緑の森よ

けいりん

緑の森よ

 父が死んだ。

 ほとんど顔も覚えていない父だ。唯一の法定相続人とかで役所から連絡を受けるまで、まだ生きていたということすら知らなかった。

 何をしていたのか知らないが、かなりの額の財産が残されているのだという。そこには、父が一人で住んでいた郊外の一軒家も含まれていた。

 正直なところ、全て放棄してしまおうかとも思った。裕福とは言えないが、特別困っているわけでもない。そもそも遥か昔に縁を切った父だ。今更都合よく遺産だけ受け取ろうというのも気が引けた。

 だが一方で、それこそ今更のように、興味が湧いてきた。母と僕を捨てて出て行った父が、これまでどのように暮らしてきたのか。どうやって財を築くに至ったのか。

 その上、僕はちょうど、都会のアパート暮らしにも飽きて、もう少し静かな環境で暮らしたいと思い始めたところだった。

 母との思い出をもとにした短編小説でちょっとした賞をとり、その後も文芸誌にぽつりぽつりと作品を発表していた僕は、腰を据えて執筆に取り組む場所と時間を欲していた。もちろん専業でやっていけるほどの収入があるわけでもなく、半ば諦めていたのだが、そこにこの話だ。当面生活に困らない程度の蓄えと郊外の静かな環境が同時に手に入るということには、抗いがたい魅力があった。

 こうして僕は父の残したものを受け継ぎ、その家に引っ越すことを決めたのだ。


 それは駅から二十分ほど歩いたところにある古風な洋館だった。駅前にはちょっとした商店街があり、古い店ばかりとはいえ、それなりに賑わっているのだが、この家は背後の深い森と未舗装の道路、元は田んぼか畑だったと思われる荒れ果てた土地によって、人の気配から隔絶されていた。

 父が亡くなったのはひと月ほど前だというが、それにしては荒れている、というのが正直な感想だった。壁に這う蔦は「雰囲気がある」などといった段階をとうに過ぎて無秩序に生い茂っているし、庭にも雑草が伸び放題になっていた。裏側に至っては半ば森に侵食され、木の枝が伸びてきていて、根から分かれたと思しい若木まで生え始めている。

 だが、家の中はそこまでの惨状に陥ってはいなかった。どこも綺麗に片付いていたし、積もる埃もごくわずかなものだ。それでいて無機的な冷たさに支配されているわけでもない。食器の片付け方、ソファの微妙な凹凸、そんな微細な部分に、たしかにひと月前までここで何者かが暮らしていたのだという、えも言われぬ雰囲気のようなものが漂っていた。

 それなりにきちんとした暮らしを送りながら、父は庭や外観を整えることには無頓着だったのかもしれない。そうでなくとも、このひと月の雨と暑さでは、植物が一気に覆い茂ってしまったとしても、おかしくはないのかもしれない。

 業者に頼むことも考えたが、せっかくこのような場所を手に入れたことに、ある種の興奮を味わっていた僕は、自分で何とかならないものだろうかと考え始めていた。母のいた頃からほとんど小さなアパートでの暮らししか知らなかったこともあるし、それ以上に、「半ば植物に覆われた古びた洋館」という存在には、どこか、小学生の頃「秘密基地」をしつらえたときのような、ドキドキをかき立てるところがあった。自分一人の場所に、簡単に人の手を入れたくない。言葉にすればそんな感情だったろうか。

 僕は通販でエンジン式の草刈機を買い、ハンディの電動鋸を買い、高バサミを買い、脚立や軍手や電気コードのリールなどを買った。慣れない上にどこから手をつけていいか分からず、手探りでの作業開始だった。最初のうちは何度か危ない場面もあったものの、やがて少しずつ慣れ、そうなってくると次はどこを刈り取ろうかと考えるのも楽しくなってきた。作業と共に地面や壁面が露わになっていくのにも、達成感を覚えた。

 まだ梅雨が明けるまでには間があり、雨で作業が進められない日もあったが、だからといって短期間で一気に盛り返されることもなく、家は着々と、その姿を曝け出しつつあった。


 様子が変わったのは、梅雨が明けた頃からだ。

 少しずつ、植物たちが反撃を開始したのだ。

 それなりに大きな家だ。一度に全ての場所を刈り取ろうと思えば一日仕事になる。だから今日はここ、明日はむこうという具合に、少しずつ地道に作業を続けてきたのだが、その間に、以前に刈り取った箇所が、再び緑に覆われるようになってきたのだ。

