ほなみの心は海に繋がっていて、ほなみの心には小さな穴が空いているからだ。その穴から、海水がほなみ自身のおしっことなって、いつもいつも漏れ出ている。海、心、穴、おしっこ。海、心、穴、おしっこ。ほなみの心から漏れ出るおしっこを、僕は憎めない。

 一時間の授業が終わり、一時間の授業の間ずっと漏れ続けていたほなみのおしっこがほなみを中心に教室中にぷかぷかと浮かんでいる。僕はさりげなくそれを舐める。苦い。赤い感じがする。苦い。赤い感じがする。苦い。空気中に浮かんだおしっこは、誰かが後片付けをしないといけないと思う。だって、じゃなきゃ、座席を立ち上がったみんなの髪の毛がほなみのおしっこで濡れてしまう。そんなことになったら、ほなみがかわいそうだ。

 まるで、雨女のように『あの子が来ると、いつも、いつも、雨が降るのよ』じゃなく、『あの子が通る道は、ずっとずっと、おしっこの匂いがするのよ』では、かわいそうだと思う。でも、大丈夫だったりする。ほなみは、小さな、かわいらしい女の子なので、ほなみの体からはいつも、小さなかわいらしい匂いがする。僕にはわかる。ほなみの周囲には、とぐろを巻くように、ぐるぐると、ぷかぷかと透明なおしっこが浮かんで、流しそうめんみたいに流れているけれども、ほなみ自身はいい香りだ。だから、大丈夫。『うわー、今日もこの教室おしっこくさいよ』と呟いたほなみとは別の女の子が、『ほなみー』とかといいながらほなみに抱きついて『この教室はいつもいつもおしっこ臭いけれども、でも、ほなみはいい香りだねー。大好き』などという。僕は、ほなみのおしっこを臭いとは思わない。でも、みんなは、それが、ほなみのおしっこだと気がついていないから、平気で臭いと思う。

「かわいそうだ」と僕は呟く。

 僕は、いつも、鼻を磨いている。

 鼻は磨かれてぴかぴかしている。

 どのくらいぴかぴかしているかといえば、家族向けの市民プールなどに行くと、プールの匂いをひと嗅ぎしただけで、今日何人の子供たちがあるいは大人が、この屋内プールにおしっこをもらしたかが、僕にはわかる。なんだったら、プールを漂うおしっこの匂いから、一体どこの誰が漏らしたのかもわかる。お風呂屋さんでも同様だ。結構みんな、好き放題だ。みんな、やりたいように生きている。僕は、市民プールと公衆浴場で、人間らしさを学んだ。そんな僕だから、ほなみと最初に出会ってすぐ、この子の体からは、見えない宙に浮かぶおしっこがずっと漏れているなってわかった。最初に出会ってすぐ、僕が『透明、おしっこ、浮かんでいる』と言ったら、ほなみは、『うん』と頷いた。挨拶も抜きに、僕らはそのような会話をした。僕は、ほなみが背が小さかったこともあり、また、『うん』という頷き方が、ちょっと、ちょうど、僕が求めていた響き方だったため、ほなみのことを好きだと思った。その日から、僕はほなみのおしっこにまれている。

 僕は自問する。「ほんとうに?」

 ほなみが、たまたま隣にいて「どうかしましたか?」などと問いに問いかける。

「ほんとうに、僕はほなみのこと好きなのかな?」って僕は自問を続ける。

「さあ」ってほなみは言う。その間ずっと、ほなみは、指先からは、おしっこを漏らし続けている。

 ほなみの指先には、穴が空いていて、その穴から、いつもいつも透明なぷかぷかと宙に浮かぶ、おしっこが、地味な勢いで、漏れ続けている。だから、ほなみの書く文字はいつも滲んでいるし、ほなみの描く絵もいつも滲んでいる。僕はそれが好きだ。

 だから、例えば、何らかの事情で、ほなみの輪郭が全て、雨の日の水彩画のように滲んでしまったとしても、ほなみのすべてが滲んでしまったとしても、僕はほなみが好きなのだろう。とはいえ、ほなみは、結構しっかりとしていて、その輪郭は滲んでなどいない。しっかりと、肉体がある。

肉体があるから、おしっこが生まれる。

 ほなみは、女の子だけが通う学校に通っている。僕は学校に通っていない。だから、僕はほなみとあまり一緒にいることができない。僕は学校なんて通う人間は馬鹿だと思っている。でも、ほなみは違う。そして、僕も、どちらかといえば馬鹿じゃない、と僕は思っている。

 月が見える。でも、月なんて見ていたって仕方がない。月を見るくらいならほなみを見よう、と僕は考える傾向にある。だから、僕は、ほなみと出会って以降、ほなみ以外のなにかをまじまじと見つめたことがない。いつも、焦点がぼやけている。

 月が見えた。でも、月なんか別に、見ていたくない。

「あのさ」ほなみが歩いていて、僕も歩いている。僕はどちらかと言うと、歩いていない。スキップをしている。帰り道だ。ほなみが学校から帰る。たまたま僕がそこにいる。それで、声をかける。

「どうかしましたか?」

「別に大した用事じゃないんだけど」

「うん」

「一緒に歩いてもいい?」

「うん」

 僕は、ほなみのことは、好きなので、好きな人と隣で歩くのは、いい。まるで、二人でブランコを漕いでいる公園みたいに、僕はほなみの隣で、ゆさゆさ揺れながら、歩いた。ほなみも、まるで、二人でブランコを漕いでいる公園みたいに、僕の隣で、ゆらゆら揺られているような気がした。髪の毛が綺麗だと思った。世界でいちばんの美容師が、ほなみの専属の奴隷なのかと思った。でも、その場合、美容室で、ほなみはずっと、指先から漏れ出る、おしっこをどのように処理しているのだろうか。僕ならばふっとと考えつく、奥の手として、膣や肛門などに、おしっこが漏れ続ける指先を、そっと押し込み、切りとらえた髪の毛が洋服などに降り注がないようにてるてる坊主みたいにするビニールの園児服みたいなのの下で、指先を、膣や肛門などに挿入するのも一つの手かと思うのだけれども、ほなみは、きっと、そんなことをしないのだろう。だとしたら、どうしているのだろう?

「ほなみ、髪の毛が綺麗ですね」

「そうですか?」

 うん。

 僕は、僕やほなみが声に出さずに頷いた際は、鉤括弧を使わずに、うん、と表記して表すことにしよう。

 うん。なぜか知らないけれども、ほなみも頷いた。なぜだろう。

「女の子の髪の毛は綺麗に生えてくるのかもしれない」

「そうなんですか?なるほど」

「僕は生まれてから一度も美容院というものに行ったことがないのだけれども」と僕は言った。

 うん。

「美容院というものに行くと、だれでもそういう髪になるのでしょうか?」

「どうなんだろう?」

「どうなんだろう」僕が教えてもらうのを待っていると、

「でも、ここしばらく、髪の毛は切ってもらってはいないのですが」

「ほなみは、指先からいつも、ずっとずっと、透明でぷかぷか浮かぶおしっこが漏れ続けているからね」

「大学に進学してからは自分で切っています」

 よく見ると、彼女の手には鋏が握られていて、ばさ、ばさ、と彼女の髪の毛が切り落とされ続けている。それはとても綺麗な光景である。綺麗なほなみの綺麗な髪の毛が、綺麗なほなみの綺麗な手によって握られた、普通のハサミによって、ばさ、ばさ、と綺麗に切り落とされている。綺麗と嫌いは似ているけれど、僕は綺麗が嫌いじゃない。綺麗と切り絵は似ているけれど、その情景は綺麗な切り絵みたいだった。

「さて、今日も髪が伸びて、その伸びた分を、今、切り揃えました」あなたのちんちんも切り揃えてあげましょうか。

 僕は、確かに口から発せられた言葉は鉤括弧の中に納め、なんとなく、ほなみの心の中で発せられているのではないだろうか、と僕が予測する意味内容に限っては、その鉤括弧に続く形で、書き記すことにしよう。僕自身忘れないためにだ。備忘録。

