第二話:終末の夜

 ラグナロクの終わりの光景は炎であったという。巨人スルトが放った炎が世界を焼き尽くし、最後にはすべての世界が水に沈んだという。アースガルズも、ヴァナヘイムも、ニヴルヘイムも。すべてのものが平等に沈んだ。そのまま何もかもが息絶えたと言われているが、そこに例外が一つ…

 苦しい。息が苦しい。思わずハッと目が覚めた。確かわたしは大蛇ヨルムンガンドの尾の一撃を喰らって崖の下に落ちたはずだ。そのまま死んだと思っていたのだが、どうやら兜が犠牲になった代わりに少量の出血で済んだらしい。目覚めたときは水中であった。息が出来ない苦しさに耐えかねて私は水上へ顔を出した。

 顔を出した時、そこには熱気が待っていた。すべてが燃えている。私の身が炎に晒されなかったのは崖の下にまで炎が届かなかったからだろう。ラグナロクはどちらが勝ったのであろうか。我々の勢力であるアース神族の軍勢も、一方敵対する巨人族も見えやしない。共倒れかとも思ったが、まずはわたし以外に生きているものを探す事から始めた。近くに浮いていた巨人族の弓を流木代わりに、生き残りを探す事にした

「スノッリ!ヴァルトヘイゲン!生きているか!!ノーストゥン!キンゲルガル!誰でもいい!返事をしてくれ!!」燃える世界にわたしだけの声がこだまする。この声を聞き届ける味方はいない。絶望的な戦況が私を苦しめた。だが、もっと私を苦しめたのはこの声を挙げても弓を引き絞る音すら聞こえない事である。それは敵さえも死に絶えた事を意味する。今日の日の為にでヴァルハラで鍛錬を行い、この戦で名誉ある死を遂げようと思ったのに、生き延びてしまったのである。生前は誰よりも誇らしい戦士である自分がみじめに終末の世界を見届ける羽目になるとは。自死も考えたが手にしていた斧はあの大蛇の一撃を受けたときに勢いで落としてしまったようだ。どうすることもできないまま、この巨人の弓に跨ってぷかぷかと浮きながら終末を眺めているしかなかったのだ。

 何かが流れてきた。間違いない。味方の兜だ。少なからずともわたしは自らが所属した陣営の方に流れてきているらしい。藁にも縋る思いで兜を引き上げた。しかし私が引き上げたのは希望ではなく死体であった。何もない世界を見ることなく死ねたのはある意味では幸せだったのかもしれない。勇敢に戦い誇りある死を選べなかった自身の身を呪った。だが生き延びてしまった上にまだ戦争が終わったとは限らない。戦士が戦の終わりを見届けずに自死することは許されない。今はとりあえず武器を探さなくては。まだ戦える。いや戦わなくてはならないのだ。引き上げた兜を引継ぎ、水没した世界を漂流し続けた。

 水の流れが速くなり始めた。下の世界に向かいつつあるのかもしれない。巨人の死体が先に流れていくのを見た。このまま落ちてはいけない。このままニヴルへイムへ向かっていけば沈んで溺れてしまうだろう。必死に掴まりながら流れに逆らうように泳いだ。幸い掴まっていた弓が岩場に引っかかったので、流されずに留まる場所を作ることに成功した。流されない事を確認し、水に濡れて冷え切った体を陸に上げた。陸はいまだに燃えている。濡れた体もそのうち乾き、むしろ熱気で焼けそうだった。弓の上に座り、生きているものがいないか探してみることにした。あれは矢傷を受けて、あの顔色は毒にやられたのだろう。巨人も胴を貫かれた者が流れていく。数多もの死が下に流れていくのを眺めていくしかなかった。

 斧が流れ着いてきた、岩場に乗り上げた弓に運よく引っかかった。引き上げてみるとどこか見た覚えがある形状だった。ルーン文字で書いてあるその文字は確かに見覚えがあった。エインヘリヤルとなってから常に鍛錬を繰り広げ、共にゼーリムニルの肉を分け合った「兜割りのスノッリ」の斧に違いなかった。斧には激しい剣戟によってつけられた深い傷がいくつも付けられていた。この傷を受けていながら斧だけ流れてくるということは、彼は戦いの果てに死んだことを示すには十分な証拠であった。これを離したらそれこそ私が生き延びた意味がなくなってしまう。わたしは先に自由になった友の形見をホルダーに携え、この世界の行く末を見守った。