 僕は作業のペースを上げ、今までより広い範囲を一度に処理するようにした。だがそれにも限界があった。強い日差しも、僕を妨げた。あまりにも長い時間、外で作業を続けると、意識が朦朧としてきて、命の危険すら感じるようになったからだ。暦の上では”小暑”だというが、それなら夏の盛りはどうなってしまうのか。ついそんなことを考えてしまう。

 家に入り涼めばいいのだが、少しじっと休むだけで、こうしている間にも緑がじわりじわりと己の領土を奪回しはじめているのではないかという強迫観念に襲われた。カメラの高速度撮影そのままに、目に見えて葉を重ね枝を伸ばしていく植物の姿が頭に浮かぶ。そうなるといても立ってもいられず、僕は十分な休息も取れないまま、再び彼らとの戦いを再開することになるのだった。

 根から掘り返してもみた。除草剤も撒いた。

 だが、その効果はごく限定的だった。効果があったと見えた間にも、他の部分でこれまで以上に緑が深まる。そして気がつくと、根本から絶ったはずの命が、再び芽吹き己の存在を主張し始めているのだった。

 わけても厄介だったのが、壁面を覆い尽くした蔦だ。

 アイビー、というのだろうか。朝顔にも似た形の、白く葉脈を浮き立たせた濃い緑の葉は、古風な白壁の洋館には、似合っている、とさえいえたかもしれない。だがそれも、適量であれば、だ。壁面はもちろん、柱、窓枠、破風、あらゆる場所を覆い尽くし、少し刈り取ったくらいではびくともしない、そんな姿は、もはや家自体が背後に擁した森の一部などではないかと思わせるほどだった。一度は随分とその量を減らすことに成功したのだが、装飾として残しておこうかと考えたことが仇となったのか、今では初めてこの家に来たとき以上に、鬱蒼としげり、それ自体密林のような趣さえ携えている。

 ある朝、玄関から外へ出ようとして、僕は愕然とした。ドアが、開かない。力を込めて押すと、さわさわ、ぶちぶちという音と共に、家の中にアイビーの葉が落ちてきた。寝てる間に、玄関ドアさえ、この緑色の生命は覆い尽くしてしまったのだ。

 その日、僕は狂ったように、玄関側のアイビーを取り去ることに熱中した。その蔓と葉の下は、さながら一つの生態系だった。さまざまな虫たちが這い、巣喰い、お互いを食い合いまたは利用しあっている。特に多いのは成虫になりかけの蟋蟀の姿だった。ゴキブリと見まごうその姿に嫌悪を覚え、僕は引きちぎった蔦と共にその虫を踏み潰した。体液が飛び散り、嗅ぎ慣れた青臭い匂いに、生き物の生臭さが加わった。だがもちろん、簡単に駆除できるわけがなかった。

 壁面が露わになるにつれ、一部では根が壁の亀裂に入り込んでいることがわかった。これでは刈り取っても刈り取ってもキリがないはずだ。大規模な改修が必要だろうか。

 いいや、僕は思った。少し意地になっていたのだと思う。連日熱気に炙られたせいで頭が回らなくなってもいたのだろう。

 断じて、負けない。僕は必ずこの手で、この忌まわしいものたちを根絶してやる。

 そんな頑なさが常軌を逸したものであることにも、僕は気がつけなくなっていた。

 蔦と戦う間にも、裏庭に侵入した森が再び領土を主張し始めていた。僕は躍起になった。ホラー映画の殺人鬼さながらに草刈機を振り回し、自らの健康も顧みない勢いで除草剤を撒き、奇声を上げては枝や蔦をちぎり打ち捨て、虫たちを踏み潰した。そして再び壁の蔦を駆逐しにかかる。こちらをしてる間に彼方が伸びているのではないか。こんどはそっちが根を広げているのではないか。そんな切迫感に囚われ、僕は家の周囲を走り回った。

 昼間は熱気に朦朧としながらそんなことを続け、夜になればなったで、またアイビーや草木がこの家を覆い尽くし始めているのではないか、そんな不安に苛まれまんじりともできずに過ごした。幾度かは飛び起きて懐中電灯を片手に外を見回りに行ったこともある。