「少なくとも、僕には、ちんちんは一本しかないから、切り揃えるという概念が成り立たない」

「はい?」でも、この世の中には、たくさんのゾウさんがいるから、たくさんのゾウさんの鼻を誰もが淘汰圧で滅んでしまわないように、切り揃えてあげるという概念なら成り立ちます。

「確かにそうかもしれないけれど、そのためには、たくさんの血が流れるし、ほなみさんの手を血で汚すのは、僕は嫌です」

 うん。

 ほなみは、いつも、深刻な頷きをする。

 月に向かって、ほなみが指差すと、その月に向かって一直線に、透明なぷかぷか浮かぶほなみの赤くて苦いおしっこが飛んでいくから不思議だ。たとえば、ほなみが、一時間ある方向へ向かっておしっこが迸り続ける指先を微動だにせず向け続けたならば、ほなみのおしっこが流れる時速の一時間分の距離を、ほなみのおしっこはまっすぐに流れてゆきます。

 僕は寂しかった。

 ほなみの下宿先の大学の寮の前まできた。さようならであった。

 僕は、可能ならば、僕がこれから向かう、僕が宿泊先としているゲストハウスの方角へ向けて、ほなみがずっとずっとずっとほなみのおしっこが流れる指先を向け続けていてほしいなと思った。

「お願い」と声に出した。

「なんですか?」とほなみは言った。

 もしも、ほなみが僕が宿泊する予定のゲストハウスに向かってずっと指先をむけ続けていたならば、僕は、ゆっくりと、ほなみのおしっこが流れる速度で歩いて帰ろう。それで、時折、僕の頭の高さを真っ直ぐに流れるほなみのおしっこを触ったりしながら帰ろう。でも、ゲストハウスまで至り着くには、少なくとも一本電車に乗らなくてはならず、ずっとずっとずっとほなみのちょろちょろというおしっこの流れる速度で歩いていたら、三時間も四時間もかかってしまうし、そもそも、そんなまっすぐな道じゃないです。

「さびしいです」と僕が言うと、

 ほなみは、びっくりと考えるみたいに、空中を見つめた。(それは、ゆっくりと考えながらびっくりしている様を表します。)

「さびしくても、死なないけど」と僕が言うと、

 それはよかった、みたいな顔をした。僕の方が勝手にそう思っただけかもしれない。

「寂しくても、死なないけど、というのは、すぐには死なないって意味で」と僕が付け加えると、

ほなみは、特に感情に変化なくそこに立っているので、もう少し話していてもよさそうなことが僕にもわかった。

「寂しくても、死なないけど、と言うのは、すぐには死なないと言う意味ですが、だからといって、寂しくても、特別な問題は生じないから、大丈夫です。今日は、とてもありがとう」

 うん。

「またね」

「はい」

「ちょっと喉が渇いた」などと言い足したからと言って、ほなみのおしっこが飲みたいわけでもなかったけど、飲んでもいいかなとは思ったし、飲むか飲まないか二者択一で迫られたなら、飲むことを選んで、その選ぶ過程で、ほなみの表情をちらちらみてしまったと思う。

「いってらっしゃい」

「おかえりなさい」

 なんとなく、ほなみは、いってらっしゃいと、僕に向かっていい、僕は、誰かの代わりに、これから別れる、ほなみに向かって、おかえりなさいと言って、別れた。学生寮と言っても一人部屋を割り振られていて一人暮らしみたいなものなのだ。当然ながら、何度も、何度か、ちらちらとほなみのいる方角へ向かって振り返った。ほなみは立っていた。ほなみが玄関へ姿を消そうとすると、「うわ」みたいな声を僕が出したから、ほなみは玄関へは姿を消さずにやっぱりその場に立っていた。

 ほなみからの距離がちょうど百メートルほどになった時、これから全日本陸上競技会の百メートル競技が始まるのかと思って、太ももがぴくぴくして、ほなみから二百メートル離れた地点でも、同じように感じたので、僕は、今度、全日本陸上競技会に出場するための予選会に出てみようと思った。指先からおしっこをずっとずっと垂れ流す女の子に応援されながら。

 ほなみの心は海に繋がっていて、海というのは、鯨とかイルカとかサメとかマグロとかシーラカンスとかのおしっこの太古からの集積みたいなもので、ほとんどおしっこみたいなもので、ほなみの心には穴が空いているので、その穴から、海がほなみのおしっことなって、指先から漏れ出すのだ。それは詩的な造形だったです。

 僕は、その造形が美しい気がしたから、ほなみのことが好きになったのかもしれない。よくわからない。

 君は薔薇より美しい、とよくいうけれど、

 ほなみは、おしっこ、だから、美しい、と僕は日本語に新しい可能性を感じる。

 僕はおしっこが好きなわけじゃなくって、ほなみが好きで、でも、僕がほなみが好きなのは、ほなみが、おしっこだからで、でも、何も、僕は、ほなみがおしっこであることを好き好んで望んでいるわけじゃなくって、例えば、今この瞬間、ほなみがおしっこじゃなくなったとしても、ずっとほなみのことは好きだし、ずっとずっと好きだし、じゃあ、ほなみがこのままずっとおしっこだったとして、だとしても、ずっとずっと好きだし、どっちでもいいし、でも、ほなみはおしっこで、美しいのだった。不思議だった。世界に唯一存在する、必然と偶然の接合地点のようだった。ほなみの存在は、必然であり、偶然だった。

 でも、美しくなくたって、ほなみは、美しいんじゃないかな。

 好きじゃなくたって、ほなみのことは、好き。

 それで、僕はほなみと別れた。

 とてもしょぼくれた僕に向かって、螺旋状にくねらせながらほなみがおしっこを飛ばしてくれた。僕の衣服がぐっしょりと濡れた。おしっこをかけられるなんて、小学生の頃、セミ取りをして以来だ。僕も負けずに、ほなみにむかっておしっこを飛ばそうかと思ったけれど、僕のおしっこの飛距離はせいぜい一メートルがせいぜいである。負ける戦はしない主義です。自分にはない他人の長所は素敵だねと思う。けど、こうまで全身がほなみのおしっこ臭いのなら、いっそのこと、僕自身おしっこを漏らしてしまっても大差ないと思ったので、漏らした。ズボンが濡れて、まるでズボン全体が、チンチンの代わりに海綿となっておしっこを吸い取って、ぼっきしたちんちんが短パンになって僕の股関節を取り巻いているかのような気分になった。僕はぎこちなく歩いた。それは、暖かかった。赤くて、青かった。前述の通り、僕はプールに浮かぶ誰のおしっこが誰のものかをわかるくらいに鼻がよかった。だから、同じおしっことはいえ、僕の体をうっすらと覆う濡れたおしっこがどれがほなみの匂いで、どれが僕の匂いか手に取る以上によくわかった。いや、そうじゃなくって、右の鼻の穴にほなみのおしっこを、左の鼻の穴に僕自身のおしっこを流し込んで選別しているかのようにはっきりとです。まるで、ほなみのおしっこの匂いを右脳で感じ、僕のおしっこの匂いを左脳で感じていると、ほなみのおしっこと僕のおしっこがカフェラテのように混ざり合うものだから、右脳と左脳を挟む間脳がコンダクターとなって、右脳と左脳が抹茶ラテをよくかき混ぜた時のように、粉末状にモザイクを描きながら、掻き混ざり合った。僕の右脳も左脳も、抹茶ラテのように、甘いおしっこの匂いがした。ありがとう、と思った。僕は、ひょんなことで思い出される親しい顔の人間の顔を、思い出そうとして、抹茶ラテの頭ではどうにもならないことを、知って、

