三色マーマレイド

Sinkey

三色マーマレイド

 三色マーマレイド




 マーマレイドに辛さはないわ。


 当たり前でしょ、と、私は言った。


 そんな半生だったのよ。


 母は、それがさも当然のように言うものだから、私は首を傾げるしかなかった。




 一、パパとママとわたし



 乱れ咲く島原の蘭白日夢はくじつむ



 だっだっだ! と、急な階段を駆け下りる。

 下り終える頃にはトーストのいい香りがお鼻に触れる。

 洗面所から「おはよー!」と元気にあいさつ。

 じゃぶじゃぶ顔を洗って、ぱぱぱっと寝癖を直すと、キッチン前の朝食テーブルまで大股歩き。


「パパママ、おはよー!」


 と改めて、元気にあいさつ。

 洗面所からするあいさつは、「わたしがおきたよー!」って知らせるためのものだから、こっちがほんもの。


「「おはよう」」


 と、パパとママがあいさつを返してくれる。

 けれど――、

「――元気なのはわかったから、階段は走って下りちゃダメって言ってるでしょー」

 ママが、わたしの分の目玉焼きを焼きながら、ムッと顔で言ってきた。

「ごめんなさーい」

 とテキトーに謝りながら、わたしはパパの正面の席につく。

「もぉー、パパからも言ってよ。あんな高いところから落ちたら、ただじゃ済まないんだから」

 目玉焼きをくるっと裏っ返しにしながら、ママはわたしのお叱りをパパに任せる。

 わたしの正面で、トーストにバターをつけるパパが、のほほんとした顔で、「ゆっくり下りないと、去年のパパみたいになっちゃうぞー」と楽しそうに注意する。

「ちゃんと注意して。」と、目玉焼きを白いお皿に乗っけるママ。「お義母さんたちから継がせてもらったお家なんだから、大切に住んでくれないと。――って、本来、パパが言うべきなんだよ」

 パパが、トーストにジャムをつけながら、

「それはそうかもしれないけどさ、こんな元気な姿、もしかすると、あと数年で見られなくなるかもだから。この時間を堪能しないとね。あむ」

 と、トーストをおいしそうに頬張った。

「そぉーだよねえ、ぱぱー。よっちゃんなんか、毎日『おとーさんきらーい』って言ってるもん。他のみんなも言うんだよー」

「だからって、」

 ママがなにかを言おうとした時、ガシャン、と、ポップアップのトースターから、わたしの分のトーストがほくほくお出まし。わたしはそれに手を伸ばし、

「――あちっ」

 すこし、やけどしたかも。

 それでもトーストをプレートに乗せると、ママの分の食パンをセットする。

 タイマーもセットして……。

「もぉー、去年のパパみたいに骨折しても知らないからね。――はい、目玉焼き」

 冷たい言い方だったけど、ママが、両面がいい具合に焼けた、もくもく湯気を伸ばす目玉焼きを持ってきてくれた。

 ママは、わたしの分の目玉焼きを作り終えると、ふぅと席に着いて、細い湯気の立つコーヒーをしんちょーにすする。それからパンが焼けるのを待つ。

「…………」

 わたしはテーブルを眺める。

 わたしのまわりには、トースト一枚と、バターがひと欠片と、それから牛乳と、

 あと、真っ赤っかのいちごジャム。

 だけど、パパのところには、ふたつのジャムが。

 オレンジ色のジャムと、ルビーみたいな鮮やかな赤色のジャム。

 わたしは、トーストにバターをべたっとつけて――


「――パパ! マーマレイド、ちょーだい!」


 トーストを食べ終えそうなパパに、自分のトーストを突きだした。

 パパが何かを言う前に、ぷくうっと顔のママが言う。

「だーめ。残りはママが使うんだから。それに、いっつもおいしくないって言うじゃん」

「えー、今日こそ、いけそーだもん!」

 ママとパパがトーストにつけるジャムは、ママお手製のオレンジのマーマレイドと、パパお手製のグレープフルーツのマーマレイド。

 月に二回、お休みの日になったら、ふたりでキッチンをせんりょーして、ふたりきりで楽しそうにジャムづくり。しかも、おやつの時間にふたりでおいしそうに試食会。

 そんなの素直に、

 だけど、わたしはマーマレイドが嫌いだから、べつにいいの。でも、ときどき食べられそうな気がするんだよ。はやくマーマレイドを食べられるようになって、わたしもママとパパとジャムづくりしたいもん。

