第2話 ダンジョンの夜と残業勇者
田中はゴブリンたちを手早く配置すると、急いで監視用のアーティファクト・千里珠(せんりだま)を手に取り、ダンジョンの入り口を映し出した。
「……やっぱり茜さんだ……」
映像に映るのは、和菓子屋「幻魔庵」の常連である茜の姿。手にはスーパーの袋を提げており、どうやら夕食の買い物を終えた帰りのようだ。
「勤め帰りにダンジョン攻略とは……タフすぎませんか」
田中は冷や汗をかきながらぼやいた。
だが、その映像の中で茜は――
その場で防具に着替え始めたのだ。
「田舎だからって油断しすぎですよ……」
長い髪をポニーテールにまとめ、ブラウスから動きやすいインナー姿に。そして豊満な胸を隠すように軽鎧を身にまとい、腰には鋭く輝く剣がしっかりと装備される。装備を確認した茜は、すっと剣の柄に手を置き、意気揚々とダンジョンへ足を踏み入れた。
「これは……本気ですね。穏便に追い返さないと……」
田中は額に手を当てながら、慎重に妨害を開始した。
茜がダンジョンに足を踏み入れると、内部は驚くほど静まり返っていた。
「……静かすぎるわ。気配がまったくしない?」
石壁に囲まれた薄暗い通路を、茜は剣を構えたまま慎重に進んでいく。その靴音だけが小さく響く中、突然、ダンジョン全体がわずかに揺れた。
――ゴゴゴ……
「えっ!? これは……」
茜の前方で、壁が静かに動き出した。一直線だった通路が突如として曲がり角へ変わり、左右に分岐し始めたのだ。
「通路が動いてる……!? これは迷路!? しかも勝手に形が変わってるじゃない!」
驚きながらも、茜の目は輝き、構えをさらに引き締める。
「ふふっ……面白い。こういうの、嫌いじゃないわ!」
茜は迷いなく前に進むものの、ダンジョンの通路は進むたびに形を変え、すぐに先が塞がったり、逆方向へと導かれる。
その頃、田中はアーティファクト・幻路盤(げんろばん)に手をかけ、ダンジョン全体の構造を操っていた。
「……これで、帰ってもらいましょう」
指先を盤面に滑らせると、古びた盤に淡い青白い光が広がり、ダンジョンの構造がさらに複雑化していく。自然と入り口へ戻るよう誘導していく。
「これで茜さんも帰ってくれるはず……」
茜は剣を手にしながら迷路の中を進んでいたが、ついに息をつき立ち止まる。
「……どういうこと? 入り口へ戻ってきた? ……もぅ、仕方ないわね。今日のところは引き上げましょう」
茜は剣の柄を軽く叩き、スーパーの袋を拾い上げると振り返った。
「……なかなか手強いダンジョンじゃない。また来るからね!」
そう呟きながら、茜は闇に包まれた田舎道を去っていく。
田中はほっと息をつき、幻路盤の光を消す。
ダンジョンには再び静寂が戻った。
「ふぅ……何とか帰ってもらえましたね」
ゴブリンたちは小さく拍手し、スライムはぷるんと弾む。
ミノタウロスも満足げに頷いた。
田中は魔物たちに向かって微笑みながら、つぶやいた。
「みなさん、本当にお疲れさまでした。これからも平穏に暮らせるように、もっと良い対策を考えなきゃいけませんね……」
昼下がりの和菓子屋「幻魔庵」
今日も常連客や地元の住民で賑わう店内。その一角に視線を向けると、見慣れた背中が目に入った。
――茜だ。
カウンター席に座る茜は、春子が淹れた湯気の立つお茶を手に、どこか満足そうにその香りを楽しんでいる。
「田中さん、こんにちは。ちょうど話したかったの」
振り返った茜は、にこりと微笑んだ。
その笑顔には、どこか鋭さも混ざっている。
「茜さん、こんにちは。どうしたんですか?」
田中が穏やかに声をかけると、茜はくるりと椅子を回し、勢いよく田中の前に立ちはだかった。
「ダンジョンのことよ!」
田中は内心で「やっぱり」とため息をつく。
「ちょっとおかしいと思わない? 魔物の気配がまったくしなくて、通路の構造が途中で変わるなんて……普通じゃないわよね?」
茜の目は真剣そのもので、田中の心臓が一瞬跳ねる。
「そ、そうですか? でも、魔物がいないなら安心じゃないですか。たまたま変わった構造の洞窟だったんじゃないでしょうか?」
「いいえ、あれは絶対アーティファクトの仕業よ!」
茜は一歩も引かず、強い口調で言い切る。
田中は冷や汗を感じながらも、笑顔を浮かべたまま応じた。
「僕にはちょっと……分かりませんね。そんな珍しいもの」
「でも田中さん、東京にいた頃はダンジョン探索者の勇者だったんでしょう?」
田中の動きが一瞬止まり、微妙な表情になる。なぜよりによって茜に過去の経歴を知られているのか。おそらく、春子さんあたりが好意で話したのだろう。
「どうして田舎に引っ越してきたのかは聞かないけど、経験者なら分かるはずよ。あのダンジョン、絶対何かがおかしいわ」
「ええ、まあ……昔は少しダンジョン攻略をしていましたけど、今は引退してただの和菓子で働く庶民ですから」