 気がついたら、僕はゲストハウスまでたどり着いていた。

 おしっこに塗れている僕に、みんなびっくりしているようだった。

「異文化コミュニケーション」

「カルチャーショック」

「ジェネレーションギャップ」

 と僕は再三呟いたけれど、入れてもらえなかった。

 おしっこにまみれていても分け隔てなく人を宿泊させてくれる宿を探しだして、そこに泊まった。宿主は濡れたセントバーナード犬のように僕を舐めた。夜が朝になるまでの時間、ずっと暗いから僕は眠っていた。

 目を閉じて、目を開けたとき、おしっこの匂いは消えていた。ただ、匂いに鼻が慣れてしまっただけかもしれない、と思った。


 もしも、ほなみのおしっこが、無色透明で、ぷかぷか中に浮かんでいて、その上触ることもできないおしっこだった場合、納豆を食べ終わってすぐの人が納豆臭かったり、にんにくを食べた人が、しばらくの間にんにく臭いように、彼女もおしっこをいつも飲んでいる人のような雰囲気になるにちがいがない。論理的に考えたらそうなる。そうならない方が良いように思う。だから、彼女のおしっこがぷかぷか浮かんで、触ることができて、生ぬるい感触が空気中に細い線となって漂うのは、良いことだと思う。そのことをほなみに伝えようと思って、手紙を書いている。僕はこうして手紙を書いている。

 ほなみへ。ほなみのおしっこが触れるのは良いことだと思う。触れずに、生ぬるくもなく、すかすかと触知することもできない今以上に特殊なおしっこだった場合、他人の中でほなみの印象ががらりと変わってしまう危険性がある。もし、仮に、ほなみが、その気になってその気になった行動をした結果、ほなみのおしっこが触ることができなくなり、すかすかになってしまえるとしても、そうはならない方がいいと思う。おしっこは、触れる方がいい。触った際、温かく、赤い、感じがするおしっこの方がいい。口に含んだ際、赤い、苦い、感じがする方がいい。一個人として、僕はそう思う。仮に、僕以外の人間だって、僕と同様の思考へ、僕が丁寧に誘導してしていけば、おおむね、同意してくれるに違いがない。だって、論理的に考えたらそうなる。僕は、ほなみのことを考えてこの手紙を書いている。寂しい気持ちもする。清々しい気持ちもする。朝、目が覚めたら、ふと「けしからん忍法帖」という言葉が浮かんだ。その言葉を振り払って目覚めたら、布団の中に僕はいた。布団の中になどいたくはなかった。眠っている間に死んでしまうかなどして、どこか知らない場所にいたかった。起きてすぐ、僕は、しばらく、オンラインで麻雀などをして遊んだ。ぜんぜん、楽しくないけれど、なぜか、ずっと遊んだ。それで、しばらくしたら、無色透明で、ぷかぷか浮かんでいるほなみのおしっこが、さらに触ることができなくなったらどうなるだろうか、と考えた。その後で、納豆ご飯を食べた。僕の口からは納豆の匂いが漂っていることだろう、と思った。ほなみの指先からも、ほなみのおしっこの匂いだけが漂っているとしたらどうなるだろうか、と考えた。まるで、ほなみが、いつもいつも、自分のおしっこを人差し指でかき混ぜ続けている人みたいな印象を周囲に与えてしまうことだろう、と思った。それはなんだか、ほなみらしいと思った。でも、

 いつもほなみらしいほなみさんでいてほなみ、と僕は手紙に書いた。

 それからしばらく、ほなみを練習するために、手紙の余白のスペースに、ほなみ、ほなみ、ほなみ、ほなみ、ほなみ、と書いたり、ほなみのほを練習するために、ほ、ほ、ほ、ほ、ほ、と書いたり、なみなみなみなみなみなみ、ほほほほほほ、ほなほなほなほなほなと書いたりした。そのほなみを練習するための時間を僕は特別に『ほなみ時間』と名づけている。近所の公園の砂地の上で、よく『ほなみ時間』を過ごす。

 今日もしばらく、宿の近辺を歩き『ほなみ時間』を過ごそうかと思う。でも、そんなことして何になるんだろう。よくわからない。

 よくわからないけれど、それはさておき、ほなみさんの一日が今日もよい一日になりますように。と僕は書いて、この手紙を終える。


 手紙をポストに投函しようと思って、赤い物体を探しに宿を出てフラフラしていたところ、赤い物体を見つけたので、その物体の口に書き上げた手紙を僕のイラスト付きの手紙を投函すると、するすると僕の体まで赤い物体の口の中へと、まるでそれが怪物ででもあったかのように吸い込まれてしまった。


「あ」

 とほなみが言った。

 ほなみがいた。

 ポストの中は、ちょっとした倉庫のように天井が高くて広くて、結構過ごしやすそうだった。僕はほなみへの手紙を握ってそこにおにぎりころりんの童話でおにぎりがネズミの穴にすってんころりんと入り込んでしまうみたいに、ころんと尻をついて呆然としていた。

 けど、奇遇なことに、ほなみも、そこにいて、手紙を握りしめて、座り込んでいた。

「あ」

 と僕も言った。

 ポストの中は、挿入口以外から光が入ってこないはずなので、暗いはずなのだけれども、ポストの中では全ての言葉が全ての言葉通りの形に光り輝くようで、堆く積もった手紙や葉書などから言葉が光になって漏れてくるのだった。

「おはようございます」とほなみが言った。

 僕は、ぺこりとお辞儀をして、「おはようございます」と言った。

 うん。とほなみが頷いた。

「関東地方のポストは恐ろしいね」と僕は、言い聞かせるように言った。

「とても恐ろしいです」とほなみが誰かにわかって欲しかったみたいに言った。

「でも、ちょっと綺麗かもしれない」

「文字が光っていますね」確認するみたいな言葉だった。

 ところで、どうしてこんなところにいるんですか?と聞こうと思ったんだけれども、聞くまでもないことのように思えて、僕は、「サンタクロースの体内もきっとこんなふうになっているんだろうと思う」

「どんなふうにこんなふうですか」

「こんなプレゼントが欲しい、などという手紙をサンタクロースももらうじゃないですか。その手紙が世界中から届きます。その手紙を全て、サンタクロースは食べてしまいます。赤いサンタクロースと赤いポストは似ています。それで、サンタクロースの体内でも、世界中から届いたものをねだる手紙が文字が光となって、サンタクロースの体内を散乱します。違いと言えば、日本語に限らず多種多様な言語で彩られているところでしょうか。すごいね」

 うん。

「文という文字の横線を少しだけ、垂直に下降させると、光という文字とちょっと似た形になります。だから、ふみは、光るんです。字という文字は、宇宙の子を短縮した省略文字です。つまり、文字とは、光、宇宙の子。ところで、完という文字は、宇髄天元を短縮した省略文字です。」

「なるほど」

「宇髄天元を知っていますか?」

「知らないです」

「かっこいいお兄さんです」僕は、二人きりの空間だったからだろう、普段は喋らないことを喋った。

「そうですか」

「ほなみに、少し、ほんの少し、似ています」

「そうなんだ」ほなみをたんぽぽみたいだと思った。「どうしてあなたはここにいるの?」

「ほなみへの手紙を書いていたら。どうしてほなみはここにいるの?」

「きっと手紙をくれるだろうと思ったから、その返信を書いていたら」

 誰かが手紙を書き、その手紙に先んじて、返信を書いてしまい、なおかつ、同じ日にポストに投函してしまうと、ポストが大きな赤い怪物になってしまって、二人とも吸い込まれてしまうんだ。そんなことがあるんだ。そんなことがあるだなんて、僕は、今日、初めて知った。知って、こうして、ポストに吸い込まれてしまって、ちょっとわくわくして、嬉しかった。