 そう思い、パパが可愛いって言ってくれた、ちょおーかわいい顔をして、おねだりをする。

「ぱぱぁ~、おねがぁ〜い」

 直後、「仕方ないなぁ~」と、へらへら顔のパパが、トーストの隅にちょびっとオレンジのマーマレイドをつけてくれた。

「あーむ」と、わたしはマーマレイドのところをかぶりつくけど、「――うわぁ~、やっぱきら~い」

 甘いより、にがい、が、べろにべったりついちゃって、牛乳で流しこむ。

「ほうらね」とママが言うけれど、まだグレープフルーツのほうを試してない。

 パパが、今度はトーストの隅にちょこっとグレープフルーツのマーマレイドを――、

「――あ、皮はいらん」

 グレープフルーツの皮をのけてもらい、「あーむ」とマーマレイドのところをがぶっと食べたけど、「――ううぇぇ~」

 今度は、甘いよりも、にがいとすっぱいが、べろにびっちりこびりついちゃって、牛乳をごくごく飲み干した。

「だから言ったでしょー。パパのマーマレイドは、大人にならなきゃおいしさが分からないんだから」

 なぜかママが得意げに言う。

「うん? でも、ママもおいしさが分かったのは、りっちゃんが生まれてからって……」

「そ、そのときに、大人の自覚も生まれたんじゃない?」

 ママがふいっと視線を逸らし、気まずそうに、気恥ずかしそうに言った。

「えぇ~、わたしもママとパパとマーマレイド作りたーいー! マーマレイドじゃなくてさあー、いちごジャムつくろぉーよぉー!」

 そうわたしが提案すると、

「それはだーめ」

 と、ふふんと、ママがなぜか勝ち誇ったニヤニヤ顔で、さらには、

「マーマレイドを作ることに意味があるからね」

 と、パパもにっこり笑顔で却下した。

「パパとママの、けちぃー」

「じゃあ、りっちゃんが高校生になって、マーマレイドを好きになったら一緒に作ろう。オレンジだったら食べられると思うからさ。それで良いかな?」

 パパが、食べ終えた食器を持ってシンクのほうへ向かいながら、そう尋ねてきた。

「じゃあー、はやく高校生になるー」

 とムスッと顔で、わたしが言うと、

「いやいや。ゆっくりでいいよ」

 とパパ。それからシンクの水を出し、さっと食器とフライパンを洗い終えると、ママに「ごちそうさま。今日もありがとう」って優しい顔で言う。

 そう言われたママの顔が赤くなる。

「…………」

 なんか、ううぇーって感じ。


「――もぉおおおおおお!」


 わたしは、無性にお腹がイライラして、

「高校生になったら、わたしがパパとママのごはん作るし、」

 いちごジャムを、べったぁ~りとつけて、めーいっぱいに頬張る。

「わたしがパパとマーマレイド作るもんね! パパ、ちょおー約束だよ!」

 右手小指を突きだした。パパの大きな右手小指が、わたしのそれにそっと触れて。

「うん約束。三人でマーマレイド作ろうね」

「ぜったい、ぜったいね!」

「もちろん。――じゃ、お仕事行ってきます」

「いってらっしゃいっ!」

「いってらっしゃい」

「うん。いってきます」

 パパが、お家を出て行った。




 二、おかあさん と わたし



 竹の春取り残された雲浮きて



 今日も逃げる。

「じゃあねー」とか、「はやく部活行こうぜー」とか、生憎、わたしはそういうものに興味がないので、担任の話が終わると、一番乗りに教室を出る。