 幾多の死を流れていくのを見届けていくうちに世界を焼き尽くした炎が小さくなってきた。滅びの炎すら終わろうとしている。この炎すら無くなったらわたしは暗闇の中この終わりの見えない流れを見届けなくてはならないのだろうか。いや、わたしが生き延びたのだ。誰か他にも生きているに違いない。エインヘリヤルがこの程度で皆死ぬわけがない。わたしは自分を鼓舞し続けた。まだ戦いが終わったわけではない。生き延びた以上戦わなくてはならない。そう誓っていた所、私はその時起きた一瞬の出来事を見逃さなかった。

 小さな泡が出ている。間違いない。誰かの呼気だ。この流れに沈んでいるがまだ生きている。今飛び込めばまだ助かる。私は体を乾かす為に陸に上がっていた事を忘れて夢中に飛び込んだ。砂利や木片、果ては血によって濁った流れが私を阻んだが、確かに鼓動する命の灯火が私を導いた。夢中になって抱き上げ丘に引きずり上げたが、それは私の戦友でも敵の巨人でもなかった。髪は長く、顔立ちは美しい。無残にもへし折れてはいるが翼のようなものが生えているのを確認した。間違いない。我が主神オーディンの使徒、ワルキューレだ。彼女もこの終末の戦争に挑み、私のように生き残ってしまったのだろう。しかしながらこの乙女にどこか見覚えがあるというか懐かしさを感じる顔立ちを見つめていたら彼女は目を覚まし、こちらの様子を認識した。

「…お前はアドンではないか。今、世界はどうなっている?オーディン様は勝ったのか?」この声を聞いてわたしはその懐かしさの正体に気がついた。お前は、あの時わたしをヴァルハラに導いたイーヴヴェリエではないか。その傷は誰にやられたのだと問うと彼女はそれどころではないと払拭し「我々はこのラグナロクに勝ったのかどうかを答えよ!」と問い詰めてきた。わたしは分からないとしか答えられなかった。私の顔とこの状況を見て、イーヴヴェリエは何となく共倒れになった事を勘付いてしまったのかその後黙り込んでしまった。「無様なものだな。お互い、勇士として選ばれてこの日の為に命を散らす予定だったろうに、滅びの中で生き延びてしまうとは。」イーヴヴェリエが嘆く。だがわたしはこの滅びも長くは続かないと思っていた。世界は滅んだが、決してこれが終わりではない。また何かが始まるであろう。そう答えると諦め気味の彼女は「何処にそんな自信がある?」と悔し涙を浮かべてわたしに聞いた。地を見てみろ。水嵩が減っている。世界の水没も時期に終わり大地がそろそろ見えてくるはずだ。天を見てみろ。全てを焼くスルトの炎が弱まっている。いずれ火は止み、自然の息吹を取り戻すはずだ。わたしは、今までずっと滅びの中での死を求めていたが、長らく滅びの中で生き続けた事によって終末の変化に少しずつ気づくようになった。その一つ一つが希望となり、イーヴヴェリエという"同じ生き延びてしまったもの"を目にして、死ぬわけにはいかないと決心したのだ。「お前はこの暗闇の中でもなお、光を見つけ生き延びて見せようと言うのだな。」まだ戦は終わっていない。わたし達が生き延びて勝鬨をあげるまでは戦は終わっていない。生きるぞ。この滅びの中で。見栄っ張りな意地でわたしは彼女を激励し、生きるよう求めた。「そうか、やはりお前はそう言う男なんだな。生きていた頃と変わらない。無策で、愚鈍で、ただ根拠のない自信だけで人を動かす男だ。それだから私は、お前に惚れ込みオーディン様にエインヘリヤルへ加えるよう進言したのだろうな。」イーヴヴェリエはわたしに手を伸ばした。「足が折れている。すまないが立ち上がるのを手伝ってくれないか。」わたしは肩を貸し、彼女を腰掛けられる場所に動かした。足が折れている彼女のために添え木を作らなくてはならない。何かないか探していると、ちょうどさっきまで捕まっていた巨人の弓と、戦友スノッリの斧があった。

 腰に巻いていたベルトで彼女の脚を固定し、肩を貸した。その間にも世界は動き、滅びも終わりつつある。スルトの炎は消え始め、煙で燻され続けていた空は星が見えるようなった。水は引き、大地が見え始めた。「それで、これからどうするんだ?」イーヴヴェリエが問う。分からないが歩き続けよう。太陽が昇っていた場所を目指せば何かあるはずだ。足幅を合わせてそう答える。「もし私たち二人だけしかいなかったらどうする?」続けて聞いてくるが私の心は既に決めていた。

 「お前と一緒に世界をやり直すさ。今は黄昏だが、暁はいつか来る。」

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