「びっくりするね」

「はい」

 びっくりすることが、どんどん続くといい。

「びっくりというか、とても、不思議です」とほなみは言った。「私が、私の、指先からずっとずっとおしっこを漏らし続けていること以上に、不思議です」

「それ以外に不思議なことなんて、なにもないと思っていた」

「うん」ほなみの気持ちが上昇していた。

 うん。

「うん」ほなみの気持ちはそのまま上昇して、天井より高いところまで上昇して、でも、爆心地はここだ、とでもいうかのように、すぐそばのほなみの胸の内側の奥が、発熱しているのが感じられた。高く高く高く。すぐそばで、熱く熱く熱く。それでいて、膨らむ膨らむ膨らむ。僕はびっくりしていた。「私が、私の、指先からずっとずっとおしっこを漏らし続けていること以上に不思議なことなど何もないと思っていたことが、不思議で、それにもかかわらず、それ以上に不思議な気持ちなことが起こるなるなんて、不思議で、私が、私の、指先からおしっこを漏らし続けていることに対して普段はさほど不思議にも思わずに平常に生きていたことにも気がついて、しまって、それも不思議で、普段から、私が、私の、指先からおしっこを漏らし続けていることを不思議がっていたはずなのに、さらに、この現状に不思議がれることが奇妙で、奇妙です」

 うん。

「不思議です」

 うん。

「びっくりです」

「そうだね」ほなみがしゃべっている間中、僕はずっとほなみがしゃべっているなあって思っていた。それで、ほなみの口がずっとずっとずっとしゃべっているなあって思っていた。不思議がっている女の子はいいな、と思った。希少価値がある。不思議がっている女の子に対して、そうだね、とうべなう時、僕は一体何に同意しているのだろう。謎に対して、それは謎ですと指差すことはできるのだろうか。応答は必ずしも、何事かに対して何事かの説明を与える事柄ではないってことなのだろう。

 ほなみは天真爛漫だった。

 少なくとも、僕にはそう思われた。

 背が小さいし、肩幅が狭いとしても天真爛漫だ。

 だから、綺麗だと思ったし、まっすぐだと思った。

 ここでいうまっすぐというのは、さらさらの前髪がストレートヘアーみたいな感じのまっすぐさだ。やわらかい、まっすぐさ。

 ちりちりの短縮毛もやわらかいけれど、自由奔放にカーブしている。ゆるやかにカーブを描くようなまっすぐな髪の毛も、まっすぐだけれど、やわからい。髪の毛というのは総じて、伸びて仕舞えば、やわらかい。ほなみはやわらかくまっすぐだと感じられる。

 ほなみの影が冷たくて気持ち良い感じがする。

 ほなみの髪の毛がまっすぐでやわかい感じがする。

 ほなみの肌が暖かくて真っ白な感じがする。

 ほなみの目がじっとどこかを見つめている。

「僕たちは、しばらく、ここで、こうしているのかもしれない」

「え」うん。「あ」ってほなみは言った。

「僕たちが入ってきた投函口があそこです」僕は指差して示した。それは結構上の方にあって、伸ばしても手が届きそうになかった。

「とても高いところからまっさかさまに落ちてしまったのですか」

「うん」

「怪我してませんか?」

「うん」

「怪我してませんか?」

「うん」

 血は一滴も垂れていない。赤いポストの中は赤くない。赤いトマトの中は赤く、緑の西瓜の中は赤い。ほなみと僕の体の中も赤い。

「僕たちは、ここで、しばらく、こうしているのかもしれない、として、不便なことってあるだろうか」

「トイレが見当たりません」

 ほなみは、指先から、透明でぷかぷか浮かぶおしっこを漏らし続けている。その指先が、僕の目の前で、流れ続けるおしっこの水圧で、とん、とん、とん、と空気中を弾くように揺れている。

「何をいまさら」と言葉に出た。「大丈夫だよ。ここには、排泄物を包むための紙も排泄物を拭うための紙の豊富にある。ちょっと、固くて、痛いかもしれないけれど。でも痛いのは嫌だよね。レターパックの中に、親戚のおばあちゃんに届けるための簡易おしめとかないかな。あるかもしれないから、後で一緒に探してみよう」

 ほなみが眠り始めた。

 眠っている間「あー」とか「やー」とか言っていた。

 僕も眠り始めた。

 僕が眠っている間、僕がなんて言っていたかは、僕はまだ観測していない。

 なんで、こんなにあっさり眠ってしまったかというと、当たりが薄暗かったからで、薄暗い中文字が光っているからで、薄暗い中光っている文字を眺めていると、文字って感じがしなくって、だんだん文字がゆらゆらゆらめいていく感じがして、気がついたら、「あ」眠ってしまうこともあるのだった。ほなみが眠っていて、僕が眠っていない間、ほなみの顔が月のように見えた。ほ月な月み月。顔がゆらめていてるので、蝋燭の炎かと思ったら、月みたいに見えた仄白い顔の上を髪の毛が生き物ののように揺れているのだった。それでほなみのまっすぐな柔らかいそこそこの長さの髪の毛がほなみの顔の一見したところの表面積を見た目上広げたり狭めたりを繰り返すので、蝋燭の炎をふっと思い出したのだった。青白い炎。気がつけば、ほなみのおしっこが辺りを満たしている。ここは赤いポストの中であり、ポストは基本的には密閉空間であり、底の方に排水溝などついていない。なので、さっきからずっと垂れ流され続けているおしっこは、仮に、透明でぷかぷか浮かんでいるとは言っても、その密閉空間を徐々に徐々に縦横無尽に占有してゆく。マダラ模様の海。水槽の中をぷかぷか浮かぶ水分で満たしてごらん。シャボン玉は界面活性剤という液によって、空気と空気の間に薄い膜ができてまあるく膨らむのですが、僕らの場合、ぷかぷか浮かぶ透明なおしっこが適当に散乱してあつまったり離散しているものあから、辺りを満たすぷかぷかおしっこの間に丸く固まった空気の球が浮かんでいる感じになる。ほなみの心は海に繋がっていて、ほなみの心は穴が空いているから、ずっとずっとずっと指先からこの世界でただ一つの最も大きな液体の塊としての海が一個人おしっことして漏れ続けている。だから、あたりは、海底のように、静かで、例えば、ほなみのまっすぐでやわらかいそこそこのほなみ自身が切り揃えている髪の毛が海藻のように揺れていたりする。僕の髪の毛も浮かんでいる。それ自身がぷかぷか浮かぶおしっこの中というのは、それ自身がぷかぷか浮かぶだけあって、死海の浮力なんかよりもすごい浮力で浮かび上がりそうになる。でも、そんなに浮かんでばかりいると、うっかり手も繋いでいないまますぐ隣にほなみから遠く離れてしまいそうになる。手をつなげばいいのだけれども、まだ、手を繋いでいない。ほなみのおしっこがずっとずっとずっと迸りりづけるとば口のある手のひらと、これといってなにも迸り続けているようには見えない僕の手のひらとが接地してもいいのかどうか、まだ、判断に迷うところなのだ。ほなみのこと、僕は好きだった。光っている文字が一面に書かれた手紙なども、尿に濡れて、ぷかぷか浮かんでいた。いろんなものが浮かぶと、この赤いポストの中という世界が案外小さく狭い世界に思えた。ほなみの手のひらには、相変わらず、僕からの手紙を想定して書かれたらしい返信の手紙が握られていた。僕が書いた手紙と比べた場合短い手紙だけれども、ほなみの手で書かれた手紙は、たぶん、五十音順表くらいの分量があった。あかさたな、という音のように綺麗な言葉の並びだった。難しすぎる漢字を使うことなく、思慮深く書かれていた。つまり、思慮深くというような漢字をつかうこともなく、しりょぶかく書かれていた。これは、この小説は、僕が書いている文章だから、いつかほなみに、ほなみ役として、ここにほなみの文章を書き入れてもらえたらと思う。ほなみの返信には『     』と書かれていた。それで、その続きは『     』と書かれていた。そして、最後に『     』って書かれていた。僕は、それを透明なおしっことはいえ文字が光となりそこに液体がある以上、屈曲する光の文字として僕の目に飛び込んでくるまま読んだ。おしっこがぷかぷか浮かび上がり、また、ほなみの文字はほなみらしく光るので、ある文字列『     』はポストの壁面に光として照射され、別の文字列『     』は僕の二の腕に小さく小鳥の囀りを縫い付けた刺青みたいに、青く光った。で、別の文字列『     』は、一旦バラバラになって、ほなみの白い肌の上を二十ほどの小片となって銀色の蝶のように身を休めているところを、一つ一つ採集して、一列の文字列にして、その後また放すと、わっとなって辺りに飛び散って、もうなにがなにやら一瞬の意味と混沌。このように僕は、ほなみのありようを構造として描写することはできるけれど、ほなみの内実を描くことは十分にはできない。それはしたくない。それはしたい。でも、僕はそれをしたくない。だから、僕は文章を書いている。その日、僕は、ほなみと赤いポストの中に迷い込んで、一緒に迷い込んだまま時間を過ごした。

 どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。

 四十歳を過ぎたくらいの中年の郵便配達夫が赤いポストの実を鉈で切り開いた。すると、そこには、ぷかぷかと浮かぶ透明なおしっこの中で眠る、ほなみと僕がいた。

 郵便配達夫はびくっりしていた。

 でも、その頃には僕らは、あんなにも不思議、奇妙、びっくりしていたのに、こうした不思議、奇妙、びっくりに慣れ親しんでいて、別に、全然不思議、奇妙、びっくりな事柄に対して、少なくとも表面上は、不思議がりも、奇妙に感じも、びっくりもしなかったので、すごく冷静な印象を与えたに違いない。

 それにしても、赤いポストの中に揺蕩っている間中、ずっと、文字が光って見えていたので、辺りを照らす光が光る文字の光だけだったので、赤いポストを出てすぐに太陽の光を感じ、太陽の光が辺りを反射して反射してほとんど隈なく照らしているのを見て、それら光全てが文字に見えて、この世界が全て文字に見えて、

「ああ」って意味のない感嘆詞を呟いてしまった。

 ほなみも、その時には目覚めていて、

「うわあ。すごく、記号。境界線が、ない」って呟いていた。

 その間、郵便配達夫は二度ベルを鳴らしていた。

 焼けた途端屋根の上の猫。

 欲望という名の列車。

 セールスマンの死。

 あんなにも赤いポストの中では光っていた文字は太陽の光の文字の大群の中で相対的に光を弱めて、ただの線になっていった。

 ほなみの透明なおしっこは、ポストの外の空間へぷかぷかと四散し、文字の書かれた手紙は概ね、郵便配達夫がバイクの後ろのでっかい箱に詰め込み、僕とほなみはお互いにお互いの手紙を交換して、立っている。

「体がすごく濡れました」

「濡れた体をかわすために、少し歩きますか」

 うん。

「はい」


 歩いていると、どこにたどり着くのだろうか。

 知らない場所を歩いていると、panpanyaの漫画のようになるのではないかと思っていたらそうでもなかった。

 短い足をせこせこと動かしていることにかけては僕らもミニチュアダックスフンドと差異はなく、サハラ砂漠に大量のダックスフンドが放される動画を見たことがあるが、それはまるで手足をもがれた肉の塊か、犬の形をしたとうもろこしのようにごろごろと転がるばかりで、時折、ぱんぱんとポップコーンが弾けるように、犬が、短い声で鳴いていた。そのような、暴力を厭わない、技法、余念のなさで、撮影された動画ばかりを集めた、レンタル動画スペースに僕は身を委ねたことが、よくあった。そこには同い年くらいの人間がよくいて、彼らは僕よりも、おじっさんっぽい風態でそこにいて、僕はそれを動的立体鏡と呼んで気持ち悪がって避けていた。僕が髭を生やしていると、彼らもたいてい髭を生やして、僕が全身にニキビができて、そのニキビを、流動的に動かしていると、彼らも同じように流動的にニキビを動かして、流動性ニキビは、昆虫のように増殖した。『柔らかい世界から朽ちていく世界へ』の分水嶺のような集約された場所だった。柔らかいものが集まってきて、朽ちていくものが集まってきて、双方向から集まってきて、でも、どちらにも、リアリティが欠落していく場所だった。そんな場所があること、ほなみは、きっと、まだ知らないのだろう。

 そんなことはさておき、僕とほなみは、また、歩くのだった。

 濡れていた体は、乾いていった。尿素が塩化ナトリウムが、結晶となってのこった。

 風が強くふいてくれて、それらが、黄砂のように黄色く、飛んだ。

 あれ、透明なおしっこでもその結晶は黄色いのか、と思うけれど、太陽の煌めきに反射して黄色く見えるのだろうと、しておこう。

「ほなみ、お腹減ってない?」

 うん。

「ほなみ、お腹減ってない」

 目の前の、巨大なビルが、さらに巨大なクレーン車によって引っこ抜かれている光景が、土手の向こうに広がっていた。地中に埋まっていた三十階建てくらいのビルが、『ぎぎぎぎぎぎ、ばにょーん』と引っこ抜かれると、地中に埋まっていた部分が露わになり、その部分は、とてもとても長い、白い大根だった。そして、そのとてもとても長い、いうまでもなく太い、そして、最終的には白い、大根は、すぐさまに野菜市へと売りに出された。神奈川のような大都市圏においてさえ、このように、野菜が豊作となりうるのである。別の方角へ目を転じると、東京タワーが引っこ抜かれているところで、東京タワーの地中からは、まるで、地面に埋められていた電信柱と電線とが『ぐにょぐにょぐにょぐにょ』と芋づる式に引っこ抜かれてしまうかのように、『びんびん』と電波を発しながら、太い、太った、モスラくらいのサイズのサツマイモが次々に地上へ引っ張り出されていて、

「びっくりしました」

「今更、驚かないよ」

「びっくりします」

「びっくりしたら、びっくりしただけ時間が早く過ぎてしまうような気がするんだもん。違法薬物に酩酊しているみたいに」と僕は言った。

「そんなこと、ないですよ」ほなみの声がすぐそばできこた。僕の耳に住んでいるのかと思った。事実は、僕が耳を澄ましているのだった。ほなみの口の中に、僕の耳が住んでいた。先日、お土産に買い与えて食べさせたドーナツの穴が実はドーナツに偽装した僕の耳の穴で、そのドーナツを食べ終えてしまってからというもの、穴だけが、ほなみの口の中に残り、僕の耳の穴は、ほなみの口の中にある。でも、そんなことを言い出したら、僕たちの体内には、これまで食べたすべてのドーナツの穴が消化しきれないまま、穴として、取り残されている。そんなことを言えば、ちくわだって、そうだ。輪っか上に切り取ったパイナップルだって。人間の体の中は、穴だらけだ。そしてその全ての穴が僕たちを大事に思う誰かの耳の穴なんだ。

 目を転戦させると、別の方角では、富士山が、『ばにょにょにょにょ』という勢いで、大きくその全貌を上昇させて、富士山の地中に隠れていた、真っ赤な柄が露わになった。富士山は、富士山の形をした、白赤青という柄の巨大なキノコだったのだ。キノコ雲はどちらかと言えば、くらげに見える。くらしっくくらげが暮らしている海のそばのくら寿司。一言で要約して仕舞えば、

「くらくら、くらくら、してしまうね」僕はびっくりする代わりに、くらくら、くらくらした。それは惑星に似ていた。惑っているのは、惑動している星の方ではなく、それを線として見つめようとする人間の方だ。僕は事実に対しては、びっくりしたりせず、ただ、惑っていたかった。

 ほなみはスケッチブックを持っていた。

 ほなみの手提げ鞄には、文庫本数冊とスケッチブックなどが入っていた。

 僕のカバンには、衣類やお土産やノートや筆記具などが入っていた。

「絵を描きますか?」と僕はほなみの重心の移動などを見て、そう提案した。

「どうしようかな」などとほなみは、惑っている。

「絵を描くにはうってつけの情景かもしれませんね」となんとなく背伸びをしながら僕は呟いた。もしかしたら、この言葉だけ、天国にいる神や天使や死者たちに届けたかったのかもしれない。