 父は、このあまりにも力強く執拗な生命の侵略と、どうやって戦ってきたのだろう。

 もしかすると、父の死因は、この戦いに疲れ果てたからではなかったのか。

 そんなことを考えた、ある夜、夢を見た。

 父の夢だった。

 何十年も会っていない、写真を何枚か見ただけの父は、やけに機嫌の良さそうな笑顔で、僕に手を振った。

 その目が、深く暗い、アイビーグリーンの輝きを宿しているのを見て、僕は恐怖と共に目を覚ました。

 苦しい。息ができない。何だこれは。

 喉を何かが塞いでいる。口から何かが体の中に入り込もうとしている。

 僕は必死てその何かを掴み、口から引き抜いた。

 咳き込み、胃液とも唾液ともつかない粘液を吐き出しながら、僕は手に握ったものを見た。

 アイビーだ。アイビーの蔦。

 僕は絶叫した。

 手に掴んだ蔦を引きちぎり、床に叩きつけ、踏み躙った。明かりをつけると、それが窓から侵入していることがわかった。悍ましいことに、他にも、何本も。

 僕は目についた椅子を掴み、窓に向かって投げつけた。ガシャン、とガラスが割れたが、椅子はそこでとどめられた。窓の外を覆い尽くした蔦のせいだ。僕は階下に走り降りた。玄関の脇に置いてあった草刈り機を手に取り、やはり蔦に覆われ開かないドアを力任せに開けて、外にまろび出る。

「こいつめ! くそ! この緑野郎!」

 僕はわけのわからないことを叫びながら、草刈機のエンジンを回し、そこらじゅうの壁という壁に、むやみやたらとぶつけ続けた。壁も草刈り機もボロボロになっただろうが、構ってなどいられない。ただただ、恐ろしかった。庭を覆い、家を覆い、その中にまで侵入してきた植物たちが、今度は僕までも自分のものにしようとその邪悪な触手を伸ばしてきたのだ。正気でなどいられるわけがない。

 そのとき、気づいた。

 そうだ、火だ。

 蚊取り線香をつけるために買ったライター。そして草刈機用のガソリン。

 僕は機械を止めると、物置に入り、ガソリンの入ったポリタンクを運び出した。自分にかかるのも構わず、そこらじゅうに撒き散らす。最初にたくさん撒きすぎて裏手まではもたなかったが、一度火さえつけばこちらのものだろう。僕は笑いながら、ライターに火をつけた。

「くたばれ!」

 その日を、手近な葉の一枚に近づけると、炎は爆発的な勢いで燃え広がった。

 僕は笑った。勝った。ついに勝ったのだ。

 ざまあみろ。僕の勝ちだ。

 炎は蔦を焼き、草木を焼き、そして家をも焼いていった。

 

 そのあと何がどうなったのか、よく覚えていない。気がつくと僕は病院のベッドに寝かされていた。

 思い返すと、僕自身随分とガソリンを被ったような気がするが、奇跡的に小さな火傷をいくつか負っただけで済んだようだ。火事に気がつき駆けつけた消防隊員に救助された僕は意識を失っていたが、おそらく極度の疲労と栄養失調のためだろうということだった。

満足に寝ることもできず、炎天下で一日中作業を続けていたのだし、そういえば食事も、前にとったのがいつだったか思い出せない。無理もないといえた。

 点滴を受けながら目覚めた僕の頭はやけにスッキリしていた。こうなってみると、僕が最後の夜にあそこで経験したことが現実だったのかどうか、はっきりわからなくなってくる。いや、それよりずっと前から、僕は正気を失い、植物が自分に敵意を持っているという妄想に囚われていたような気もするのだ。

 目覚めて何日目かに警察が来て、僕に放火罪の嫌疑がかけられていると説明した。それはそうだろう。あの家の周囲には他に誰もいなかったし、あのまま倒れたのだとすれば、僕の傍にはポリタンクとライターが転がっていたはずだ。

 今後は「正常な判断力を失っていた」とでも主張して裁判を戦うことになるのか。僕は自嘲気味にそんなことを考え、笑った。

 そしてその夜。

 僕は病院を抜け出した。

 警察に捕まるわけにはいかない。留置所などに入るわけには。

 僕は、帰らなければならなかったからだ。あの土地へ。あの、深い森へ。

 夏の日差しの中、今や家の焼け跡を覆い尽くそうとしているであろう、あの命溢れる場所へ。

 全てを覆い尽くす深く暗い緑の世界に、僕は帰っていく。彼らは僕を受け入れるだろう。一部が焼けてしまったことなど、彼らにとっては何ほどのこともないのだ。

 家と共に燃え尽きたかに思えたアイビーも、今や僕の身体の中で、確かに息づいているのだから。

 唇の端からはみ出そうとする蔓を、僕は腹の中に飲み込んだ。

 まだ早い。もう少しだ。もう少しで、あの場所に着くから。

 もう少しで、帰れるから。

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