 静かで薄暗い昇降口。

 上の階からは、みんなの明るい声が聴こえる。

 正直、うるさい。

 なんて、身勝手な不快感を孕ませながら、靴箱の前に立ち、上靴を脱いで、学校指定のスニーカーを取り出した――そのときだった。


「『――』さん!」


 今日もまた、彼がわたしの苗字を、わざわざ階段から叫ぶように呼んで、わたしを引き留める。

 だんっだんっだんっ!

 一段飛ばしで階段を駆け下りる騒がしい音がしたかと思えば、次の瞬間には、はぁはぁ、と小さく呼吸を乱す、てれてれ笑顔の彼が姿を見せた。

 褐色の肌に、髪を流した癖っ毛、か細い腕で、いつも巨大な水筒を持っている彼。

「えっと、あの。――また明日……!」

 情けない笑顔で、彼はそれだけを言った。

 そんな彼を見ているとこっちまで恥ずかしくなってきて、わたしは彼に一礼すると、颯爽と校舎を飛びだした。

 不躾な対応かもしれないけど、これでいい。

 愛着なんて微塵も湧かない中学に入学してから、季節は虚ろに移ろい、やがて葉の燃ゆる様相が映ろうとしている今日。このときまで、彼とのやり取りを(登校日は)毎日やっているわけだから、一礼返せば充分なのだ――などと、靴箱で芽生えた罪悪感を掻き消すために、心の中で言い訳をする。

 ずらりと自転車の並ぶ、がらんと空疎なのに敷き詰められた駐輪場。

 なんの彩もない銀色で簡素な造形のママチャリ、それがわたしの通学自転車。

 赤色ラインのヘルメットを被り、自転車のロックを開錠、それを押しながら校門を出て、急な坂道を、ブレーキを掛けながら下りてゆく。

 坂道を下りると、すぐに現れる県道をしばらく走行。

 一〇分ほど自転車を漕いで、急行が停まる私鉄の駅の、すぐ近くにあるおんぼろアパートに到着。

 その隅の、屋根の付いた狭い駐輪場に自転車を置き、冷たい匂いのするコンクリート階段を上ると、目の前に寂しく冷たい金属の扉が現れる。

 わたしは、防犯警備の薄い鍵穴に鍵を差し込んで、扉を開けた。

「――ぅ……っ」

 もわっと籠った家の臭いに息を止め、自室へ直行。荷物を置き、それからシャワーを浴びて、部屋着をまとう。

 濡れた髪をほったらかしに、剥き出しキッチンへ向かって、小さな冷蔵庫を覗いたら――。

「…………」

 今日の晩ご飯も、もやし多めで豚ひき肉少なめの塩焼きそば。最近は、電子レンジで温める、そんな単純な作業ですら面倒臭くなって、麺が冷たいままの、具材や油が固まったままのそれを無理やり口へ詰め込んだ。

 その後、さっと食器を洗い終えると、ベランダの洗濯物を取り込み、自分の衣類だけを取って部屋の無作為な場所に、ぽいと投げ置く。

 それから洗濯機を回し、下着以外を狭いベランダに、下着をおかあさんの部屋に干す。

 そんな一連の流れを終えたら、部屋に籠って時間が過ぎたら布団に入る。


 毎日毎日、その繰り返し。


 でも、この日は、たまたま目が覚めて、トイレへ行こうと部屋を出ると、甘ったるい匂いが、わたしの鼻を突き刺した。

 剥き出しキッチンとつながっているリビングに明かりが灯っていた。

 リビングへつながるドアの縦長のガラス窓から、そっと窺うと、仕事帰りのおかあさんが、消費期限切れ二日目の食パンを食べながら、ひっそりとマーマレイドを作っている姿が映った。