 そのようにして宗教画は描かれる準備を整える。

「そうかもしれない」とほなみは言った。消えいるような、新しいものが始まるような声だった。

 僕は、ほなみのことを愛しているような気がした。

「座る場所がいる?」

 うん。

 土手まで突き進むと子供の死体がたくさんあって、積み重なっていた。子供は小さいから大人のしたいよりも隙間なく積み重なってしまえる。まだ、首だけ生きている子供がそっと口笛を吹いていた。女の子の吹く口笛の音色だった。さくらんぼが口からこぼれる時の音だ。すると、黒い鳥も黒くない烏も周囲からわっと集まってきた。「おいで、烏さん。もう、好きにしていいよ」その女の子はそう言い。烏たちは啄むことを始めた。尖った嘴。わーっと叫びそうになるのを抑えて、見守った。烏たちが、丁寧に、子供たちの切り刻まれた肉体と一緒に切り刻まれて、切り絵みたいに色とりどりに血の粘着質によって子供たちの体に張り付いて色鮮やかな子供服を、脱がせていくのをじっと見つめた。ぽろり、ぽろり、と女の子の吹く口笛の音色意に似た音色がすると思ったら、脱がされた衣類から、若い女のさくら色の乳房が溢れた。べべんべんべんべんとでもいう、琵琶を和太鼓のように打ち付けて弾いた時の音のような音がすると思ったら、若い男の肉質のちんちんや金玉などが、脱がされた衣類からこぼれ落ちる時の、弾性のあるドッチボールやバスケットボールのような跳ね返り続ける音だった。土手までいくと、男も女ももみくちゃに、子供の死体が、たくさんあって、謎だった。神奈川では、不可解なほど悲惨な事件がしばしばある。僕は泣いていた。なんとなくないた。いないいないないた。

 ほなみが座っている。

 土手の草むらのなかにほなみが座っている。

 みずがめ座みたいだった。

 ほなみが座っているという叙述の、ほなみが座が、みずがめ座みたいだと思った。

 ぼくとほなみが座っている、が、また、別の星座みたいに見えた。ふたりが座っている、が、ふたりが座になった。

 僕がそんなことを思っていると、ほなみが、線を画用紙に掻いている。小さな手が、動いている。

 烏は子供たちを脱がせ終わると、「かあかあかあかあかあ」悲しそうに鳴いていた。

 子供たちを滅多刺しにして、その後で、太いペニスで犯そうと思っていた真っ黒な衣類と真っ黒なゴム手袋と真っ黒なマスクと真っ黒な覆面と真っ黒な剥き出しのペニスなどで、身を包んでいた男女交々のペドファイル的な人たちを見かけた神様が、神罰を下そうと思い、彼らが真っ黒な烏にしてしまったそうだ。

 そのような古事記には載っていないけれど、神話が、この神奈川には、古くから伝わっているそうだ。

「烏さん。おいで。もう。好きにしていいよ」

 カラスの太かったり細かったりする黒い嘴が、人間の黒いペニスを思わせた。常にボッキしている点が嘴をペニスより硬質に育て上げた。つぶらな瞳が、人身御供、じっと、僕らを見つめていた。

「でも、もう、そんな気分じゃないんだ」と或る烏は言った。

 僕は少し鳴いた。

 気がつくと、ほなみの目から桜の木が生えていて、桜の花びらが、舞っているところだった。

「私は涙が出にくいのですが、代わりに、私は泣くとこうなります」と教えてくれた。はらはらと桜の花びらが、舞っていた。満開だった桜の花は、水気を失うように、全ての花びらを落とし、ただ枝だけになった。その桜の木の隣で、ほなみは立っていた。もう、目から桜の木が生えていることはない。

「悲しくなると、鳴いたほうがいいですよ」

「そうなのかな」

「背追い込み過ぎないほうが、背負い投げ」

「そうかな」

「背追い込み過ぎないほうが、いいですよ」ほなみは滅多に教えてくれないけれど、たまにはそんなふうに、何かを教えてくれたのだった。

 ほなみは十九歳。尖ったペニスよりも鋭敏な感受性。

 黙っていたら、抜けているんじゃないかなこの子、と思てしまう容貌。

 森森と湖面のように湛えられた知性のようななんかよくわからない深い森みたいな何かを湛えているほなみ。

 ほなみは、相変わらず、スケッチブックに、引っ掻いていた。線を引っ掻いていた。

 ぼくはそんなほなみを、ちょっとくらい指先でなぞるようにつっついてみたかったけれど、やめた。集中している人を崩すのはよくない。でも、笑ったり目線をこちらに向けた瞬間の表情を見たい。感じたい。

 ほなみは、相変わらず、スケッチブックに、引っ掻いている。

 子供たちからは、口笛が聞こえている。

 烏たちは、子供たちの服を完全に脱がせ終えると「ぺにすぺにすぺにす」と言いながら飛んでいった。ヴェニスに向かって飛び立ったのだろうか。でも、死なないほうがいいよ。

 象のような鳴き声が聞こえたから目を覚ますと真っ赤なバラが象のように鳴いていた。

 ふっと体が軽くなって、ごく短時間眠っていたようだ。

 ほなみを見る。

 ほなみの描いたものを見る。

 抽象的にかたどられたそれが、何を指し示しているのか、わからなかった。

 ビル、大根、東京タワー、サツマイモ、富士山、キノコ、なのか、それとも、子供のたくさんの死体と烏と口笛とペニス、なのか、それとも、

「寝ていましたね」

 うん。

「寝ている間は何が見えているんですか」

「わからない」

「寝ている間あなたが見えていましたよ」

「そっか」

 疲れていないけれど、ほなみのそばにいると、しばしば眠る。生命線がぷっつりと切れてしまうみたいに、眠る。

 ほなみが、内心起きてほしいな、と思うタイミングで目を覚ます、ようになりたい、と思った。月が何もない空白を見つけては、月がぽっかりとと浮かび上がる。月が浮かび上がったところで、空白は埋めようがないほど空白だ。空は白い。真っ白い。月が柔らかい柔らかい。風が吹くと飛び立ちそうになるくらい、軽い。軽い。軽い。


 お腹が減っているのだろうか。剥き出しのペニスがうまい棒に見えるようになってからというもの僕のお腹がぐーぐーとなっていた。ぐーぐーとなっているお腹に向かって、ぱーぱーと呟くけれど、横からほなみが、

「ちょき、ちょき」というものだから、一向に埒があかない。

「これじゃあ、いつまでたってもあいこじゃないですか」

「これじゃあ、いつまでたってもあいこですね」

「ほなみは、お腹空かないの」

「どうだろう、お腹減ってる?減ってない?うーん」迷うような素振りは一切見せずに、ほはみは呟くように考えている。ほなみの掌はいつまで経っても温かい。体温が温かい。

 僕たちの世界。

 少しずつ、広がっているのだ。

 境界が、あいまいなまま。

「ずっとそばにいるから、僕も、お腹が減っていることを、忘れてしまった」

 うん。ほなみが頷く。

 コンビニ弁当が売られている。

 そうだねと彼女が言った。ほなみ以外に、女の子が流れるように歩いている。人間がそこそこちゃんとそこにいる。僕とほなみは、あまり歩かないで遊歩道の上にいる。ところで、ほなみは、先ほど書いたスケッチブックを僕には見せてくれずに、見せるのを忘れているのかもしれないけれど、鞄にしまって、のんびりとした表情で、過ぎゆく何かを眺めている。こんな腑抜けた気持ちになっている僕自身もいいものだな、と思う。ほなみのことを、ちらちらと視認しながら、僕も、過ぎゆく女の人たちなどを眺めている。彼女たちは急いでいる。忙しそうだ。森に行きたいと思った。例えば森に、ほなみと一緒に行くならば、海でもよかった。映画でも見にいこうか、と思った。ほなみと一緒に。今は、夏と秋の境目だから、花見という季節でもない。いつか、はなみとほなみに行きたいも、と思っているけれども、それは今ではなさそうだ。どこへいこうか。どこへでもいい。穴の空いた靴下から親指が飛び出してしまうように、どこかへ、飛び出してしまおう、と思った。

