第10話 温かい雪
昨夜から降り続いた雪は、膝の高さまで積もっている。
このまま降り続いたら、朝には町の中の何もかもが埋め尽くされてしまいそうだ。
「凪、今日は休んだら?」
出勤の準備をしている凪に渉が言った。
「ううん。予約の患者さんがいるし。休診にするなら、ちゃんと連絡しなきゃ。」
「凪の他にも看護師がいるだろう。」
「そうだけど、みんなお子さんいる人達だから。」
「足立は?」
「土曜日は休みだし。」
渉は凪を外に行かせたくなかったが、凪は車で行くのは危ないから、歩いていくと言って玄関を出た。
風に乗ってきた小さな雪の粒は、頬に突き刺さってくる。
「送っていこうか?」
田嶋が外に出てきた。
「大丈夫。それに今日は歩いて行った方がいいよ。」
凪は空を見上げる。
「やっぱり休んだら?」
渉は凪の腕を掴んだけれど、
「行ってくる。」
凪は雪の中に消えていった。
渉は雪の降り積もった車を見ると、急に体が寒くなり家に入った。
こんな日くらい、休んでもいいのに。
感染症が流行する季節。
朝早い時間には多くの患者が待っていたが、雪がひどくなるにつれ、やってくる人は減ってきった。
午後2時の診療時間が終わる頃には、事務職員も、凪の他の看護師の2人も、先に家に帰っていた。
心理士の足立は今日は休みだった。
「松岡さん、気をつけて帰るんだよ。」
院長と副院長はそう言うと、凪は診療所を後にした。
雪がひどくなり、歩道を歩くことができなかった。除雪した上に、うっすらと雪が乗る車道の上を、凪はゆっくり歩いていた。
車がくると端に避け、時々強い風が吹くと、前が見えなくなり歩くのを止めた。
家まで帰る事だけを考え、自分の体に積もっていく雪が体温を奪っても、あと少しあと少しと前に進もうと言い聞かせた。
ふと、反対の車道に雪に埋まり動けなくなっている車があった。
車のタイヤのあたりを雪かきしている人影に近づくと、
「手伝いますか?」
凪は声を掛けた。父もそうやって、吹雪の日には雪に埋まっている車を助けていると言っていた。こんな日に車に出掛けてようなんて、本当はとても危険な事なんだと。
「すみません。エンジン掛けてもらえますか?」
雪にまみれたその人が凪に言うと、
凪は運転席に乗った。
エンジンを掛けると、懐かしい歌がカーステレオから流れた。凪はゆっくりとアクセルを踏む。
滑りかけたタイヤが雪の溝から抜け出すと、凪は車を降りて男性の前にきた。
「どうもありがとう。」
男性が帽子をとって凪にお礼を言うと、
「平岡くんなの?」
凪は見覚えのあるその顔を見つめた。
「松岡なのか?」
脩は凪の事に気がついた。
「どうしたの、仕事?」
「そう。市民体育館除雪に行った帰り。」
「そっか。大変だったね。気をつけて。」
凪は雪の中を歩き出した。
「松岡、」
脩は凪の腕を掴んだ。
「平岡くん、早く帰った方がいいよ。今晩はますます雪が強くなるらしいから。」
凪はそう言うと、脩に手を振った。
「乗れよ。」
凪は首を降ると、平岡は腕を掴んで無理矢理助手席に乗せた。
「ほら、」
車から出ようとした凪を抑えると、平岡は凪にシートベルトした。
「平岡くん、いつも勝手だね。」
凪はそう言って俯いた。もっと早くに会いたかった。全部、自分が悪いのに。
「松岡、髪切ったのか?」
「うん。」
「それでも、やっぱり松岡のままだな。」
平岡は車をゆっくり走らせた。さっきの懐かしい曲が流れると、高校生だった頃の思い出が甦る。
凪はひとつ呼吸をおくと、
「私は別の場所に帰ろうとしてたの。だから、平岡くんとは、もう、」
そう言った。
「そっか。松岡もそういう人ができたんだな。」
平岡は車をそのまま走らせていた。
「ここで降りる。歩いて帰るから。」
凪が言うと、
「向こうはさっき通行止めになったよ。大きな事故があったみたいだな。」
脩が言った。
「嘘つき!」
凪は携帯を取り出した。通行止めの情報を確認すると、脩が言っている事が現実だと知ると、凪は途方にくれた。
「家にくるか?」
凪は首を振った。
「解除になるまで、診療所にいる。」
凪はそう言って、渉に連絡をしようとした。
「松岡、」
脩は凪の携帯を伏せた。
「何?」
「飴持ってるか?」
脩がそう言うと、凪は鞄の中から冷たくなった飴を出した。
「俺、この飴好きなんだよね。」
脩はすぐに飴を口に入れた。
「腹減ってたから、今日は特別に甘いわ。」
脩の膨らんだ頬を見た凪は、鼓動が速くなった。
「ずるいね、平岡くん。」
脩は手を握った。
「未だに赤い手袋してるのか。」
脩の手の上に、凪の涙がこぼれた。
「松岡の涙は温かいんだな。」
脩が言った。
「平岡くん、ごめん。」
凪は涙を手袋で拭った。