「――っ!」

 それを見つけたわたしは、本来の目的を忘れて、ばんッ! と、おかあさんに聴こえるよう力強く部屋の扉を閉めた。そして布団に飛び込み、身体を丸め、心にまで布を覆って、ぎゅうっと目を瞑った――。



 朝。おかあさんは、すでに家を出ている。

 朝食は食べない。

 だけど、わたしは冷蔵庫の扉を開けて、その中を覗き込む。

「――ちっ」

 あるものを見つけて、舌を打つ。

 まるでわたしに隠すように、冷蔵庫の奥に佇む、おかあさんが夜中に作っていたふたつのジャム瓶。

 そのふたつのうちの、赤色寄りのオレンジ色のジャムの入った瓶を取り、蓋を開けて、瓶口を下に向けると、シンクへ勢いよく振り落とす。

 ぼたぼたっ、べちゃっ。

 汚く下品に零れ落ちるジャム。

 全部出しきったら瓶を入念に洗って、グレープフルーツの皮が入った、シンクのゴミ受けネットを取り、――ぼとむ! とゴミ袋へと落とす。

「――――」

 口角が、自ずと薄っすら捻くれ上がった。

 最低な行為だって自覚はあるけど、バカみたく過去に取り残されているおかあさんよりはマシだ――と精一杯に思い込む。

 アパートを出ると、空には薄くらい浮雲ひとつ。

 遠くのほうでは、羊雲の群れ。

 念のため、と合羽を取りに戻って、学校へ出発。

 放課後、さよならの挨拶をくれる彼から告白されるなんて、このときはまだ知らない。




 三、お母さんと私



 トキ重ね造花の黄菊孤雌こし寡鶴かかく



 ゆめが消え、その間にあるうつだけ残る。

「…………」

 中二の秋に告白されて、そこから付き合い始めて、ようやくみんなと同じ場所に居られた気がした。

 彼との関係は、すっごく良好だった。

 それはもう運命の人なんじゃないかって、口には決して出さなかったけど、きっとこの人と結婚するんだろうなって浮ついた気持ちに覆われるほど。

 高校も彼に合わせて選択し、特に高校受験の苦労を知ることなく入学。

 高校に入ってからは、平日は、彼の部活が終わる頃に自宅を出て、夜遅くまで公園でおしゃべりしたり、たまに彼の部活が休みになる休日は、少し遠出をしてみたり――この三年、彼との濃密な思い出ばかり。

 というか、彼との記憶しか存在しない。

 なのに、一週間前、彼から突然、「別れよう」って、それだけのメッセージが届いた。

 理解できずに、理由を訊ねる。

 すると彼は、「いつも自分の予定だったり都合だったりに振り回して、それが申し訳なくなって」と――私は微塵も気にしていなかったのに、彼は頑なにそれを云ってきた。

 それで、私的にも想い人にしつこい女だって思われ嫌われたくなくて、渋々それを受け容れた。

 無駄に距離を置かれて話しかけづらくなるより、潔く(?)許容したほうが、いくらかはマシだ。そう思った。

 だけど昨日、彼が他校のサッカー部のマネージャーと付き合い始めたらしいって、噂というか、私に聴こえるように私の席の近くへ寄ってきたサッカー部の生徒ふたりが、それだけを話した後、すぐに去っていった。

 厭らしく口角を上げ、お気の毒になあ、だってさ。

「…………」

 制服は着た。

 学校へ行く支度も終えた。

 天気が良いか外も見た。天気予報では一日中雲ひとつない快晴だって言っていたのに、空は、重苦しい鉛色の雲に覆われ、雷が折々光り鳴いている。今にも大雨が降り出しそうだった。嘘つき。

 それでも学校へ行くため、歯磨きをしようと洗面所へ向かい、鏡越しの自分と対面したときだった。

 彼が長髪のほうが似合っていると言ってくれて以来、ずっと伸ばし続けた髪を鬱陶しく思った。

 無性に、そこに映る自分の姿が惨めに見えて、有情に腹立たしくなって――、

 散髪用のはさみを取り出し、おもい切り、ざくざく髪を切ってゆく。

 長い髪が床に落ち、短い髪が頬に張り付く。

 誤って親指を切った。血が指から溢れ、はさみを染めて、制服に沁み込む。

 それでも切って、切って、切りまくって――!