「物理学は好きですか?」

「どうだろう?たぶん、好きです」

「僕も、物理学は、好きです。よく、YouTubeとかでKaku Michioとか見ています」

「好きな食べ物は何ですか?」

「うーん、わからないな。まだ、好きな食べ物を食べていない気もするし、よく、わからない。嫌いな食べ物はないんだけど。好きな食べ物の思い出ならあるんだけどなあ」

「私も、そうかもしれないです」

「そうなんだ。回転寿司とか好き?」

「うーん」

「はしゃいでいる僕がいる。子供の頃を思い出すと、はしゃいでいる僕がいます」

 うん。

「はしゃいでいる僕を見ると、なんだか、とても、いろいろなこととすれ違ってしまっている気がする」

 うん。

「さっきまで、何を描いていたの?」

「はな」

「はな」

「むし」

「むし」

「とり

「とり

「とりちうむ」

「とりちうむ」

「命とか」

「命とか」

「記号」

「記号」

「とか。まだ、ここまで」

「うん」

 記号というのはすごいね。ほなみさんがそこにいるのに、ほなみさんがほなみさんを描いている気がする。たぶん。

 海を見にいこうと思った。ほなみと一緒に、海を、見たかった。でも、目につくのは、回転寿司屋さんくらいだった。

「ほなみ」

「はい」

「すき」

「はい」

「すきすき」

「はいはい」

 蝋燭の炎をぼんやりと見つめていた。街の明かりが、一本の蝋燭に集約されて、炎になっていた。真昼の炎天下の、炎。ゆらりゆらりと風にはためくと、白い蝋が垂れて、それが、甘い感じがする。そう、それが。

「はい」

「すき」

「はい」

「すき」

「はす」

「きい」

犬が

「すき」

信号の横断歩道が、青になって、アスファルトの上が青土社。そして、横断歩道は赤になって黄色になる。

「ほなみは、何が好きなの?」

 ほなみが、微笑んでいる気がした。なかなか答えない空気が、答えな気がした。

 ただ、僕は、ほなみと時間を過ごしていた。

 雪山にとって雪山を滑るスキーヤーってどんな存在なんだろう。

 それは、大切な時間の過ごし方だった。

 思い出とかじゃなくって。

 刹那。

 ほなみの体が、風に吹かれているのが嬉しかった。

 そういえば、忘れていたけれど、ほなみの指先からは、ずっとずっとずっと透明でぷかぷか浮かぶおしっこが放出され続けているのだった。あ、忘れていた。そんなこと、あ、忘れていた。僕はほなみのことが好きだった。あ、あ、あ

「愛してる」

「うん」

「愛してると思う」

「嬉しいです」

「うん」

 うん。

「たぶん。あ、あ、あ、愛してる、と思う」

「うん」
「あいしてる」
「そんなに率直に自分の気持ちが言える人、うらやましいです」

「俺のこと羨ましがらないでよ。大好きだよ。ほんとうに。ずっとずっとずっと」透明でぷかぷか浮かぶ「愛してる」って言葉を放出し続けようか。その言葉には、おしっこの香りが、するのだろうか。ずっとずっとずっと「愛してる」透明で、ぷかぷか浮かぶ「愛してる、ずっとずっとずっと、透明で、ぷかぷか浮かぶ。愛してる。うん」

「好きとか、愛してるとか、言われすぎて、ちょっと混乱してしまいます」ほなみは笑う。

 混乱することは、ほなみにとって、いいことなのか、わるいことなのか、わからないから、僕は、実は僕自身の方こそ、混乱しているのかもしれないのに、ほなみが混乱しているとおもって、心配になる。混乱しないほうがいいのかな。混乱したほうがいいのかな。

「ずっとずっとずっと」と言った。

 うん。

 そして、東海トラフ直下型地震。すごく、揺れた。


 どこか優しい場所。どこか優しい場所。ドラムの音。死。

目覚めると空が茶褐色。

 至る所に生き埋め。

ほなみを探す。

 すぐに見つかる。

大丈夫?

 うん。

好き。

 うん。

大好き。

 生存確認。

生きる意味。

 地震なんて安直な気もする。何にもない場所が出来上がる。


 ぼんやりとしていた。事情を説明すればわかってもらえると思うけれども、上記の文章を書いてから、地震が起きちゃった、で放置したまま、一週間が経過したのだ。文章を書いていると、よく、こんなこともある。だから、地震。とか、関係なく。いや、関係あるんだろうけれども。ぼんやりしてしまう。どうしたものか。とりあえず。どうしようか。困ったな。

「ほなみ」とりあえず、呼びかけてみる。ほなみ、は、そこに、いるのだろうか。返事は、返ってくるのだろうか。僕は、ほなみが好きなのだった。わからない。こわいな。「ほなみ」

「うん」ほなみは返事をする。でも、本当に、これは、ほなみの返事だろうか。僕がとりあえず、ほなみ、と呼びかけたように、とりあえず、うん、という言葉が、「うん」と返ってきただけかもしれない。ほなみは、そこにいるのだろうか。あまり、気にしていても、始まらない。

「とてもとてもとても」

「はい」

「大きく揺れましたね」僕は喋る。

 うん。ほなみは、頷いているようだ。ほなみが頷くと嬉しい。嬉しいから、嬉しい。

「僕は、一瞬、ぽん、と宙に浮かんで、楽しいかも、って思いました」

「楽しいかも」

「うん。地震、楽しい」

 辺りは全て平面だった。建物などは全て壊れて、断片となり、その断片が、重なって、パズルのピースみたいに平面状に合致して、辺り一面、とても平らに広がっている。その風景を見ていると、僕はくるくるとその場を回りたくなる。前後左右どこを見ても何もないのだ。くるくると回り始める。

 忘れてはならないことが一つあった。おしっこだ。ほなみの指先からは、透明なぷかぷか浮かぶおしっこが常に流れているということ。僕は、それを思い出す。ほなみと目が合う。地震によって、何もかもなくなって、ただ平坦な場所に二人だけ存在している。だから、ほなみは、どうしたら良いのかわからないように、僕を見て、また、辺りを見回した。何もないから、何を見ているのだろう。ほなみの指からは、おしっこが漏れている。そこもまた、可愛いのだと思った。

「ほなみ」ってまた、呼びかけてみる。

「はい」

「ちょっと歩きますか」歩いてばかりな気がする。

「はい」


 歩いている最中いくつかの話をした。

 どんな話だったかは、覚えていないけれど、『岩手の若手の右手は左手』みたいな話をした。つまり、僕の方から、

「あのさあ、ほなみ。ほなみは知ってる?えっと。その。『岩手の若手の右手は左手』ってことなんだけど」みたいな話をした。

 あるいは、『すべての人間がアンパンマンだったら、お腹が減って倒れているだけで、次から次に千切られたあんぱんが与えられて、あんぱんが山のようになって、それは、それで困っちゃうけれど、でも、嬉しいような気もすると思うんだ』みたいな、話もした。