「何辛くなってるんだよ。」
言葉が見つからない凪は、手袋で顔を覆った。
「ちゃんと話しをしようか。じゃないと、俺はずっと松岡の事を振ってやる事ができないぞ。」
脩はそう言った。
「バカ!」
凪は手袋で顔を覆ったままそう言った。
脩の家に着くと、脩の母の
「あら?」
凪を見て不思議そうな顔をしている美佐江に、
「車が埋まったら、助けてくれたんだ。彼女の家の方は通行止めになったから、今日は泊まっていくよ。」
脩がそう言った。
「解除になったら帰ります。ご迷惑おかけします。」
凪は頭を下げた。
「今日はずっと雪なのよ。泊まっていってよ。私も仕事が休みになって、脩と一緒に晩ご飯を食べようと思っていたところ。ご家族にちゃんと連絡しておいてね。帰ってこないと心配するから。」
美佐江はそう言うと、冷蔵庫を覗き込んだ。
「松岡、こっち。」
凪は案内された脩の部屋の隅で、渉に電話を掛けた。
「凪、心配してたんだ。今どこにいる?」
田嶋がずっと心配していたのが、声の様子でわかる。
「ごめんなさい。友達の家。通行止めが解除になったら、急いで帰るから。」
凪はそう言った。
「そっか。それなら友達に頼むしかないね。解除になったら、すぐに迎えに行くから。」
凪は電話を切ると、目を閉じた。友達と言った相手が男性だったと知ると、渉はどんな顔をするだろう。
凪は携帯を握りしめると、膝を抱えた。
「松岡、そんなに辛いのか?」
田嶋が言った。
「辛いよ。すごく辛い。」
凪がそう言うと、脩は凪の頬を包んだ。
「彼氏の事がそんなに好きなら、たくさん自慢話しを聞かせてくれよ。」
脩は凪に言った。
「大好きだよ。すごく優しいし、大人だし、」
「それで?」
「大切にしてくれるし、いろんな事を教えてくれるし、」
「あとは?」
「もっとたくさんあるよ。すぐには言葉にできないけれど、」
凪はそう言って脩を見つめた。
「松岡は幸せなんだな。」
脩は凪の頭を撫でた。
「下に行こうか。もうすぐご飯ができるから。」
「なんて名前なの?」
ご飯を食べながら、美佐江は凪に名前を聞いた。
「松岡です。」
「下の名前は?」
「凪です。」
「静かな名前ね。脩とはどこで知り合ったの?」
凪は脩の顔を見つめると、
「凪さんは脩とよく似てるわね。」
美佐江が言った。
「松岡とは同級生だよ。」
脩がそう言うと
「本当に?脩が幼いのかな、凪さんは少し上かと思った。」
美佐江は言った。
「昔から変わってないよ。少し髪を切ったくらいで。」
脩が言う。
「女の人はね、いつも現実を見てるからね。」
美佐江は凪にお茶を注いだ。
「すみません。入れてもらって。」
凪が美佐江に言うと、
「そんな時は、ありがとうっていうのよ。笑って言ったくれたら、すごくかわいいのに。」
部屋に戻り、携帯を見ていると、浴室から戻った脩がやって来た。
「松岡、隣りの部屋が空いているから、そっちを使えよ。」
脩はそう言った。
「うん。」
凪は脩から着替えをもらうと、浴室へ行った。
シャワーを浴びて脩が言った隣りの部屋に向かうと、脩がストーブをつけていた。
「しばらく人が入ってないから、少し寒いかもな。」
脩はそう言った。
「平岡くん、ありがとう。」
凪がそう言うと、
「通行止めは今晩一晩中続くかもな。心配して待ってるだろうから、彼氏にそう言っておけよ。明日の朝、バスターミナルまで送っていくから、そこに迎えに来てもらえばいいだろう。」
脩はストーブが赤々と燃えるのを確認すると、凪の方を見つめた。
「ここに来た事も、昔の事もみんな忘れてやるからさ。松岡の事なんか、最初から好きじゃないよ。自分と似てるところがあったから、からかっただけ。」
脩はそう言って笑った。
「ちょっと待って、私は平岡くんから振られたの?」
凪が言った。
「そうだろう。振られたんだよ。」
脩がそう言うと、
「振ったのは私の方。平岡くんは、私に失恋したんだよ。」
凪は微笑んでいた。
「松岡、それじゃあ俺、立ち直れないよ。」
脩が言った。凪はストーブの前に来た。
「けっこう前、病院で会ったじゃない。救急外来の所で。」
「ああ、あの時、仕事中に腕の骨を折ったんだ。同期の女の子が病院に付き添ってくれて、凪に情けない姿を見られたのが恥ずかしくてね。」
「そうだったの、そうなんだ。てっきり隣りの人は平岡くんの彼女で、私の事は邪魔なんだと思ってた。」
凪がそう言った。ストーブを見つめる凪の横顔が、脩には昔のまま、強がっているように見えた。
「松岡、今、幸せか?」
「何を急に。」
「幸せならいいんだ。」
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