 仕舞いに、切るのもバカバカしく思えて、顔を上げ、声を上げ、咽び喚いた。

「…………」

 目の前には、惨く醜い女がひとり。

 ようやく現実の見にくさと、私の醜さが合致したように思えた。

 袖で顔を拭うと、洗面台にはさみを置いて、後片付けもせず自室へ籠る。

 今から学校なんて、行く気もしなくて。

 どれくらい経っただろう。

 お腹が鳴った。

 敷布団がべたべたじめじめ、頬に引っつく。

 肌と下着の間が蒸れる。

 気持ち悪い。

 けれど、体勢を変えることすら億劫なほど無気力で、じっと布に包まったまんま。

「…………」

 窓の向こう側から聴こえる、叩きつける雨と、鳴き喚く雷、それと吹き叫ぶ風。

 まるで非現実的な、旺盛に怒り狂った珍しい天気。


 すると、ガチャ! と、玄関扉が開けられた。


 だっだっだっ、との焦燥滲む足音。


 やがて、ドンドン! と部屋の扉が力強く叩かれ、お母さんが私の名前をしつこく叫ぶ。

 ああ、きっと学校から連絡が入ったんだ。

 でも、お母さんの掛け声に応える気など当然なくて、ずっとずっと無視を続ける。すると、ばァんッ! と破壊音が聞こえ、びくっと身体を震わし、反射的に起き上がったときには――汗だくびしょ濡れのお母さんに抱きしめられていた。

 ごめん、ごめんねっ――!

 そうやってお母さんが延々と、そればかりを言ってくる。お母さんが悪いわけでもないのに、なにがあったかも知らないくせに、ずっと距離感のある関係を続けていたくせに、今さら罪悪感を孕んだのか、執拗に謝られても建前にしか思えない。

 やさぐれた思考がお母さんを許さない。ぜったい許してやるもんか。

 でも……、私の首筋にお母さんの涙が伝った。

 そしたら勝手に涙が溢れてきて、お腹に溜まった苦しみが口から出てきて、お母さんを抱きしめ返し泣き喚いていた。

 お母さんに全部話した。話したら、少し気持ちが和らいだ。

 お母さんも少し安堵したらしい。どうやら私がもっと酷いことをされたのではないか、と洗面所の無様な有様を見て憶測が飛躍し、盲目的に決めつけていたみたい。それを聴いたら、薄っすらだけど自然と口角が上がった。お腹が鳴った。