「アンパンマンしかいない、街」僕がつぶやいてみると。

 うん。やっぱり、一週間前の気分と、今の気分は、ちょっと違うみたいだ。何を書けばいいんだろう。わからない。一週間の間に書き溜めたアイデア帳がまるで、物語の続きに感じない。でも、もう少し書こう。僕はほなみと歩いている。あるいは、歩くのをやめて、ほなみと一緒に座っていたりする。僕はほなみに伝えたいことがある。その伝えたいことを伝えるために、何かを書こう。僕は、ほなみのことが好きだ。アイデア帳にはこう書いてある。『全ての人間があんぱんまん。』『目覚まし時計が蝉。目が覚めると、蝉が、死ぬ。』そんなことが書かれている。でも、僕は、大地震で、何にもなくなった場所で、ほなみといる。あんぱんまんも、目覚まし時計も見当たらない。目覚まし時計って大嫌いだ、うるさいから。こんなメモもある。『大地しん、すべてがパズルのピースのように浮かび上がり、すべてがより広い平面へと。』そんな風になってしまった。僕とほなみ以外に登場人物はいらない。いや、いたか。郵便配達夫に、少女に、烏に。でも、僕はもう、あとはもう、ほなみに伝えたいことを伝えられたらよい、と思っている。少なくとも、この小説においては、ほなみに、伝えたいことを伝えられたら、それでいい。楽しい気持ち、テンションが上がって、楽しい気持ち、で、文章を書くモードからはちょっと離れてしまった。とはいえ、最後くらい、ちゃんと、気持ちを伝えて、それで、この小説を終わって、それで、それで、それで、また、新しい幻想へと入って、でも、ほなみのことはずっと好きで、好き。

 僕が頭の中で考えていると、ほなみが、ほなみが、ほなみが、ほなみが、ほなみが、どこからともなく取り出した、インドカレーを食べている。緑色の蛾を指差している。銀色の三日月型の穴の空いたズボンを履いている。スケッチブックに線を描いている。ほなみが、何かをしている。僕は、ほなみを、見ようとする。見ている。ずっと見ていたい、と思う。見ている。ほなみが、動く。ゆっくりと動く。ゆっくりと動く彼女は、ゆっくりと美しい。ほなみは、僕が物語に描く女の子のように、問いを発しない。あまり。だから、ほなみとは、物語の中で、どんな風に会話をしていいのかわからない。物語の外で、例えば、現実に会って、LINEとかで話す時ならば、気軽く、僕が何かを話し、それに対して、ほなみの返事があり得るけれども、でも、僕は今、ほなみと大地震の後を過ごしていて、どういう会話をしたらいいんだろう。愛している。愛している。って思う。それで、愛させてほしいなって思う。指先を抱きしめたいなって思う。メモにはこうある『一目燎原の火。目からビーム。眼球がカタツムリのように飛び出し、物理的攻撃としての、目からビームで、すごく、怖い』すごく怖い。『眼球がカタツムリのようにぐにょーんと伸びて、それで、エレベーターガールがエレベーターボタンを押すように、敵の金玉などをそのぐにょーんの黒目の部分が強打する。すると敵は悶絶するのであるが、目をぐにょーんと伸ばしている方は、それのことをずっと目からビームが出ていると思っているが、実際には、目が、カタツムリのようにぐにょーんと伸びているだけであり、本人は気合いと共に【目からビーム!】などと叫んで、ポーズと共にその攻撃を行うのであるが、それは、それは、周りから見ると、ただのカタツムリみたいな人間である。大変だ。』と書かれているわけではなく、この場で膨らましたのだけれども、僕は素直なんだ、それはさておき、さて、そんな場面が、このほなみと僕の目の前にどのようにして展開されるというのだろうか。好き勝手なメモを残しやがって、などと思っても仕方がない。僕らは、この光景を実現するために、

「ほなみ、これからカタツムリみたいな男を探しに行こうか」

「カタツムリ男、かっこいいです」

「うーん」

 って会話をしたりするけれども、でも、僕は、やっぱり、そんな変なやつのこと探したくないから、とりあえず、ほなみに

「てをつなぎままっままっま」と言ってみて、なんだかんだもごもごしてから、手を繋いだ。「うわー」と叫んでみた。

「どうしたんですか?」びっくりするほなみをよそ目に、よせばいいのになあ、僕は、繋いでいない方の手で、目を覆って、

「めが、めが、目がああ、目からビームが出そうです」と言った。

 うん。ほなみが頷いた。「わかる気がします」

「でも、目からビームなんて出したくないから、我慢するよ。でも、目をぎゅっと閉じて、ビームが出ないように我慢していると、く、口から、口から口」僕は支離滅裂というよりも、何か、なんというか、なんだかなあ、違うなあ、と思うことを文字にしている。それはさておき、ほなみが心配してくれている。僕はそれが嬉しく思う。

 大きな満月かと思ったら、巨大な蛍だった。巨大な蛍かと思ったら月の光だった。メモにはこうある。『月、蛍。禿頭が月面のような男。頭を撫でながら。謎の出現』どんな男か、皆目見当がつかなかったし、それ以上に、謎の出現という出現の仕方がうまく思い描けないのだった。メモだけがあって、それで、僕は、ほなみと歩いている。『軽いものへの重心の移動。私の影へ。そして、浮き身』『メンフクロウの顔面みたいな切り株』そんな感じだった。

『おとこのこ全身がちんぽになってしまう。おんなの子あなたを受け入れるためには私まで全身おまんこにならなくちゃいけないじゃない!きんたまがない(ちんこだけ)。金玉をさがす旅にでる、全身ちんぽと全身おまんこ。ロードノベル』だそうだ。でも、『燃える君とSEXをして燃えたちんちん』ともある。『お金なんてないのに私が、空っぽの財布みたい』とも書かれていて、僕には、よくわからない。よくわからないけれどやってみよう。

 ふっと気がつくと、僕の毛穴の全てが扇風機になっていて、その毛穴からそれぞれに風が送風されていて、だから、うかぶうかぶうかぶうかぶうかぶ。鳥肌が、すごくなる。

「急にどうしたんですか」ほなみが言った。

「いや、僕もよくわからないけれど。そういう風にメモにあるから。だから、とりあえず、そうなってみようと思ったんだ。でも、そうなってみたはいいものの、そうなってみた今、よくわからない。どうしよう」

 ほなみが、困ってしまった僕に向かって呟く。

「岩手の若手の右手は左手」ほなみが言った。「大丈夫です」

「ありがとう」僕は返事をした。


 ここからが大事。

 ここからがほなみに伝えたいこと。伝えたいことなのかな。わからないけど。とりあえず、書いちゃおう。書く。

 ほなみの指先からは物語の最初からずっと、透明なぷかぷか浮かぶおしっこが流れ続けているのだった。それはとめどなく続く。

 もしもほなみが、何か、例えば、太陽とかをずっと指差し続けたなら、そのおしっこはずっと真っ直ぐに太陽に向かってまっすぐ、流れ続けて、宇宙空間だって突き破って、太陽まで辿り着く。で、太陽に到着して、じゅって蒸発する。

 それで、ほなみがずっと太陽を指差し続けていたら、いつかすごい大量のほなみのおしっこが太陽めがけて放出され続けて、だから、それで、太陽がほなみのおしっこにすごくすごく塗れて、太陽の火が消えてしまう。こともありうる。

 なんだったら、ほなみのおしっこは、太陽以外にも月とか火星とか木星とか、世界の果てにまで届く。すっごく、どこまでも届く。なんだったら、この宇宙全てがほなみのおしっこになる。というよりも、ほなみのおしっここそダークマターなのだ。

 それは、すごいことだと思う。ほなみは、すごいのでした。


 そして、僕は最後に告白しなくちゃいけない。これも、メモに書いていることなんだ。残念ながら。

 僕のちんこからも透明なぷかぷか浮かぶおしっこがたまに出る。ほなみと一緒である。

『いや、それは、カウパー氏腺液だ。』

 なんでこんな終わり方になってしまったのだろう。

 ほなみのことは好きで、大好きで、愛している。

 また、ほなみのために、何かを、書きたい。


 ほなみのおしっこは、必ず、この世界を満たす。その描写で持って、僕は、なにかを示したかった。示せなかったかもしれないし、示せたかもしれない。教訓としては、書くなら書くで中断せずに書こう、なのであった。そうだろうか。これはこれで、いい展開で、いい終わり方なんじゃないだろうか。わからない。でも、僕は、僕の書いたものが、素晴らしいと知っている。


 ほなみ。

おしっこ。

 透明。

ぷかぷか。

 どこまでも。

ずっと。

 流れている。


愛している。

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ほなみのおしっこ @DojoKota

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