復刻版6「だから、それでも僕は生きていくⅡ!」~「こころの病」を患う主人公たちの秘話6選(2)~

林音生(はやしねお)

【1】 涙の成人式

 私には、⼤学に⼊学したばかりの娘がいる。名前は愛花(まなか)。もうすぐ20歳(はたち)になり、成⼈式を迎えることになる。そのときに愛花が私に何を⾔ってくるか、非常に楽しみである。

 愛花が⽣まれた時は、私たちは共働きだったので、妻が育児休暇を取り、しばらく愛花を付きっ切りで育てた。その後は、仕事中は、愛花のことは妻の会社内の託児所に預けることにした。


 あるとき、私たち夫婦は、託児所の先⽣に呼び出された。なんでも、最近、愛花の様⼦がおかしいとおっしゃるのである。詳しく話をお聞きしてみると、託児所の⼦供たちとはほとんど話さないし、⼣⽅になると、ヒステリックになって、

「パパ、ママ帰りたい!」

 と泣きじゃくって叫ぶのだそうだ。先⽣は続けて、

「この⼦、⼩児性の神経症か、何かじゃないでしょ うか? お医者さんに連れて行かれた⽅がよろしいのでは?」

 とおっしゃる。私は、

「そんな⼤袈裟(おおげさ)な!」

 と思ったが、⼝には出さず、ともかく今⽇のところは、そのまま愛花を連れて帰った。


 帰宅後、ちょっと愛花に訊いてみた。

「愛花、託児所は楽しくないのか?」

「うん。」

「そうか。じゃあ、パパの会社の託児所に来るか?」

「……。」

 返答がない。やはりそういうことではないのだな。困ったな。


 愛花を寝かせてから、これからどうするか妻と話し合った。妻は、愛花のためなら会社を辞めてもいいと⾔う。

「しかし、君は今の仕事に、最⾼のやりがいを感じているのだろう。それを簡単には⼿放せなくはないか?」

「いいえ、⼤丈夫よ。それに、今、あの⼦のことを最優先にしないと、⼿遅れになるわよ。」

 妻の⾔い分はもっともだった。もし、託児所の先⽣のおっしゃることが本当なら、病院に連れていくのはもちろん、何よりも、あの⼦の寂しさを埋めてやらねばならん。


 こうして愛花の託児所⽣活は終わりを迎えた。今後は妻が専業主婦となって、愛花を⾒ていてくれる。⽗親として私は、何もしてやれないのはもどかしいが、せめて、仕事が休みの⽇にはたっぷり遊んでやろうと思う。

 それから、愛花を医者に連れていった。確かに神経症の兆(きざ)しらしきものは⾒られるが、⼦供にはよくあることだ、というレベルだし、まだ⼤丈夫だろう、とのことだった。私たちはホッとして、それぞれ愛花を抱き抱えた。

 ただ、続けてドクターは、

「今後の育ち⽅によっては、症状が顕在化(けんざいか)することもありえますので、⼀応、気にはかけておいてください。」

 とおっしゃる。私たちは今後、できる範囲ではあるが、最⼤限の配慮をしよう、と⼼に誓(ちか)った。


 愛花は⼩学校に⼊ると、ある⽇、いきなり、

「お絵かきを習いたい!」

 と⾔い出した。なんでも美術の授業で、先⽣のお⼿本を⾒て、

「私、それ描きたい!」

 と思ったらしいのである。

「ほんとにやりたいの?」

「うん!」

 愛花は目をキラキラさせて答える。どうやら本気のようだ。

 妻と話し合ってみたが、あの⼦の精神衛⽣上のことを考えたら、何か夢中になれるものがあった⽅がいいと⾔う結論になった。そこで、私が画材を買いに⾏き、妻には美術の先⽣を探してもらった。そして、翌週から愛花を美術教室に通わせた。

 お絵かきに夢中になるようになってからは、愛花の精神状態はかなり安定しているように思う。以前ほどヒステリックになることはなくなったし、気分の波も⼩さくなったように思える。やはり、何か熱中できるものがあるということは、精神の安定につながるようだ。


 その後、愛花は順調に育っていたのだが、中学2年⽣の時のこと。愛花は、いじめに遭(あ)っていると⾔って、私に泣きついてきた。物理的な被害を受けるほどの、陰険なものではなかったみたいだが、毎⽇、確実に愛花の精神は蝕(むしば)まれていった。

 これはまずい! なんとかせねば。私はすぐさま、近くの私⽴中学のパンフレットを取り寄せた。

「幸い愛花は、頭はいいから、この学校なら試験に通るだろう。」

 愛花に話を持ちかけたところ、乗り気だったので、すぐさま⼿続きを進め、愛花を受験させたのである。愛花は狙い通り合格し、転校することに成功した。転校先の私⽴中学では、いじめに遭(あ)うこともなく、精神状態も安定して、卒業を迎えることができた。


 ⾼校は、そのままエレベーター式で、同じ学校法⼈の⾼校に進んだ。ただ、勉強のレベルが、愛花には⾼すぎたようで、美術の成績はさすがに良かったものの、「英・数・国・理・社の5教科」に関してはボロボロだったのである。