 お母さんの左手の腕時計を見ると、昼手前だった。

「お昼、一緒に食べよっか」

 お母さんが言った。

 私は、照れ臭くも二つ返事で頷いて、ひとまず散らかした洗面所を片付けに向かう。

 お母さんが髪を整えてくれた。でも元が酷かったせいで、相変わらず不細工なまんま。

 トーストの芳純な香りが、久しぶりに鼻腔を撫でた。

 またお腹が鳴った。

 お母さんが目玉焼きを焼いてくれて、コーヒーを淹れてくれて、マーガリンとふたつのマーマレイドを出してくれた。

 緊張しくも、マーガリンをつけずに、まずはオレンジのマーマレイドをべたっとつけて食べてみる。

「おいしい……」

 大人の味だと思っていたそれは、甘いと苦いが混ざり合って――いや、甘い甘いオレンジママーレイドだった。

 お母さんがご機嫌そうに、ふふんと鼻を鳴らして、「そうでしょ」とコーヒーを啜る。

 次に、赤みがかったマーマレイドをべたりとつけて、グレープフルーツの皮を多めに乗せて食べてみた。

「にがっ……」

 大人の味だったそれは、この歳になってもまだ、甘いよりも苦いと酸っぱいが――ううん。必要以上に苦いが強めのグレープフルーツママーレイド。

「パパのを完璧に再現するのは至難の業なのよ……」

 と、お母さんが苦笑して言う。

「へぇー……。」

 不安と怯えを抱えるあまり、無関心そうな返答をしてしまった。

 私は一旦、トーストをお皿に置いて、お母さんを見た。

「……ねぇ、その……、」

 たまに魔が差して、グレープフルーツのマーマレイドを捨てていたことを謝ろうと、それを言いかけたときだった。

「――あたしのはパパのより全然おいしくないもん。仕方ないよ」

 お母さんが、ぎこちなく笑みを浮かべた。

 こんな機会を利用して謝ろうなんて、ずるい気もしたけれど、お母さんのおかげで私の心から怯えが去った。

 改めて、二色のマーマレイドが塗られたトーストに目をやる。

 いたく浸ったママーレイド。

 おもいきり煮詰めすぎたママーレイド。

 ようやく食べられるようになったマーマレイド。

 やっと、パパとの約束が叶うんだ。

 だけど――、


「遅かった……んぐっ、遅すぎたな……」


 コーヒーを薄めてしまった。なのに、コーヒーの苦みは増してゆく。

「この二色のマーマレイドってね、パパとママの大切な想い出なの」

 お母さんが、二色のマーマレイドを作るようになった経緯を話してくれた。聴いたら、甘ったるいだけのラヴラヴな想い出だったから、詳細は割愛するけれど、端的に、割っても割り切れない巨大な『愛』のお話だった。甘すぎたものだから、コーヒーで甘さを抑えた。

「ちょっと待ってて」と、お母さんが立ち上がり、お母さんの部屋のほうへ行ってしまった。しばらくして、目をほのかに赤く染めたお母さんが、薄い黄色の可愛らしい封筒を持ってきて、はい、と渡してくれた。

 渡された封筒を見てみると、封筒の端の方に『――へ』と、パパ特有のかわいい丸文字で私の名前が書いてある。

 封を開けてみる。

 入っていたのは、ひとつ前の古いお札が二枚と、それと、一通の手紙……?

 二つ折りになったそれを広げて見る。そこには、パパの丸文字と、お母さんのポップ調のイラスト。

「――――」

 描かれていたのは、レモンを使ったマーマレイドのレシピだった。

「パパがね、あなたが、いつマーマレイドを好きになってもいいようにって、あなたがお腹にいたときから準備していたんだから。『苦いと甘いがあるんだったら、酸いもないとね』――って不思議な言い訳してね」

「パパ……」

 胸がぼぉっと熱くなる。

 また涙が出てきそうで、でも、泣いちゃダメな気がして、どうにか口角を上げ、お母さんを見た。


「パパって、灰汁が超強いんだね」


 思いっきり、咲ってやった。


「でも、マーマレイドを作るときの灰汁取りは超上手かったのよ」

 お母さんも咲った。

 それから私の知らないパパの話を、お母さんはたくさん話してくれた。

 その後、さっそくレモンのマーマレイドを作ってみることになった。

 お母さんと何年かぶりにスーパーへ行き、手紙に書かれた材料を買って、パパのレシピ通りに作ってみる。

 意外とあっさりできた。

 おかあさんと一緒に、トーストにべったり塗って、あむっと頬張った。

 ふたり同時に口を窄める。

「すっぱ……」

「失敗ね……」

 酸いも甘いも――いや断然すっぱくて、口がぎゅうってなった。

 いきなりすべてを使うには、このすっぱさは無理があるので、トーストの余白には、オレンジとグレープフルーツのマーマレイドを一杯いっぱい塗りたくり、しばらく眺める。

 赤に橙、そして黄色。

 三色のマーマレイド。

「…………」

 心が灼けるように熱かった。

 きっとマーマレイドの食べ過ぎで、胸やけしているせいだ。




 四、私とあなたと



 失くひとよ忘れずわらとびの梅



「――ま、パパの受け売りなんだけどね」

 母が一度、お茶を啜って続きを話す。

「プロポーズの言葉なの。『マーマレイドにからさがないみたいに、酸いも甘いもほろ苦さもあるけれど、ぜったいつらい思いはさせないから、腐っても傍にいてくれませんか』って、得意げな顔してね」