「ふーん……そう言いながらも、何か隠してそうね」
茜の鋭い視線が田中に突き刺さる。
そんな緊張感を和ませるように、春子の朗らかな声で割って入った。
「まあまあ、茜ちゃん、田中くんも困ってるみたいだから、これでも食べて落ち着いて」
春子が差し出したのは、蒸したての新作饅頭。湯気が立ちのぼり、ほのかな甘い香りが漂う。
「新作? これは楽しみね! いただきます!」
茜は嬉しそうに饅頭を手に取り、一口かじった。
「……おいしい。ふわふわで甘さも絶妙ね」
春子が嬉しそうに頷く。
「でしょう? 実はその餡には、特別な豆を使ってるのよ」
茜は饅頭を食べ終えると、湯飲みを手にして改めて田中を見つめた。
「ごちそうさまでした。でもね、田中さん――次こそ絶対にあのダンジョンを攻略するから。その時は協力してよね!」
田中は苦笑いしながら、手を軽く上げる。
「できる範囲でお手伝いしますよ。でも、茜さんも無理はしないでくださいね」
笑顔で見送ったものの、田中の頭には次の展開への不安がよぎっていた。
「さて……どう対応すればいいですかね……」
その夜、田中のダンジョン内に小さな警戒音が響いた。
田中はパジャマ姿のまま、ゴブリンに揺り起こされる。
「……ええっ? こんな時間に来たのですか?!」
目をこすりながら時計を見ると、日付が変わったばかり。
田中は寝ぼけ眼のままアーティファクト「千里珠」を手に取り、入り口の様子を映し出す。
映像には、いつもの常連客――茜が写っていた。
「茜さん……残業終わりにダンジョンなんて、ハードワークすぎますよ……」
そこには、茜が防具に着替え終わり、血走った目でダンジョンへ足を踏み入れるところだった。
田中はすぐに魔物たちに指示を出す。
「皆さん、準備お願いします! 攻撃は絶対に禁止ですよ。とにかく面倒だと思ってもらって帰ってもらいましょう!」
魔物たちが配置につき、田中は慎重にダンジョン全体の作戦を開始した。
アーティファクトの存在を疑われたので、魔物たちの連携で追い返す作戦だ。
その名も「スリップスライム作戦」を決行することにした。
ダンジョンに足を踏み入れた茜は、剣を手にしながら慎重に進んでいた。
「今日こそ、攻略してやるんだから……!」
その時、前方の通路で、ゴブリンが小さな石を転がす音が響いた。
カラカラカラ――
「……おっと? 何かいるわね」
茜はすぐに警戒し、音の方向を見つめる。音は道の奥へ遠ざかっていく。
「誘ってるのかしら……いいわ、行ってみましょう」
茜がその道を進んだ瞬間、足元にスライムたちが待ち構えていた。
ぷるん、ぷるん――
「わっ! 滑る!? うわぁぁっ……!」
スライムが通路全体を覆い、床はぬるぬるとした滑り台のようになっていた。茜はバランスを崩し、あっという間に滑り出す。
「な、何これ!? ぬるぬるするっ……!?」
慌てる茜が必死に姿勢を立て直そうとするも、スライムは次々と滑りやすい通路を広げていく。茜の足元は完全に制御不能だ。
そして極めつけに、ミノタウロスが追い討ちのようにスライムをぽいっと投げつけた。
「きゃああっ!? もう、何なのこれぇぇっ!!」
勢いよく滑り込んだ茜は、壁にぶつかってようやく止まるが——
――ゴゴゴゴ……
手をついた壁が鈍い音を立て、ゆっくりと動き始めた。
「これは……隠し扉!?」
茜は息を整えながら、目の前の扉を見つめる。
「こんなところに通路があるなんて……やっぱりこのダンジョン、普通じゃないわね」
一方、大広間で監視していた田中は、茜が隠し扉を発見した瞬間、心の中で悲鳴を上げた。
「ええっ!? どうしてこんなところに隠し扉が!?」
近くにいたゴブリンは首を振る。
どうやら存在すら知らなかったようだ。
しかし、茜は扉の前で立ち止まり、しばらく考え込んでいた。
そして、ふと腕時計を確認する。
「もうこんな時間……明日も朝早いし、今日はこれで終わりにするしかないわね」
未練たっぷりの表情で隠し扉を見つめた茜は、ゆっくりと剣を鞘に収めた。そして、足元のぬるぬるを拭いながら出口へ向かい、歩き出す。
「でも場所は覚えたから! 次こそ絶対に攻略するからね!」
その声が通路に響き、茜は闇に包まれた出口へと消えていった。
「ふう……何とかなりましたね」
田中は大きく息を吐き、額の汗を拭う。ゴブリンたちは「お疲れさま!」とでも言うように笑顔を浮かべ、スライムは小さく弾み、ミノタウロスは棍棒を肩に担いで満足げに頷いている。
田中は天井を見上げ、小さく呟いた。
「隠し扉だなんて……本当にダンジョンは油断できませんね」
静けさを取り戻したダンジョンの中で、田中は次なる対策を考え始めるのだった――。
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