 しかも、なぜか友達が全くできなくて、クラスに溶け込めず、愛花は塞(ふさ)ぎ込んでしまった。せっかく安定していた精神状態が、⼤いに崩れてしまったのである。

 私は愛花に、勉強に熱中するよう勧め、

「塾に通わないか?」

 と提案したのだが、この時、愛花が取った選択は、「美術部」に所属して毎⽇、絵を描くことだった。

 まぁ、それで落ち着いてくれるのであれば、何も⼝出しをするつもりはなかったのだが、愛花は予想外の⾏動を起こした。毎晩、帰ってくるのが、早くても11時を過ぎるようになったのである。

 しかも、気持ちよく帰ってくるのかと思いきや、毎晩、ものすごい欲求不満を抱えているようだった。 愛花の精神状態はもう最悪で、毎⽇荒れ放題だった。

 美術部の活動⾃体は早く終わるのだが、終わってから「付き合い」と称して遊び倒し、家に帰ってきたら、私たちにさんざん当たり散らした挙句、そのまま⾃分の部屋にプイっと上がっていく。翌朝は⼝もきかずに、パンをかじったまま学校へと出かけていく。

 私は何度も、そんな部活はやめろ、と⾔い聞かせてきたが、無駄だった。私は毎⽇、やりきれない思いだったし、それはきっと、愛花も同じことだったであろう。


 愛花は⾼3になって、やっと部活をやめる決⼼がついたようだ。本⼈も、今の⽣活を続けることが⾃分の精神衛⽣上、良くないことは重々承知だったであろうし、学⽣本来の責務である勉強のことも気になりだしたようである。愛花は⾃ら、

「塾に通いたい。」

 とまで⾔い出したのである。私は喜んで愛花の望み通りにしてやった。

 しかし、⼤学受験まで残りわずか1年とあっては、時間があまりにもなさすぎる。愛花は、この2年間、ほとんど勉強を放置して、部活に明け暮れていたのであるから、今から受験勉強を始めたところで、「焼け⽯に⽔」で、受験にはとても間に合わないだろう。

 そこで、私は愛花に、普通の⼤学にこだわらずに、「得意分野」に進んでみてはどうかと提案した。愛花は、幼いころ美術教室に通っていたし、また、つい最近まで美術部に⼊っていたくらいだから、絵を描くのは⼤の得意である。

 愛花は納得し、美⼤の受験を目指すことにした。美⼤であれば、5教科の勉強は、そんなに⾼いレベルは要求されないはずだから、残り1年でもなんとかなるだろうと思ったのである。実技試験に関しては、美術部の顧問の先⽣に、愛花の腕前をうかがったところ、

「問題なく通るでしょう。」

 とのことだった。

 ところが、愛花は試験に落ちてしまったのである。5教科の1次試験で落ちてしまい、実技試験には進めなかったのである。

「ああ、やはり1年では難しかったか。美⼤を⽢く⾒ていたな。」

 と私は反省した。愛花の精神状態が非常に⼼配だったが、意外とケロっとしている。⼀応、

「⼤丈夫か?」

 と声をかけたが、

「うん、だって来年また受けるし。」

 と、えらく軽い⼝調なので参ってしまった。まぁ、もともとそうさせてやるつもりだったし、いいか。


 私は、妻と愛花と3⼈で、来年度の予備校選びに取り掛かるのであった。

 予備校について、愛花は、

「どうせなら⼀流の予備校がいい!」

 と⾔うのであるが、受験するのは美⼤なのだから、5教科の勉強にはあまりお⾦はかけたくない。むしろ、そのお⾦で美術を習わせてやりたかった。その思いを愛花に伝えると、

「じゃあ、予備校はリーズナブルなところにしましょ。」

 と答える。妻も納得したようで、

「じゃあ、決まりね。」

 と笑顔でうなずいた。


 愛花は、予備校と美術の学校にダブルスクールで通い始めた。予備校は、今までの学校⽣活とはうって変わって、格段に楽しいものであるようだ。

「みんなまじめに勉強してて、こっちもやる気になるのよ。明⽇から毎⽇、⾃習室に通うわね。」

 と⾔っていたものである。

 美術の学校の⽅はどうかというと、もともと好きなことを勉強しているので、全く苦にならないようだ。おかげで浪⼈⽣時代は精神状態が乱れることはなく、順調な様⼦だった。

 そして、受験は、今回は成功だった。第1志望の美⼤ではないものの、愛花の希望の美⼤に⼊ることができたのである。


 ⼤学に⼊ってからは、5⽉病をかなり⼼配したのだが、私の完全な取り越し苦労で、愛花は毎⽇機嫌よく、学⽣⽣活をエンジョイしていたのである。今度こそ、好きなだけ好きなことができるので、5⽉病も何のそのだったわけである。


 そして、愛花は先⽇、20歳の誕⽣⽇を迎え、今⽇は成⼈式である。振袖姿はなんとも美しく感動的で、私は思わず涙してしまった。もちろん、これはただの涙ではなく、この20年の間、愛花の「こころ」と向き合ってきた「私の思いの結晶」である。

 そんな私を⾒て、愛花は⾔う。

「お⽗さん、ありがとね。私は《こころ》が弱くて苦労ばっかりかけてきたけど、いまこうして毎⽇楽しく過ごしていられるのも、お⽗さんのおかげなんだから!」

 私は⼀気に感情がこみ上げ、声を上げて泣き出してしまった。私は涙目のまま⼤きく⾸を何度も縦に振った。


 愛花はこの先も、様々な困難に⾒舞われるだろう。でも私がそばにいてやれる間は、できる限りのことをしてやりたい。 そして、願わくは、誰かいい⼈が愛花を迎えに来て、私の役目の後を引き継いでくれたら本望である。


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