 母が、恥じらいと呆れの交じる顔をする。

「…………」

 妙な感心と可笑しさに、私は、にぃっと口角が上がった。

「へぇー。それで、そんなお父さんの作り出す雰囲気に負かされて、お母さんは返事をしちゃったわけね」

「いやね、そこまで単純じゃないわ。反論はしたのよ。『甘いだけじゃダメなの?』って」

 母が得意げに言う。

 それでも、お断りするつもりはなかったらしい。

 私は心の中で苦笑した。

「――そしたらあの人、

『甘言だけで成り立つ家庭は理想だけれど、苦言を言い合える関係こそ望ましいと思う』って――『甘さばかりを求めるのなら、恋愛止まりで良いわけだしね』って――。

 ……まぁ、そういうことよ」

 なんだか全身がむず痒くなる一方で、

「ふーん。そりゃあ、断るわけにはいかないか」

 両親の出会いを誇らしく思えた。

「なによ、そのにやけ顔。今のあなたは、パパの言葉に共感するしかないくせに」

 少しばかり機嫌を損ねていそうな母の視線が、私の手元へ向いたのに気づく。

「ま、まぁ、それはそう、だけどさ……」

 私は、母から隠すように左手を撫でた。

 ニヤリと悪そうな笑みを浮かべる母。

 じぃっと見られることに気恥ずかしさを覚えた私は、右手で顔を仰いで、「ちょっとベランダで涼んでこようかなー」と勢いよく立ち上がる。

「あら、来客を置いて席を離れるなんて、あなたもずいぶんマイペースね」

 と、そんな言葉とは裏腹に、してやったり顔の母が、美味しそうにお茶を啜る。だから私は、「お互い様だよ」とムキになって言い返す。

「それもそうね」母が微笑し、「いってらっしゃい」と朗らかに見送ってくれた。

「いってきます」

 そう返して、私は、ベランダへ向かった。

 窓を開け、サンダルを履き、外を眺める。

 見渡す限り広がるのは、一軒家が立ち並ぶ住宅街。

 少し離れた位置にあるのは、特急の停まる大きくて綺麗な駅。

 ベランダから外を眺めるたびにかなしい記憶が蘇る。

 でも恨みはしない。だって、これまでの過去が、私を今へと連れてきてくれたんだもの。

 高二のときにフラれて以降、ひたすら勉学に励んだ。母が、奨学金は面倒なだけだからって、お金のことは気にしなくていいと言ってくれたおかげで、実家から離れた、私の学びたかった分野のある遠方の大学へ行かせてもらった。その大学で、先日プロポーズをしてくれた彼と出会って、それなりに良い企業へ就職できて、そして今から一ヶ月後、新しい日常が始まるわけで――。

 …………。

 左手薬指に触れて、「ふぅ――」と一息。

「…………」

 父がいたら、どんな反応をしていただろうなぁ、と少し考えてみる。

 きっと、私たちの前では喜んで歓迎してくれても、母の前ではいじけてそう。

 パパ、わたしには超甘かったからなあ……。


 ――なーんて想いに耽ってみたり。


「…………」

 孤独な白雲が、青空の下を飛んでいる。

 でも、もう悲しくはならない。

 どれほど大切な人と、たとえ不可思議光年離れていても、心では亡くしていないから。

 だから私は、あの白雲に向かって、とびっきりの笑顔を咲かせてみせた。


「マーマレイドは、幸せ味だね!」


 とは言いつつも、父の、グレープフルーツのマーマレイドは、まだまだ慣れない。

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